天龍 源一郎(1950年2月2日 )
日本の元大相撲力士、現プロレスラー。本名は嶋田
源一郎。福井県勝山市出身。身長189cm、
体重120kg(力士時代は身長186cm、体重110kg)。多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、第一線で活躍し続け日本プロレス界において
「生ける伝説(Living
Legend)」として、一目置かれる存在である。
タイトル
全日本プロレス
- 三冠ヘビー級王座
- 世界タッグ王座
- アジアタッグ王座
- PWFヘビー級王座
- UNヘビー級王座
- インターナショナル・タッグ王座
- PWF世界タッグ王座
新日本プロレス
WAR
ハッスル
WJ
海外
- ミッドアトランティックタッグ
- NWA世界6人タッグ
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NOAH・ハッスル参戦
2005年初頭から、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの、当時は馬場元子が認めなかったとされる。ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕が出来、参戦が実現した。7月18日のノア・東京ドーム大会では元付き人の小川良成と対戦し勝利を収めた。
他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮﨑豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。また、DRAGON GATEにも参戦し、WAR時代の元付き人であるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。2005年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテイメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。
2006年7月27日には、6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。
2007年10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。2008/3/14、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。 |
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フリー時代
1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年に全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった)、11月には長州と組んでWMGタッグを奪取したものの、WJは経営が迷走。WJを離脱した。 |
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SWS/WAR
1990年横浜文化体育館大会において、鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱しSWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWS在籍中には、SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッションと対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。SWS崩壊後、1992年7月WARを設立、新日本との対抗戦に活路を見出した。1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により、1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。1994/1/4の東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちしたことのある唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し、藤原喜明、北尾光覇を撃破。1998/1/14後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得。この試合は天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に、「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。 |
1995/1996/1997/1998 |
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入団と共に渡米しファンク道場で修行、1976/11/13にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12/5、日大講堂においてリング上で断髪式を行う。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれたり、ジャンボ鶴田とのタッグを組まれたりしたが、体格はプロレス用に絞っており威圧感が無かったことや、技術が伴っていなかったこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。当時、「全日本第3の男」と呼ばれていたものの、人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低いものだった。タイガー戸口が全日所属だったときは、戸口よりも格下扱いであった。1981/7/30、ビル・ロビンソンとのタッグで馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦したことを契機に何かを掴む。実際、この試合以降は天龍の評価も急上昇し(天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っている)、世界王者への挑戦権も獲得した。この頃から、ライバル団体である新日本プロレスの総帥アントニオ猪木に遠慮して使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、全日本で異彩を放つようになっていく。それまでは紫のタイツを使用していたが、この頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという、現在まで続く天龍のスタイルに変更。リッキー・スティムボートを破りUNヘビー級のタイトルを獲得。さらに長州力率いるジャパンプロレスの参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田に匹敵する程の人気も得た。1986/10/2、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成すると、続いて天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めでピンフォールを奪った。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。 |
1985/1986/1987/1988/1989/1990 |
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<1979/1980/1981/1982/1983/1984 |
1984 |
天龍源一郎 ジャンボ鶴田 vs スタン・ハンセン ブルーザー・ブロディ |
2/2 |
1983/12 |
天龍源一郎 vs ブルーザー・ブロディ |
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1983/3/1
秋田 |
天龍源一郎 vs 上田馬之助 1/2 |
2/2 |
1983 |
天龍源一郎 ジャンボ鶴田 vs スタン・ハンセン ブルーザー・ブロディ |
2/2 |
1982/7/22
和歌山 |
天龍源一郎 vs 上田馬之助 1/2 |
2/2 |
1982/6/8
蔵前国技館 |
天龍源一郎 ディック・スレーター vs スタン・ハンセン 上田馬之助 1/2 |
2/2 |
1982
横浜 |
天龍源一郎 石川敬士 vs ドリームマシン ジプシー・ジョー 1/2 |
2/2 |
1981/7/6
愛知 |
天龍源一郎 ジャンボ鶴田 vs タイガー・ジェット・シン ボビー・ヒーナン 1/2 |
2/2 |
1980/10
USA |
天龍源一郎 vs リック・フレアー |
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