本文へスキップ
管理サイト
 YouTube / superatoys  FC2動画 / superatoys FC2 ブログ / superatoys 
サイト内検索

お勧め
DMM.com DVD通販、レンタルなどの総合サイト
DMM.com AKB48 LIVE!! ON DEMAND
DMM.com 動画 アイドルチャンネル

































yahooオークション ヤフオクで売れているブロディ関連商品

ブルーザー ブロディ / ジミー スヌーカ おまとめ動画集

ブルーザー・ブロディBruiser Brody
本名:フランク・ドナルド・グーディッシュFrank Donald Goodish、1946年6月18日 - 1988年7月17日)
アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州デトロイト出身。

全日本プロレスや新日本プロレスに参戦し日本でも活躍した外国人トップレスラーの一人であり、人気・実力共に高く評価されている。

タイトル

  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / スタン・ハンセン)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・タッグ王座:3回(w / マイク・ヨーク、ジノ・ヘルナンデス、ケリー・フォン・エリック)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:4回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:3回(w / ケリー・フォン・エリック)
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):6回
  • WCWA TV王座:1回
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / アーニー・ラッド)
  • SCWサウスウエスト・ブラスナックル王座:1回
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / ディック・スレーター)
全日本プロレス
  • インターナショナル・ヘビー級王座:3回
  • PWF世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン) ※初代王者


エピソード

リング上では超獣ギミックを一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びには定評があり馬場や鶴田も認めていた。「プロレスはチェスのようなもの」と語っていた。

試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『週刊プロレス』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に「今回のインタビューは3週連続で掲載してくれ」と提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてこのインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。

ブロディは日本人選手の中でジャンボ鶴田を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウェイトを落として臨んだという(2000年春ごろのサムライTVでの鶴田追悼番組において百田光雄が証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは「長州力はしょっぱい。鶴田の方が断然優れている」とまで語っている。

一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、WWWF時代のゴリラ・モンスーンを始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。WWFには『1984』への参加を表明していたものの実現せず、その後も何度となく契約が噂されたが、ビンス・マクマホンはブロディとビジネスをしようとはしなかった。トラブルが無かったのは、若手時代に世話になったダラス地区のフリッツ・フォン・エリックくらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた(レスラー兼プロモーターだったビル・ワットのことらしい)頃から彼のプロモーター嫌いが始まったといい、馬場のような普通なら信頼に値するはずのプロモーターでもブロディは信じていなかったという(だが、馬場を信頼しなかったのは1985年までのことで、1988年4月の『週刊プロレス』インタビューにおいて、ブロディは「馬場を裏切ったことは本当に失敗だった。馬場に申し訳ないことをした」と悔いていた)。

また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした武藤敬司は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。初めて会話した際にいきなり「お前の試合はしょっぱい」と言われたとのこと。

なお、ブロディはアメリカ遠征中の日本人レスラー・米良明久に「ダラスでヒールのできる日本人を捜している」とダラス転戦を助言、米良はダラスでヒールレスラー「ザ・グレート・カブキ」に変身し、大活躍することとなった。結果として、ザ・グレート・カブキ(及びザ・グレート・ムタ)誕生のきっかけにブロディが絡んでいることになる。

アントニオ猪木が一番扱いに困ったレスラーがブロディであったと語っている。ブロディは試合直前にギャラアップを求めることがあり、アップしないなら試合に出ないと理不尽な要求を猪木に叩きつけていた。猪木は出られないのは困るからとそれをいつも仕方なく承諾していた。のちに猪木はブロディについて「自分の物差ししかない男」と回想している。それを物語ってか、新日本プロレス参戦時は日本人選手にシングルはおろか、タッグ戦でもピンフォール負けを許さなかった。逆に全日本プロレス参戦時はジャイアント馬場とジャンボ鶴田にのみシングル戦でピンフォール負けを喫している(馬場には2回、鶴田には1回)。

ブロディは毛皮を巻いたレスリングシューズを使用していた。一見、超獣ギミックを演出するための手法と思われるが、馬場によると、足首に傷があり、それを保護するためだったという。また、ブロディは逞しい上半身や太腿に比べて膝下が細いため、それを隠すためとも言われている。

バイオグラフ

1968年夏、NFL球団「ワシントン・レッドスキンズ」入団するが、膝の故障から3年で引退。その後、朝刊紙「ダラス・モーニング・ニュース」のフットボール・コラムニストとなる(生計を立てるために、酒場の用心棒などもしていたという)。

やがてフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、1972年にヒューストンでプロレスラーとしてデビュー(一説には1973年デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。エリックの主宰するダラス地区を主戦場に、ルイジアナやオクラホマなどミッドサウス・エリアにも転戦してキャリアを積む。

1974年10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとルイジアナ地区でコンビ結成。テキサス出身のハンセンに合わせ、出身地を同じ南西部のニューメキシコ州アルバカーキとし、リングコスチュームもハンセンのテンガロンハットに対しグーディッシュはソンブレロを被っていた。同年12月にUSタッグ王座を奪取するが、翌1975年7月に陥落しタッグを解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」へ改称。その後、シングルプレイヤーとして多くのローカル・タイトルを獲得した。

1976年7月、「ブルーザー・ブロディ」に改名してニューヨークのWWWFへ参戦。同年9/4と10/4、マディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して知名度を高め、メインイベンターとしての地位を築く。ちなみに当時のWWWFには、同年4/26に首折り事件を起こしたスタン・ハンセンも共にサーキットしていた。また、当時は新日本プロレスとWWWFの提携が本格的に開始された頃であり、1977年1月に予定されていたアントニオ猪木のMSGにおける対戦相手候補としてハンセンとブロディの名前が挙がったこともある。当時の日本のプロレス専門誌には「一番強い奴とやりたい。サンマルチノの首を折ったハンセンが一番強いかというと、あれは偶発的なものでハンセンの実力じゃないという声もある。どうもブルーザー・ブロディというのが一番骨があるらしい」などという猪木のコメント記事が載っていた。結局、猪木のMSG登場は延期になり、この対戦は幻に終わっている。77年にはWWWFとの提携ルートでハンセンが新日本プロレスに来日しているが、ブロディの新日本登場は実現しなかった。

1977年、ダラス地区に凱旋。同年1/3にフリッツ・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得する。その後、インディアナポリスのWWAに参戦し、1978/9/11にはディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」でWWA世界ヘビー級王座を奪取した。

1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。以後このベルトを巡ってドリー、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと名勝負を繰り広げる。1982年、スタン・ハンセンと、日本にてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビで年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者となった。

1985/3/21、新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍し、来日。以前新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜き、それに怒った全日本がタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを新日本から引き抜いた事も含め、日本の2大団体の関係がさらに険悪となる。アントニオ猪木とは、7度シングルマッチで対決(2勝1敗4分けでピンフォール決着は一度もなし)。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、仙台での決勝戦出場をボイコットし、突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる(新日本はスヌーカとはその後に和解)。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」、「藤波辰巳&木村健吾に勝たせたかった」、「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等というブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、新日本プロレスと和解しかけるが、自ら来日直前にキャンセルし、再度、新日本プロレスから、永久追放を宣言される。

この間、本国アメリカではダラスを拠点に主要テリトリーを転戦し、ジョージアではブラックジャック・マリガン、フロリダではダスティ・ローデス、テネシーではジェリー・ローラー、AWAではサージェント・スローターなど各地のトップスターと対戦。他地区では常にヒールのポジションだったが、古巣であるダラスでは、1980年代からはエリック・ファミリーの助っ人的なベビーフェイスとして活躍した。また、同じテキサスのサンアントニオ地区(SCW)でも善玉となり、トップ・ベビーフェイスのワフー・マクダニエルとタッグを組んだことがある(しかし、プロモーターからの束縛を嫌ってか、特定の地区を長期間サーキットすることはほとんどなかった)。また、1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートしたWWFの全米侵攻への参加も噂され、新日本移籍時の記者会見でも新WWF王者ハルク・ホーガンへの挑戦をアピールしたが、結局は実現しなかった(新日本側は当初、ブロディの新日本登場はWWFからのブッキングであったと発表していたが、もともとブロディにはWWFからのオファーはなく、新日本側がブロディ引き抜きの大義名分として、当時提携関係にあったWWFを隠れ蓑にしたともされている)。

1987/10/2、全日本・新日本の2大プロレス団体間の、レスラーに対する「引き抜き防止協定」が足かせになっていたが、新日本プロレス側の違反から、ブロディはリストからはずされ、全日本プロレスに復帰来日。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの最初で最後の対戦が実現した。

1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックの仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合い、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていった。
1988/7/16、プエルトリコ・バイヤモン市にあるバイヤモンスタジアムでのWWCの興行中、同団体のボス、カルロス・コロン(現在WWEで活躍しているカリートの実父)とのトラブル発生。カルロスの配下である、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスに、ドレッシングルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7/17、出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリンの副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。また、興奮剤を服用していたのが裏目に出たともいう。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し(命を脅かす脅迫をされたり、出廷要請の通知が届かなかったりしたため)、結局、ホセ・ゴンザレスは無罪判決を得ている。


ジミー・スヌーカJimmy Snuka、本名:ジェームズ・レイアーJames Reiher
1943/5/18 )は、フィジー出身のプロレスラー。アメリカや日本で活躍し、跳躍力を活かしたハイフライムーヴによりスーパーフライSuperfly)のニックネームを持つ。

養子のジミー・ライアー・ジュニアもプロレスラー(デュースの名でWWEに登場しタッグ王座も獲得、後にシム・スヌーカのリングネームで活動)。なお、第一次UWFに来日したジャック・スヌーカはジミー・スヌーカの弟を名乗ったが、単なるギミックで血縁関係はない。
タイトル

シングルタイトル
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:6回
  • NWAテキサス・ヘビー級王座(ダラス版):1回
  • NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):1回
  • ECW世界ヘビー級王座:2回
  • ECW世界TV王座:1回
  • WWF Hall of Fame:1996年度(プレゼンターはドン・ムラコ)
タッグタイトル
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:6回(w / ダッチ・サベージ)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / ドン・レオ・ジョナサン)
  • NWAテキサス・タッグ王座(ダラス版):1回(w / ジノ・ヘルナンデス)
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / ポール・オーンドーフ、レイ・スティーブンス)
    • スティーブンスは1983年にWWF入りし、かつてのパートナーだったスヌーカを裏切り者扱いして抗争を展開した。
  • NWAナショナル・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / テリー・ゴディ)
    • 両者は1981年にジョージア地区のGCWでタッグを組んでおり、パートナーのゴディに合わせスヌーカもテンガロンハットを被っていた



 全日本プロレス
1988
大阪
ブルーザー・ブロディvs vs 天龍源一郎 2/2  
1988/6/10 ブルーザー・ブロディvs vs 谷津嘉章 2/2  
1988 ブルーザー・ブロディvs vs 谷津嘉章 2/2  
1987 ブルーザー・ブロディvs ザ・ムーンドックス vs
タイガーマスク 中野信市 高木功
2/2  
1985/3/9
両国国技館
ブルーザー・ブロディキラー・ブルックス vs 長州力 谷津嘉章    
1985
秋田
ブルーザー・ブロディvs キラー・ブルックス vs キラー・カーン 永源遙    
1984  ブルーザー・ブロディ エディ・モレッティ vs ジャンボ鶴田 石川敬士 2/2  
1983 ブルーザー・ブロディvs ジャンボ鶴田 2/2  
1983/3/3
ミネソタ
ブルーザー・ブロディvs リック・フレアー/2/6/3/6/4/6/5/6/6/6
1982/4/22 ブルーザー・ブロディ ジミー・スヌーカ vs ザ・ファンクス 2/3 3/3
1982/4/21
千葉
ブルーザー・ブロディvs vsドリーファンク Jr. 2/2  
1981/12/13
日本武道館
ブルーザー・ブロディ ジミー・スヌーカ vs ザ・ファンクス 2/3  3/3 
1981/11/27
後楽園ホール
ブルーザー・ブロディ vs ハリー・レイス    
1981/11/30
愛知
ブルーザー・ブロディvs vs テリー・ファンク 2/2  
1981/10/9 ブルーザー・ブロディvs vs ドリー・ファンクJr. 2/2  
1981/4/10
広島
ブルーザー・ブロディvs vs アブドーラ・ザ・ブッチャー    
1981 ブルーザー・ブロディvs ジミー・スヌーカ    
       
       
       
       
       
       
       
 
 新日本プロレス
  ブルーザー・ブロディ vs ディック・マードック 2/3 3/3
1985/12/20
愛知
ブルーザー・ブロディ vs 藤波辰巳 2/2  
1985/12/6
両国国技館
ブルーザー・ブロディ ジミー・スヌーカ vs
ディック・マードック マスクド・スーパースター
2/2  
1985/11/22
郡山
ブロディ vs マードック 2/2  
1985/10/18
後楽園ホール
ブルーザー・ブロディ vs ランボー・サクラダ    
1985/8/2
大阪
ジミー・スヌーカ vs 藤波辰巳 2/2  
1985/7/26
弘前
ジミー・スヌーカ vs 木村健吾 2/2  
  ブルーザー・ブロディ トレーニング    



 海外編 - ブロディ
  ブルーザー・ブロディ vs Dick Slater    
  ブルーザー・ブロディ vs Harley Race    
  ブルーザー・ブロディ vs Texas Red    
1982
サン・アントニオ
ブルーザー・ブロディ vs Nick Bockwinkel    
1987/2/28 ブルーザー・ブロディ vs Abdullah The Butcher 2/2  
  ブルーザー・ブロディ vs Leon White    
1984/11 ブルーザー・ブロディ vs Crusher Blackwell    
1984/3 ブルーザー・ブロディ vs Bruce Dean    
  ブルーザー・ブロディ vs Jim Brunzell 2/2  
  ブルーザー・ブロディ Kerry Von Erich vs The Freebirds    
  ブルーザー・ブロディvs vs InvadorⅠ    
1985/5/20 ブルーザー・ブロディvs vs Jerry Lawler 2/2  
1987 ブルーザー・ブロディvs vs Boris Zurkhov    
  ブルーザー・ブロディvs vs Bruno Sammartino    
  ブルーザー・ブロディ vs Abdullah The Butcher    
1986/5/13 ブルーザー・ブロディ vs Leon White  2/2   
  ブルーザー・ブロディ vs Abdullah The Butcher Last Match    



 
 海外編 - スヌーカ
1982/11/22
MSG
ジミー・スヌーカ vs Captain Lou Albano    
  ジミー・スヌーカ vs KING KONG BUNDY    
1983
MSG
ジミー・スヌーカ vs Don Muraco 2/2  
1978 ジミー・スヌーカ vs Buddy Rose 2/2  
  ジミー・スヌーカ vs Rowdy Roddy Piper 2/2  
  ジミー・スヌーカ vs Pedro Morales 2/2  
1989 ジミー・スヌーカ vs Honky Tonk Man 2/2  
  ジミー・スヌーカ vs the undertaker    
  ジミー・スヌーカ vs Rick Rude    
  ジミー・スヌーカ vs Haku    
  ジミー・スヌーカ Andre the Giant vs Wild Samoans    
1985 ジミー・スヌーカ vs Cowboy Bob Orton jr    
1985
ボストン
ジミー・スヌーカ Hulk Hogan vs Don Muraco Bob Backlund 2/2  
  ジミー・スヌーカ vs Bob Backlund 2/4 3/4
4/4  
       
       
       
       
       
 その他 - ブロディ 
ブルーザー・ブロディ interview Tony Atlas Speaks Of ブルーザー・ブロディ's Death Hacksaw Jim Duggan talks about ブルーザー・ブロディ ブルーザー・ブロディ promo
 
ブルーザー・ブロディ Interview 1 ブルーザー・ブロディ Interview 2 ブルーザー・ブロディ Interview 3  
ブルーザー・ブロディ ブルーザー・ブロディ All Man blackjack mulligan / ブルーザー・ブロディ interview wccw ブルーザー・ブロディ promo #8 ブルーザー・ブロディ promo #4
ブルーザー・ブロディ promo #9 ブルーザー・ブロディ promo #4 ブルーザー・ブロディ promo AWA ブルーザー・ブロディ video
スタン・ハンセン  
ブルーザー・ブロディ vs El Exotico (Brody last match) ブルーザー・ブロディ Theme Immigrant Song スタン・ハンセン ブルーザー・ブロディy Theme Sunrise/Immigrant Song  
 その他 -スヌーカ 
Piper's Pit with ジミー・スヌーカ ジミー・スヌーカ Theme WWF Piper's Pit: Mr.T (w/ Hulk Hogan ジミー・スヌーカ) 1 Piper's Pit: Mr.T (w/ Hulk Hogan ジミー・スヌーカ) 2
       
       









  ページトップ
 
inserted by FC2 system