本文へスキップ
管理サイト
 
YouTube
YouTube / superatoys

 
FC2動画
FC2動画 / superatoys

 
ブログ
 FC2 ブログ / superatoys


JPOP年代別ヒット曲
”J-Hits Club"

J-hits Club


ディスコ ソング
おまとめサイト
”Maria Club"
Maria Club

サイト内検索

Twitter
twitter
お勧め



DMM.com AKB48 LIVE!! ON DEMAND





DMM.com 動画 アイドルチャンネル


 



































18禁サイト

2candys.com 広告


バイアグラ・レビトラ・シリアス 広告


アダルト動画、DVD通販などの総合サイト


大人のおもちゃ通販


大人のおもちゃ通販




 
yahooオークション クリックで簡単検索!
今、売れている
”アブドーラ・ザ・ブッチャー”
関連商品は何?

アブドーラ・ザ・ブッチャー おまとめ動画集
ジャイアント馬場戦はこちら
アントニオ猪木戦はこちら

アブドーラ・ザ・ブッチャーAbdullah The Butcher
カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身のプロレスラー。本名はローレンス・ポール・シュリーブLawrence Paul Shreve)、一般にはラリー・シュリーブLarry Shreve)。ニックネームは「黒い呪術師」。入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。

プロレス界を代表する悪役レスラーの一人。来日回数は140を超えており、歴代外国人レスラー最多である。

生年月日は長らく1936/1/1とされており、ジャイアント馬場も「ブッチャーは自分より年上だ」と語っていたが、実際は1941/1/11。親日家としても知られ、現夫人は日本人と韓国人のハーフである。



現在(2001年-)

2001年の『ジャイアント馬場三回忌追悼興行』(東京ドーム)を機に、三度全日本に復帰。同大会ではキマラと組み、テリー・ファンク、大仁田厚組と対戦した。

武藤敬司社長体制になってからも参戦している。2002年にはテリーとのタッグが実現。2003年には武藤やボブ・サップらと「チームW-1」を結成し、RO&Dと闘った。自身と同じくプロレス・格闘技の枠を越えて人気者となったサップを非常に気に入っており、インタビュー等ではしばしば「私の息子だ」と語っている。WRESTLE-1では2度にわたりSATA...yarnこと佐竹雅昭と対戦し、いずれもフォール勝ち。2005年のW-1では中嶋勝彦からも勝利を奪い、健在ぶりを見せつけた。

2007/5/9にハッスルに参戦し、芸人RGと対戦して勝利。12月には『世界最強タッグ決定リーグ戦』に12年ぶりに参戦、鈴木みのるとタッグを組んだが、勝ち点8で優勝決定戦進出はならなかった。同期間中IWA・JAPAN にも出場、ミックスドマッチでダンプ松本とのタッグが実現した。2008/1/2の『新春シャイニングシリーズ』における恒例のバトルロイヤルでは優勝を果たしている。

2009/7/19、神戸ワールド記念ホールにて開催されたDRAGON GATEの『真夏の祭典』に登場、ハリウッド・ストーカー市川より2分34秒でピンフォールを奪った。同7/26の『ハッスル・エイド2009』(両国国技館)でタイガー・ジェット・シンとのコンビを20年ぶりに復活させ、HG&RG組と対戦するも仲間割れ。7/30の遺恨決着戦(後楽園ホール)では、お互い1度もリングに上がることなく両者反則に終わった。

2010/1/4、新日本プロレス『レッスルキングダムIV IN 東京ドーム』に参戦。新日本マット登場は25年ぶり。矢野通、飯塚高史、石井智宏と組み、テリー・ファンク、長州力、蝶野正洋、中西学組と対戦。飯塚と仲間割れして地獄突きを見舞い、テリー組の勝利をアシストする形になった。2/11、『大阪ハリケーン2010』で大阪プロレスに初参戦、8人タッグマッチに出場した。3/22、DRAGON GATE『COMPIRATION GATE 2010』に出場し、オープン・ザ・トライアングルゲート選手権で曙と初対戦。望月成晃にフォール負けを喫した。7/11、DRAGON GATE『KOBEプロレスフェステイバル2010』では曙と初タッグを結成。お笑いサバイバル・ハンディキャップドリームマッチに出場した。同7/18日には東京愚連隊主催で来日40周年記念興行『BUTCHER FIESTA~血祭り2010~』を開催。鈴木みのると組み、藤原喜明、NOSAWA論外組と対戦した。


2010/1/4
東京ドームレッスルキングダムⅣ
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs テリー・ファンク    
2009/7/19
神戸ワールド記念ホール 
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ハリウッド ストーカー市川    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs さたやん(佐竹雅昭) 2/2  
  Team W-1 vs ROD    
       
       
       
       
       

インディペンデント団体参戦期(1996-2000年)

1996年、東京プロレス(第二次)に突如移籍すると、かつての凶器攻撃、流血戦が復活。同団体では高田延彦との異次元対決が実現した。1997年には天龍源一郎率いるWARに参戦し、北尾光司と巨漢タッグを結成。1999年から戦場としたグレート小鹿の大日本プロレスでは、BJW認定デスマッチヘビー級王座を獲得した他、アブドーラ小林との師弟対決が話題となった。


1996/10/8
大阪
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs 高田延彦    
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

ネットで借りる、プロレス/格闘技レンタルはDMM
DMM.com CD&DVDレンタル


全日本プロレス復帰(1987-1996年)

1987年に全日本プロレス復帰。TNTとのコンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦した。ファンからは復帰を歓迎され、どの会場でもブッチャー人気が爆発して、全盛期であった1980年頃を彷彿させる大「ブッチャー」コールも起きるようになった。

1988年にはタイガー・ジェット・シンとの「凶悪タッグ」が復活。ブルーザー・ブロディ追悼試合ではスタン・ハンセンと対戦し、ブロディのチェーンで互いの額を叩き割る大流血戦となった。1990/9/30の「馬場デビュー30周年記念試合」においては馬場と初タッグを結成し、ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント組と対戦。馬場の左大腿骨骨折からの復帰戦の相手も務めた。その後、鶴田とのタッグも実現した。

1990年代前半にはジャイアント・キマラとのタッグが定着。ベビーフェイスに転向し始め、空手パフォーマンスや試合後のお辞儀で人気を博す。馬場同様に第一線からは退いて「楽しいプロレス」を担当するようになり、前座で観客を暖める役割を担った。





1991 アブドーラ・ザ・ブッチャー キマラⅡvs スタン・ハンセン ダニー・スパイビー 2/2  
1990
日本武道館
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs タイガー・ジェット・シン 2/2  
1989 アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シン vs ジャンボ鶴田 高野俊二    
1989 アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シン vs ダイナマイト・キッド デイビー・ボーイ・スミス    
1989 アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シン vs スタン・ハンセン 天龍源一郎 2/2  
1988
鹿児島
アブドーラ・ザ・ブッチャーグレッグ・ブラウン vs 谷津嘉章 ジョン・テンタ    
1988
千葉
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ジャンボ鶴田 2/3 3/3
1988 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs 輪島大士 2/2  
1988
古賀
アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シン vs 輪島大士 高木功    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs スタン・ハンセン 2/2  
1988
大阪
アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シン vs スタン・ハンセン テリー・ゴディ 2/2  
1988
足柄 
アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シン vs 天龍源一郎 川田利明 2/2  
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs 輪島大士    
       
       
       
       
       
       
       

ネットで借りる、プロレス/格闘技レンタルはTSUTAYA



新日本プロレス参戦期(1981-1985年)

1981年、新日本プロレスに移籍。新たにアントニオ猪木を標的とする。移籍の名目は「IWGP参戦」であったが、実際にリーグ戦にエントリーされることはなかった。

新日本ではバッドニュース・アレン、S・D・ジョーンズと「黒い恐怖軍団」を結成し、猪木や坂口征二らとの抗争を開始。タッグながら初代タイガーマスクとも対戦した。1982年1月の猪木とのシングルマッチはアレン乱入による反則負けに終わっている。猪木との試合はかみ合わないことも多く、その後はやや精彩を欠く存在となった。

1982年4月にはハルク・ホーガンとシングルで対戦、両者リングアウトに終わるも、強い印象を残した。さらにはワフー・マクダニエル、ダスティ・ローデス、ディック・マードックといった強豪レスラーとも対戦している。ラッシャー木村との共闘、仲間割れによる抗争アングルも組まれた。

この当時のことを新日の営業部長であった大塚直樹が回想しているが、「IWGPにエントリーさせなかったのは自分(大塚)の判断」(IWGPの次のシリーズの目玉外人にしたかったから)、「地方興行の際、タニマチとの宴会に嫌がらず参加してくれた」など、プロとしてフロントとの関係が良好であったことが明かされている。その証拠として、移籍時に交わした契約どおりのギャラが契約切れまできちんと支払われたと自著で述べている。


 
1983/7/7
大阪
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ディック・マードック 2/2  
1983 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ダスティー・ローデス    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvsディノ・ブラボー    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvsバッド・ニュース・アレン    
1981/8/14 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs 藤波辰巳  2/2  
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ハルク・ホーガン 2/2  
       

DMM.com AKB48 LIVE!! ON DEMAND


日本プロレス参戦期(1970-1972年)

1970年、日本プロレスの8月興行『サマーシリーズ』で初来日。日本ではほぼ無名の存在であったが、開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、東京スタジアム大会での馬場との初シングルでは、それまでにない桁外れの場外戦を繰り広げるなど、シリーズが進むにつれて人気が沸騰。最終戦ではシリーズのエースであったカール・ハイジンガーに代わって、馬場の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。

その後1971年、1972年と2年連続『ワールドリーグ戦』にアフリカ代表として参戦、1971年大会では優勝決定戦に進出するなど、一躍大物の仲間入りを果たした。

全日本プロレス参戦期(1972-1981年)

1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。

馬場との対戦は全日本プロレスのドル箱カードとなり、その抗争は延べ20年の長きに渡った。PWFヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座などをめぐり、数々の死闘を重ねた。ブッチャー自身、「馬場との闘いはすべてが記憶に残っていて、すべてに満足している」「馬場というライバルがいたからこそ、私は日本の観客がなにを望んでいるか理解でき、彼らを喜ばすための技術を向上させることができた」と語っている。

1972年、デストロイヤーが日本陣営に加わると、彼との抗争を開始。初期の全日本プロレスを支える人気カードとなった。1974年の『第2回チャンピオン・カーニバル』では、3回の再試合が行われたが決着がつかず、両者失格。USヘビー級王座をめぐる一連の闘いは、お互いに隠し持った凶器で攻撃する凄惨なものとなり、足4の字固めを狙うデストロイヤーに対し火炎攻撃を繰り出したこともあった。

1975年12月の『オープン選手権』では、ハーリー・レイスの左肩を脱臼させ、途中棄権に追い込んだ。さらに翌日の「力道山十三回忌追善特別大試合」(日本武道館)では、「頭突き世界一決定戦」と題された大木金太郎戦の試合前、欠場の挨拶をするレイスを急襲し因縁に火がつく形となった。1976年5月、『第4回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で馬場を下し初優勝。このリーグ戦における大木とのシングルマッチ(日大講堂)にレイスが乱入、エキサイトのあまり会場を飛び出してのストリートファイトとなり結果、交通機関を麻痺させる騒ぎを起こし警察沙汰となった。川崎体育館で行われたレイスとの決着戦は、ブッチャーのキャリアの中でもトップクラスの大流血戦となり、ノーコンテストに終わった。

1977年の『世界オープンタッグ選手権』ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させ、ザ・ファンクスと抗争を展開。12/15に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスVSブッチャー・シーク組の最終戦は、とりわけ壮絶な試合展開となった。ブッチャーがテリー・ファンクの右腕に凶器のフォークを突き立て、テリーが兄ドリー・ファンク・ジュニアを救出すべく左ストレートを連打する場面は多くのファンに記憶されている。その模様が日本テレビの全日本プロレス中継(同年12月24日放送分)にて全国に中継されたために反響も大きかった。苦情や抗議の声も寄せられたという。しかし、日本のプロレス史の中でも名勝負として語られるほどの記念碑的な試合となった。

1978年10月にはビル・ロビンソンを破り、PWFヘビー級王座を奪取。馬場を相手に1度防衛に成功するが、翌年2月のシカゴにおける再戦で敗れ、馬場に奪還されている。

1979年5月、『第7回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で鶴田を破り2度目の優勝。同年8/26、新日本プロレスのトップヒールであったタイガー・ジェット・シンと組み、『プロレス夢のオールスター戦』(日本武道館)で馬場・猪木組と対戦した。同大会を挟んで行われた『ブラック・パワー・シリーズ』ではミル・マスカラスと抗争、執拗に覆面を剥ぎにかかるが、決着戦は両者リングアウトに終わっている。同シリーズで実現したボボ・ブラジルとの「黒人最強コンビ」は馬場、鶴田を苦しめたものの、最終戦で仲間割れした。同年10月にはレイ・キャンディとのコンビでインターナショナル・タッグ王座に就いている。

1979年12月、『世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦で、地獄突き誤爆に怒ったザ・シークの火炎攻撃を受け仲間割れ。以降は1970年代にカルガリー地区で流血の抗争を展開したキラー・トーア・カマタとコンビを組み、シークとは幾多の流血戦を繰り広げた。1980年、『第8回チャンピオン・カーニバル』ではレイ・キャンディとミステリアス・アサシンを配下に、テリー、ディック・スレーター、テッド・デビアスらファンク・ファミリーと軍団抗争を展開。同年10月には鶴田からUNヘビー級王座を奪取している。


 
1981/4/10
広島
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ブルーザー・ブロディ    
1980/12/1 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ザ・シーク 2/2  
1979 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ワフー・マクダニエル 2/2  
 1979 アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ミル・マスカラス ドス・カラス 2/2  
1979/11/30  アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ワフーマクダニエル フランク・ヒル    
1979/9/6
滋賀 
アブドーラ・ザ・ブッチャー カルロス・コロン ボボ・ブラジル vs ジャイアント馬場 ジャンボ鶴田 ミル・マスカラス 2/3 3/3
1979/8/22
札幌
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ミル・マスカラス 2/2  
  アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ザ・ファンクス 2/3 3/3
1978/12/15
札幌
アブドーラ・ザ・ブッチャーキマラ Ⅱvs ニック・ボックウインクル ブラックジャック・ランザ 2/2  
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs テリー・ファンク    
1978  アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ザ・ファンクス 2/2  
1977/12/14
大阪
アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ビル・ロビンソン ホスト・ホフマン    
1977/10/10 アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs 大木金太郎 タイガー戸口    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs Gジャイアント馬場    
  アブドーラ・ザ・ブッチャートーア・カマタ Vs ザ・シーク & グレート・メフィスト    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ドン・レオ・ジョナサン    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ザ・デストロイヤー    




来歴

ネイティブ・アメリカンの父とアフリカ系アメリカ人の母の間に生まれる(専門誌やプロレス団体のパンフレットではスーダン出身と自称している。実際には母方の祖父がスーダンに住んでいたことがあるだけ)。少年時代は柔道と空手に熱中した。

1961年、デトロイト地区のプロモーターであったジャック・ブリットにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンス」、「ゼーラス・アマーラ」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャー」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。また、海外武者修行中のサンダー杉山ともしばしばタッグを組んだ。

1960年代はカナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座(バンクーバー版)を獲得し、10月から11月にかけてはジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。モントリオールでは1969年にイワン・コロフからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。1970年にはスチュ・ハートの主宰するカルガリーのスタンピード・レスリングでビル・ロビンソンと北米ヘビー級王座を争った。

1970年代前半はアメリカの五大湖地区を拠点に活動。1972年6月24日には、オハイオ州アクロンにてアーニー・ラッドを破りNWF世界ヘビー級王座を獲得。ザ・シークの牛耳るデトロイトでは、ボボ・ブラジルを相手にNWA世界タッグ王座やUSヘビー級王座を巡る抗争を展開した。

南半球にも遠征し、1973年11月にはオーストラリアにおいてNWA世界ヘビー級王座に挑戦。王者ジャック・ブリスコからフォールを奪うも、ラフファイトが反則とみなされ王座は剥奪、幻の戴冠となった。ニュージーランドでは、1974年3/12にジョン・ダ・シルヴァを破り英連邦ヘビー級王座を獲得している。

1970年代半ばからは日本を主戦場としつつ、現在のホームタウンであるアメリカ南部のジョージア地区に進出、ジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのトップ・ヒールとなり、1975/2/21にはロッキー・ジョンソンからNWAジョージア・ヘビー級王座を、1977/2/11にはトニー・アトラスから同TV王座をそれぞれ奪取した。

1980年代は日本遠征の合間を縫って、エディ・グラハム主宰のフロリダ地区やジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区など当時のNWAの主要テリトリーにも特別参戦。フロリダではダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエル、ブラックジャック・マリガンらと遺恨試合を展開した。ミッドアトランティックでは1983/11/24の『スターケード』、1985/7/6の『グレート・アメリカン・バッシュ』、それぞれの第1回大会に出場している。

また、この時期には日本参戦と並行してプエルトリコのWWCにも頻繁に遠征。同地の英雄カルロス・コロンやブルーザー・ブロディらと血の抗争を繰り広げた。ブロディ最後の対戦相手はブッチャーである。

1991年にはWCWに登場。同年10/27の『ハロウィン・ヘイボック91』における「チェンバー・オブ・ホラー金網電気椅子デスマッチ」(スティング、リック・スタイナー、スコット・スタイナー、エル・ヒガンテ組VSベイダー、ブッチャー、カクタス・ジャック、ダイヤモンド・スタッド組)では敗者となり、全身に電流を流された。

2008年12月にプエルトリコ、2009年4月にはカナダで引退試合を行った。ただし、それぞれ地域限定での引退であり、本人は「日本では生涯現役」と語っている。


 
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ブルーザー・ブロディ    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーTV    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ザ・シーク 2/2
 
  アブドーラ・ザ・ブッチャーKamala vs Rick Martel Austin Idol    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーCactus Jack vs Steiner Bros    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs. ブルーザー・ブロディ in WWC - Wild Brawl 2/2
 
  Bloodiest Match Ever    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs. ブルーザー・ブロディ cage match 2/2
 
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs.カルロス・コロン    
1985 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs.カルロス・コロン    
1992 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs.カルロス・コロン    
1997 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs.カルロス・コロン    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーprovokes Baba    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーStory 1 2/3 3/3
       
       
       
 





 


 






Pacific Girls.COM Ad


バイアグラ・レビトラ・シリアス Ad




 ↑ トップへ
 

inserted by FC2 system