日本プロレス参戦期(1970-1972年)
1970年、日本プロレスの8月興行『サマーシリーズ』で初来日。日本ではほぼ無名の存在であったが、開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、東京スタジアム大会での馬場との初シングルでは、それまでにない桁外れの場外戦を繰り広げるなど、シリーズが進むにつれて人気が沸騰。最終戦ではシリーズのエースであったカール・ハイジンガーに代わって、馬場の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。
その後1971年、1972年と2年連続『ワールドリーグ戦』にアフリカ代表として参戦、1971年大会では優勝決定戦に進出するなど、一躍大物の仲間入りを果たした。
全日本プロレス参戦期(1972-1981年)
1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。
馬場との対戦は全日本プロレスのドル箱カードとなり、その抗争は延べ20年の長きに渡った。PWFヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座などをめぐり、数々の死闘を重ねた。ブッチャー自身、「馬場との闘いはすべてが記憶に残っていて、すべてに満足している」「馬場というライバルがいたからこそ、私は日本の観客がなにを望んでいるか理解でき、彼らを喜ばすための技術を向上させることができた」と語っている。
1972年、デストロイヤーが日本陣営に加わると、彼との抗争を開始。初期の全日本プロレスを支える人気カードとなった。1974年の『第2回チャンピオン・カーニバル』では、3回の再試合が行われたが決着がつかず、両者失格。USヘビー級王座をめぐる一連の闘いは、お互いに隠し持った凶器で攻撃する凄惨なものとなり、足4の字固めを狙うデストロイヤーに対し火炎攻撃を繰り出したこともあった。
1975年12月の『オープン選手権』では、ハーリー・レイスの左肩を脱臼させ、途中棄権に追い込んだ。さらに翌日の「力道山十三回忌追善特別大試合」(日本武道館)では、「頭突き世界一決定戦」と題された大木金太郎戦の試合前、欠場の挨拶をするレイスを急襲し因縁に火がつく形となった。1976年5月、『第4回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で馬場を下し初優勝。このリーグ戦における大木とのシングルマッチ(日大講堂)にレイスが乱入、エキサイトのあまり会場を飛び出してのストリートファイトとなり結果、交通機関を麻痺させる騒ぎを起こし警察沙汰となった。川崎体育館で行われたレイスとの決着戦は、ブッチャーのキャリアの中でもトップクラスの大流血戦となり、ノーコンテストに終わった。
1977年の『世界オープンタッグ選手権』ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させ、ザ・ファンクスと抗争を展開。12/15に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスVSブッチャー・シーク組の最終戦は、とりわけ壮絶な試合展開となった。ブッチャーがテリー・ファンクの右腕に凶器のフォークを突き立て、テリーが兄ドリー・ファンク・ジュニアを救出すべく左ストレートを連打する場面は多くのファンに記憶されている。その模様が日本テレビの全日本プロレス中継(同年12月24日放送分)にて全国に中継されたために反響も大きかった。苦情や抗議の声も寄せられたという。しかし、日本のプロレス史の中でも名勝負として語られるほどの記念碑的な試合となった。
1978年10月にはビル・ロビンソンを破り、PWFヘビー級王座を奪取。馬場を相手に1度防衛に成功するが、翌年2月のシカゴにおける再戦で敗れ、馬場に奪還されている。
1979年5月、『第7回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で鶴田を破り2度目の優勝。同年8/26、新日本プロレスのトップヒールであったタイガー・ジェット・シンと組み、『プロレス夢のオールスター戦』(日本武道館)で馬場・猪木組と対戦した。同大会を挟んで行われた『ブラック・パワー・シリーズ』ではミル・マスカラスと抗争、執拗に覆面を剥ぎにかかるが、決着戦は両者リングアウトに終わっている。同シリーズで実現したボボ・ブラジルとの「黒人最強コンビ」は馬場、鶴田を苦しめたものの、最終戦で仲間割れした。同年10月にはレイ・キャンディとのコンビでインターナショナル・タッグ王座に就いている。
1979年12月、『世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦で、地獄突き誤爆に怒ったザ・シークの火炎攻撃を受け仲間割れ。以降は1970年代にカルガリー地区で流血の抗争を展開したキラー・トーア・カマタとコンビを組み、シークとは幾多の流血戦を繰り広げた。1980年、『第8回チャンピオン・カーニバル』ではレイ・キャンディとミステリアス・アサシンを配下に、テリー、ディック・スレーター、テッド・デビアスらファンク・ファミリーと軍団抗争を展開。同年10月には鶴田からUNヘビー級王座を奪取している。
|