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藤波辰爾 おまとめ動画集

藤波辰爾(1953/12/28 )
日本のプロレスラー。本名は藤波 辰巳。大分県出身。血液型はO型。ニックネームは「ドラゴン」もしくは「ドラゴン藤波」。第77代NWA世界ヘビー級王者。一時期、リングネームをドラゴン藤波、ドクター(ドクトル)藤波としていた。

タイトル
NWA
  • NWA世界ヘビー級王座: 1回
  • NWAインターナショナルジュニアヘビー級王座: 1回
  • NWAパシフィック ノースウェストヘビー級王座: 1回
新日本プロレス
  • IWGPヘビー級王座: 6回
  • IWGPタッグチーム王座: 5回(&木村健悟x4、西村修x1)
WWF
  • WWFインターナショナルヘビー級王座: 2回
  • WWFインターナショナルタッグ王座: 1回(&木村健悟)
  • WWWFジュニアヘビー級
その他
  • WCWA世界ヘビー級王座: 1回
  • CWAインターコンチネンタル王座: 1回
  • PNWヘビー級王座: 1回
  • UWA世界ヘビー級王座: 1回




エピソード
  • 「プロレスは、相手との信頼関係があるからこそ、やれるんです。」という藤波の言葉が表すように、相手選手の持つ良さを引き出すことに長け、名勝負製造機とも言われた。その技量はフレアー、マードック、武藤といった多くの選手たちから絶賛されている。また、ストロング・スタイルの正統派レスラーと見なされているが、流血や乱入といった荒れた試合も自然にこなせる力量も兼ね備えていた。
  • カール・ゴッチに指導を受けていた頃、ゴッチの自宅にはマットが無く庭の芝生の上で練習をしていた。ゴッチが課すスープレックスの練習はサンドバッグを抱えてとにかく反り投げる動作を繰り返すというもので、固い芝生で後頭部を強打し続けた藤波は連日脳震盪を起こし「このままでは俺は技を憶える前に頭がおかしくなる」と内心心配になってしまったという。
  • 藤波が新日本の若手でWWWFのジュニア時代の若手の伸び盛りである1979年頃、ホープである藤波を盛り上げようとするイベントが蔵前国技館であり、テレビ朝日で中継した。そのイベントでは番組公募の子供達がリング上でサンドバッグに体当たりするという催しがあったが、そのサンドバッグを押さえる役だったのが吉田光雄からファン投票で選ばれたリングネームに改名して間もなかった当時の長州力であった。また同イベントは歌謡ショーもあり、藤波の大ファンだと本人のデビュー当時から公言していた、当時アイドルだった井上望(現在エド山口夫人)がこのショーのゲストの一人で、この藤波の応援イベントの出演に感激しきりで泣いてしまう一面もあった。
  • 相手の必殺技を盗む「華麗なる盗人」と言われ、「名勝負数え歌」と言われた長州力戦でみせる長州力の得意技“サソリ固め”は、当時実況の古舘伊知郎をして“掟破りの逆サソリ”と言わしめた。
  • パートナーからタッチを受けた後コーナーポストにのぼり何もせずにリングに飛び降りる「ドラゴンリングイン」(別名:雪崩式リングイン)、その他独特の呼吸法なども有名。
  • 両足を揃えたまま完全な仰向け状態にジャンプして放つ昔ながらのドロップキックスタイルは、失敗するとバックドロップを受けたように背中から後頭部にかけてをキャンパスに強打(一人バックドロップ)するため、「ジバック(自爆)ドロップキック」と言われ、ファンに失敗を期待させた。また、藤原喜明限定のブレーンバスターをしかける→脇固めに返される、逆エビ固めをしかける→レッグシザースで返される、マードック限定のリング内に入ろうとするマードックを半ケツ状態にする、というお約束ムーブも持っており、会場を大いに沸かせた。
  • 1985/5/17の熊本大会で、スーパー・ストロング・マシンに「お前、平田だろ!?」とマイクアピールをした。覆面レスラーの正体を明かすのはタブーとされている上、当日の試合は「ワールドプロレスリング」で生中継されており、藤波の正体暴き発言は全国のプロレスファンに知れ渡ることになった。ちなみにこの発言は藤波のおとぼけであるという説と、平田にマスクを脱がせたかった会社が藤波に代弁させたという説がある。(2009/9/19/放送の「タモリ倶楽部」では「マイクを向けられた時に話すことが無いのでつい言ってしまった」と発言している。)なお、この発言のずっと後に平田はマスクを脱いで正体をさらしたが、その後も素顔で試合に出場する一方で「魔界1号」「ブラック・ストロング・マシン」と名前を変えながら覆面レスラーとしても出場することもあり、その時には観客から「おまえは平田だろ〜」という声を浴びている。
  • 1985/11/1に、入場テーマ曲であったエディ・グラントの「Boys In The Street」のカバー曲である「マッチョ・ドラゴン」というレコードを本人のボーカル入りで発売している。しかし歌唱力に関してはお世辞にも良いとはいえず、コサキンソングとして取り上げられるなどある意味で伝説的な曲となってしまった。関根勤も「とんねるずのみなさんのおかげでした」の中で「小学生が歌ってるみたいなんだよね」とコメントしている。その後は藤波本人がCD化を断ったこともあり、永らくその存在が封印されていたが(入場テーマも当初はボーカル版を使用していたが、後にインストゥルメンタル版に変更した)、2005年のG1でケンドー・カシンが入場曲にボーカルバージョンを使用し再び脚光を浴びた。子供への人気を狙った童謡風の「ドラゴン体操」も迷曲としてカルトな評価を得ている。なお、作詞は森雪之丞である。2010年6月に「めちゃ×2イケてるッ!」の「歌がへたな王座決定戦スペシャルに出演し、井上陽水の『夢の中へ』を歌唱した。歌詞にある「うふふ」の部分を歌った際、会場が大爆笑となり、審査員を務めた小林幸子に「歌の上手い歌い手は多くいても、あの味は誰にも出せませんよ」と評された。
  • なお、この「マッチョ・ドラゴン」発売について、当時タッグパートナーであり、先に「らしくもないぜ」というレコードを発売していた木村健悟より「(歌唱力でも売上枚数でも)片手、片足、さらに口を半分閉じるハンディがあったとしても藤波選手には絶対負けない」と酷評されたが、この発言を聞いた猪木が「うまさと人気はまた別だから」と予言した通り、歌唱力はともかく売上は大差で藤波の勝ちだった。
  • 発言の趣旨が日によって変わってしまうため、ファンだけでなく、一部の選手からも「コンニャク(社長)」と揶揄されている。特に、頻繁に引退宣言をしては撤回することが多い。本来、引退へはカウントダウンだがカウントアップしており、この点において師匠のアントニオ猪木の回数を上回っている。
  • 長年ライバル視していたジャンボ鶴田は、藤波に対して「彼はいつもマスコミを使って対戦を主張してくる。直接僕に電話なりしてくれればよかったのに」と発言しており、また「(鶴田はヘビー級で当時の藤波はジュニアヘビー級ということもあり)元々体格が違うから」とも発言し、積極的に対戦したかったわけではないようだ。だが後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまった」と、FAXで謝罪した。
  • 2001/1/4のドーム大会の橋本vs長州戦において、橋本・長州とも互いにフォールしようとせず打撃技のみのKO勝ちを狙おうとしたため、試合中TV解説席からリング上のタイガー服部レフェリーに両手を×の字にクロスして試合中止を決めた。この藤波の裁定が、一部ファンから「ドラゴンストップ」と呼ばれた。以後、団体側の都合で強引に試合を中止にしてしまうことを「ドラゴンストップ」と揶揄して呼ばれることがある。この一件は試合の実況中同席していた解説者の山崎一夫が「二人とも潰れちゃいますよ!藤波さん、止めなくていいんですか!藤波さん!」と何度も呼びかけて、その後ストップさせたものであった。藤波は「我々は殺し合いをしているんじゃないんだ」と語った。その後も天山広吉や獣神サンダー・ライガーは「ぶち殺す」や「ブっ潰す」といった発言が定番化していることから藤波の発言には矛盾が生じてしまった(とはいえ、これらの発言はプロレスにおける常套句でもある)。この時の「ドラゴンストップ」は事前に勝敗を決めかねたことによる「台本」通りにやっただけであり、藤波一人に責任を負わせるのは不適当だ、とする意見もある。ちなみにこの「我々は殺し合いをしているんじゃないんだ」は声がこもっていたため中継時は何を言っているのかよく分からず、ユリオカ超特Qのネタにされたことがある。
  • 1997年には、法務大臣より藤波の青少年育成活動に対して感謝状が贈られた
  • 藤波の青少年育成活動に影響されて、親交のあった小錦がタレントに転向したと言われる。
  • 口癖は「ある部分では〜」。
  • 伽織夫人は女優顔負けの美貌の持ち主(ジュディ・オング似)。資産家の娘でもあり、資金難に喘いでいた新日本プロレスは随分と夫人の実家にお世話になったらしい。かねてより藤波一家(娘と息子)水入らずで土曜スペシャル(テレビ東京系)旅番組に出演。また最近は伽織夫人単独でも土曜スペシャルの旅番組の出演が多い(共演者は女優の山口いづみが多い)。また同番組では夫人単独の場合でも「プロレスラー藤波夫人」等と紹介が無いため、「あの美女は誰だ」といった問合せが局にあるらしい。
  • ビッグバン・ベイダー戦でバックドロップによって腰を痛めて長期欠場と言われていたが、実は長年の腰痛の原因は椎間板ヘルニアである。
  • 長年広島ファンと思われていたが、本人は「僕は長嶋さんに憧れた世代で、昔から巨人ファン」とテレビで言った。また、千葉ロッテマリーンズの鹿児島キャンプにも棚橋弘至と一緒に参加した。
  • 温厚な性格で、1982/2/14/のメキシコにおけるブッチャーとの試合で、ブッチャーに凶器攻撃をされ血だらけになりながらも、試合後ブッチャーに襲いかかった観客を見て、ブッチャーの救出をしたことがある。
  • 飛龍革命の中で猪木に張り手を食らった後に猪木に張り手を打ち返した際、何かを叫んでいたのだが、何を叫んでいたのかが長年解明されずファンの間で憶測を呼び、後にビビる大木がVTRを見せながらなんと叫んでいたのかと尋ねたが、藤波は「俺もわかんないんだよね」と言ったため、真相は解明されずにある。
  • 非常に性格が良くファンを大事にしたと言う。川田利明、小橋健太、獣神サンダー・ライガーと彼に憧れてレスラーに成った人物も多い。
  • 1986/9/12、その日試合のあった山形県体育館から隣の山形県武道館を訪れた。そのとき合気道家の白田林二郎が高校生の部に稽古をつけていたのをしばらく見学していたが、何を思ったかその場で入門を願い出た。 白田は「プロレスとは違うから」と入門は断ったものの藤波に小手返し投げ、二教など指導した。藤波はその技の数々に驚嘆したという。その模様が東京スポーツ(9/14付)に取り上げられ、上半身裸の藤波が白田に二教で抑えられている写真が掲載された。






 1995>

1995/10/27、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。イギリスのビリー・ライレージムと提携。

1998/4/4の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。師の引退に花を添えた。

かねてから「ジャンボ鶴田選手と1回戦ってみたかった」と公言している。かつて、ジャイアント馬場と猪木の対戦が望まれた時期、猪木は何度も馬場に対戦を望んだが、馬場は「僕達の旬は過ぎているから」と拒否し、代わりにお互いの団体の次期エースである鶴田と藤波の対戦を申し出たり、当時全日本プロレスに参加権があって新日本プロレスには認められていなかったNWA世界ヘビー級のベルトの挑戦権を藤波に与えてもいい、などと発言したこともあった。だが、猪木は馬場との対戦に拘り続け、そして鶴田の死去もあり、ついに藤波は鶴田と対戦することはできなかった。

2003年から欠場が続いていたが、2005/3/26に2年3か月ぶりに復帰し、5月のドーム大会でジャンボ鶴田の付き人を務めたことのあるNOAHの三沢光晴とタッグを組み、「楽しかった。次は三沢選手と戦いたい」と話した。また、同年のG1 CLIMAXにも久々に出場した。川田利明との初対決が実現するも敗れる。試合後に握手し、川田は「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから」とコメントを残す。

1999年から2004年まで新日本プロレス社長を務めた。副会長に就任して以来、引退カウントダウンを撤回し現役にこだわり続けた。2006/6/30付けで新日本プロレスを退団。その際に社員に挨拶に回ったが、ことごとく無視された、とインタビューで当時の様子を語った。社長就任後引退時期に関する釈明が二転三転したため渾名を捩り「ホラゴン。」と揶揄されたことがある。

元新日本プロレスで藤波の愛弟子である西村修と田中秀和リングアナウンサーの新団体「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げ戦で第1試合に出場した。その後無我の代表取締役に就任。2007/1/28には約30年ぶりにグラン浜田と対戦した。6/1師匠であるアントニオ猪木と1年振りに会談したことが明らかとなり、その席で猪木が旗揚げするイノキ・ゲノム・フェデレーションへの協力を表明した。9/9、NOAH日本武道館で、三沢との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。パートナーの西村が潮崎に足四の字で勝利。

2001年、東京ドーム大会での橋本真也対長州力戦でテレビ中継の解説者を務めた際、相手をフォールしない両者を見て強引に試合を強制終了させる。同じ解説者であった山崎一夫に「これはつぶし合いになりますよ、いいんですか、藤波さん!」と促されてのことであったが、試合中会場のスクリーンに、両手を×の字にクロスさせ藤波が試合を止めようとする姿が映し出されると、突然のことに観戦中のファンは騒然となった。無効試合とされた後、リングに上がった藤波はマイクで「我々は殺し合いをしているわけではないんだ!」と叫んだものの、試合を無理矢理止めるほどの壮絶な試合であったと認識するファンは少なく、後にこの一件は「藤波の新技『ドラゴンストップ』」だと揶揄された。

2008年、団体名を『ドラディション』に変更した(無我の商標権を持つ西村が団体を離脱したため)。

2009/11/3
JCBホール
藤波 辰爾 ウルティモ・ドラゴン vs. タイガーマスク 藤原喜明  2/3 3/3
2005/8/5 藤波 辰爾 vs ケンドー・カシン    
2001/10/28
福岡
藤波 辰爾 西村修 vs. 武藤敬司 太陽ケア 2/2  
2001/10/8 藤波 バックランド vs ファンクス    
2001 藤波 辰爾 vs 安田忠夫    
2001 藤波 辰爾 vs 村上和成    
2001 藤波 辰爾 vs 永田裕司    
2001/1/4 藤波 辰爾 西村修 vs 武藤敬司 馳浩 2/2  
2000 藤波 辰爾 vs 獣神サンダー・ライガー    
1998/8/8 藤波 辰爾 vs 蝶野正洋 2/3 3/3
1997/8/31
横浜
藤波 辰爾 長州力 天龍源一郎 vs
グレート・ムタ 天山広吉 ヒロ斎藤
   
1996/12
名古屋
藤波 辰爾 木村健吾 vs 武藤敬司 西村修    
1996/11/26
弘前
 藤波 辰爾 木村健吾 vs 橋本真也 小島聡    
1996/11/20
草加
藤波 辰爾 西村修 vs 木村健吾 野上彰    
       
       
       
 1988-1994

飛龍革命

1988/4/22、沖縄県立奥武山体育館で、いつまでもメインを張り続け後進に譲ろうとしない猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれたが、反権力的な長州、天龍の維新、革命と比べて本体側に属する藤波の革命についてのファンの支持はもう一つで、前記2者に比べるとプロレス史には(ネタとしてはともかく)残らず、尻すぼみの結果となった。

5/8、有明コロシアムでIWGPヘビー級王座をビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。

8/8には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。試合後、猪木が藤波の腰にIWGPのベルトを巻いてやり、共に涙するシーンは感動を呼んだ。

以後、新日本プロレスのエースとなり10/15にアメリカ・オレゴン州ポートランドでザ・グラップラーからPNWヘビー級王座を、12月9日には後楽園ホールでケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し日米に渡る三冠王となった(後にWCWA、PNW両王座は返上)。これと同時期に、IWGPヘビー級のベルトを携えてアメリカなどを転戦、海外でもIWGPヘビー級王座の防衛戦を行っている(当時、猪木が提唱していた「世界戦略」に対して、「藤波流世界戦略」とも呼ばれた)。

腰痛による欠場、復帰後

1989/6/22、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。その間、帝拳ジムでボクシングの練習にも取り組んだ。

1990/9/30の越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。

この頃、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成(メンバーは越中、獣神サンダー・ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャット、南海龍、ワイリー・テイラー)したが、軌道に乗ることはなかった。

同年12/26、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者に。

翌1991/3/21、東京ドームでリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれる(ただしNWAの公式HPには、歴代チャンピオンに藤波の記載あり)。

1993/8/7、両国国技館で馳浩を破りG1 CLIMAX優勝。

その年1月から参戦し、新日勢を連破していた天龍源一郎と9/26大阪城ホールで初対決。セコンドの馳の介入にクレームを付ける天龍の虚をついてグランド・コブラで勝利した。

1994/4/4、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグランド・コブラで王座を奪取。

腰痛からの復帰以降、闘魂三銃士の台頭もあり、藤波は徐々に第一戦から退くようになる。

1994/11/25
岩手
藤波辰爾 橋本真也 小島聡 vs 長州力 木戸修 安田忠夫 2/2  
1994/5/1 藤波辰爾vs橋本橋本真也    
1994/1/4
東京ドーム
藤波 辰爾 vs ハルク・ホーガン  2/2  
1993/3/23 藤波 辰爾 長州力 vs. 石川敬士 天龍源一郎 2/2  
1991/9/23
横浜
藤波 辰爾 vs グレート・ムタ  2/2  
1991/8/9
両国国技館
藤波 辰爾 vs 武藤敬司    
1991/8/7 藤波 辰爾 vs ビック・バン・ベイダー    
1991/3/21 藤波 辰爾 vs リック・フレアー
 2/2  
1989/4/24
東京ドーム
藤波 辰爾 vs ビック・バン・ベイダー    
1989/3/16
横浜 
藤波 辰爾 vs ジェリー・ローラー   2/4  3/4
 4/4  
1989/2/22
両国国技館
藤波 辰爾 vs ビシャス・ウォリアー    
1988/12/5 藤波 vs グラップラー    
       
       
 
 1981-1987

ヘビー級転向

1981年10月にヘビー級転向のためジュニア王座を返上。翌1982年1月より「飛龍十番勝負」が始まる。ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジェシー・ベンチュラらと闘うも、「飛龍十番勝負」は中途で終わることになった。

しかしながら、ヘビー級の証明と題して 海外遠征武者修行中にヘビー級のタイトルマッチの切符を手に入れ、同年8/30にマディソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルを獲得。

ヘビー級転向後、初のチャンピオンベルトを手土産に堂々の凱旋帰国を果たし、防衛戦の初戦では、マスクド・スーパースターを逆さ押さえ込みで破り ヘビー級のチャンピオンとして更にステップアップさせた。

この年の10月、長州力と抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍団との抗争で新日本に黄金期をもたらす。長州との一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ1983/4/3のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチはその年のプロレス大賞ベストバウトを獲得した。

しかし、同年8月のタイガーマスクの引退、1984年には長州力ら維新軍団の新日本プロレス離脱、さらにUWF旗揚げによる前田日明らの離脱、と新日本は冬の時代と呼ばれるようになる。一時は「藤波も離脱秒読み」と報道されたが藤波は残留を決めた(藤波が離脱していればその時点で新日本は潰れただろうと言われている)。

残留を決めて以降は猪木、坂口、木村健吾らと共に新日本プロレスの低迷期を支、1985/12/12のIWGPタッグリーグ優勝戦でタッグとはいえ師匠・猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成。その年の「プロレス大賞」でMVPを獲得した。

1986年1月から前田らUWF勢が新日との業務提携により参戦。UWF勢のキックに新日勢は当初逃げ腰だったが藤波は真正面から受け止め、特に6月12日大阪城ホールIWGP公式リーグ戦での前田日明との試合は前田の厳しい攻めを(前田の大車輪キックで大流血になりながらも)受け止め名勝負を展開した(結果は両者KOによる引き分け)。この試合はこの年のプロレス大賞ベストバウトを獲得し、試合後前田は「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた。そしてその仲間とこれから大きな国を作っていく...そんな心境です。」と藤波に賛辞を送った。

1987年4月には長州力らジャパン・プロ勢が新日にUターン。新日本プロレスは猪木、坂口、マサ斎藤らナウ・リーダーと藤波、長州、前田らニュー・リーダーの闘いで人気を博すも、その後の前田の長州蹴撃による離脱、二度に渡るファンの暴動事件などで再び新日の人気は陰りを見せ始めた。

1986/10/13
後楽園ホール
藤波辰巳 vs 武藤敬司    
1986/9/12
山形
藤波辰巳 木村健吾 vs マッドマックス1号&2号w/若松市政 2/2  
1986/8/8 藤波辰巳 木村健吾 vs 前田日明 木戸修    
1986/6/12
大阪 
藤波辰巳 vs 前田日明  2/4 3/4
4/4  
1986/2/5
静岡
藤波辰巳 木村健吾 vs ケビン・フォン・エリック ケリー・フォン・エリック 2/2  
1986/1/24
大阪
藤波辰巳vsケビン・フォン・エリック 2/2  
1986/1/10
船橋
藤波辰巳対ハック・ソー・ジム・ドゥーガン    
1985/12/27
ハワイ
藤波・木村vsナガサキ・ポーゴ 2/2  
1985/12/10
愛知
ブルーザー・ブロディvs藤波辰巳    
1985/9/13
宮崎
藤波辰巳 vs ジャイアント・マシン    
1985/9/6
碧南市臨海
藤波辰巳 vs スーパー・マシン 2/2  
1985/8/30 藤波辰巳 木村健吾 vs ハクソー・ヒギンズ グレー・ブラウン 2/2  
1985/8/23 藤波辰巳 vs シバ・アフィ 2/2  
両国国技館 藤波辰巳 vs ジミー・スヌーカ 2/2  
1985/7/28
大阪
藤波辰巳 vs ジミー・スヌーカ 2/2  
1985/6/11 藤波辰巳 vs ハルク・ホーガン 2/2  
1985/4/18
両国国技館
藤波辰巳 vs ストロング・マシン  2/2  
1985/2/13
ハワイ
藤波辰巳 vs ストロング・マシン 2/2  
1984/5/11
福岡
藤波辰巳 木村健吾 vs 長州力 マサ斎藤 2/2  
1984/2/7
蔵前国技館
藤波辰巳 vs ラッシャー木村 2/2  
1983/12/30
MSG
藤波辰巳 ザ・コブラ vs デイビー・ボーイ・スミス ブレット・ハート    
1983/11/3
蔵前国技館
藤波辰巳 vs キラー・カーン 2/2  
1983/4/3  藤波辰巳 vs 長州力  2/5 3/5
4/5 5/5
1982/9/26
浜松
藤波辰巳 坂内征二 vs アンドレ・ザ・ジャイアント レネ・ポレット    
1982/11/18
後楽園ホール
藤波辰巳 前田日明 VS アンドレ・ザ・ジャイアント スエード・ハンセン    
1982/9/17
十和田
藤波辰巳 ハルク・ホーガン vs
サージャント・スローター マスクド・スパースター
2/2  
1982/7/16
中間
藤波辰巳 タイガー戸口 谷津嘉章 VS
ディック・マードック グレッグ・バレンタイン アドリアン・アドニス
   
1982/5/25
静岡
藤波辰巳 vs ペロ・アグアヨ    
1982/5/21
高松
藤波辰巳 ハルク・ホーガン 谷津嘉章 VS
アブドーラ・ザ・ブッチャー バッド・ニュース・アレン SDジョーンズ
2/2  
1981/12/1 藤波辰巳 タイガーマスク vs エル・カネック マキナ     
1981/9/23
田園コロシアム
藤波辰巳 vs ソリタリオ    
1981/9/18
広島
藤波辰巳 タイガーマスク vs ソラール ソリタリオ    
1981/8/14
後楽園ホール
藤波辰巳 vs アブドーラ・ザ・ブッチャー 2/2  
1981/7/31
後楽園ホール
藤波辰爾 vs レス・ソントン 2/3 3/3
1981/6/4 藤波辰爾 タイガーマスク vs クリス・アダムス マイク・マスターズ    
       
       
       
       
       
 <1980

デビューまで

一旦は中学卒業後地元の自動車整備工場に就職したが、プロレスへの夢を断ち切れず、1970年に別府温泉へ湯治に来ていた同郷である日本プロレス所属のプロレスラー北沢幹之に直談判、そのまま巡業について行き日本プロレスに入門する(入門同期は、佐藤昭雄、キラー・カーン)。

猪木の付き人となり1971/5/9にデビュー。デビュー戦の相手は北沢が務めた。

新日本プロレス旗揚げ

1972年、アントニオ猪木の新日本プロレスに旗揚げより参加。

1974年、若手の登龍門たるカール・ゴッチ杯を制し(決勝の相手は小沢正志、後のキラー・カーン)、初の海外遠征で木戸修と共に西ドイツへ、その後アメリカに渡って、カール・ゴッチの元で修行、木戸の帰国後ノースカロライナ州をサーキット、その後メキシコを転戦。

ドラゴン・ブーム

1978/1/23、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破りWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級タイトルを獲得し凱旋帰国。

3月3日の凱旋帰国第一戦でマスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)を相手に同じくドラゴン・スープレックスで勝利、「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし「シンデレラ・ボーイ」とも呼ばれた。

ビルドアップされた見事な体とドラゴンロケット等の飛び技、そしてゴッチ仕込みのテクニックで、従来のプロレスファンに加え、女性やこどものファンも獲得し、猪木、坂口征二に次ぐ新日No.3の座につく。

藤波はチャンピオンとして日本のみならずアメリカ、メキシコでも防衛戦をこなしていた。

1979年にはダブルタイトルマッチにてスティーブ・カーンを破り、NWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権を獲得、ジュニアヘビー級の二冠王となった。

この頃のライバル、チャボ・ゲレロ、カネック、ダイナマイト・キッド、スティーブ・カーン、木村健悟、剛竜馬らとの戦いで日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを確立した

1980/9/11 藤波辰巳 vs トニー・ロコ      
1980/5/9 藤波辰巳 vs チャボ・ゲレロ      
1980/4/4
川崎
藤波辰巳 vs マイク・グラハム 2/3 3/3  
1979/6/29 藤波辰巳 vs ウルトラマン 2/2    
1979 藤波辰巳 vs ダイナマイト・キッド      
1978/10/20 藤波辰巳 vs チャボ・ゲレロ 2/3  3/3  
1978/10/6 藤波辰巳 vs トニー・ロコ 2/2    
1978/6/9
LA
藤波辰巳 vs マンド・ゲレロ 2/3 3/3  
1978/1/23
MSG
藤波辰巳 vs カルロス・ホセ・エストラーダ      
1978 藤波辰巳 vs レイ・メントーザ 2/2    
         
         
         
         
 不明 - ご存知の連絡お願いします。
  藤波辰巳 vs ダイナマイト・キッド      
  藤波辰巳 vs アンドレ・ザ・ジャイアント      
  藤波辰巳 vs エル・カネック 2/2    
  藤波辰巳 グラン浜田 VS EL アニバル ペロ・アグアヨ 2/2    
  藤波辰巳 vs ダイナマイト・キッド      
  藤波辰巳 vs ブルーザー・ブロディ      
  藤波辰巳 スティーブ・カーン VS
ドリーファンクJr. ボブ・バックランド
     
  藤波辰巳 vs ハルク・ホーガン      
  藤波辰巳 vs 前田日明      
  藤波辰巳 野上彰i vs グレート・ムタ 天山広吉      
  藤波辰巳 vs 馳浩      
  藤波辰巳 長州力 vs 馳浩 佐々木健介      
  藤波辰巳 木村健吾 vs 西村修      
  藤波辰巳 vs 寺西勇      
  藤波辰巳 ウルティモ・ドラゴン vs . ゲレロ アトランティス      
  藤波辰巳 vs 橋本真也      
  藤波辰巳 vs 藤原喜明 EPILOGUE OF DRAGON 3rd      
  藤波辰巳 vs 長州力      
         
         
         
         
         
         
         
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