飛龍革命
1988/4/22、沖縄県立奥武山体育館で、いつまでもメインを張り続け後進に譲ろうとしない猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれたが、反権力的な長州、天龍の維新、革命と比べて本体側に属する藤波の革命についてのファンの支持はもう一つで、前記2者に比べるとプロレス史には(ネタとしてはともかく)残らず、尻すぼみの結果となった。
5/8、有明コロシアムでIWGPヘビー級王座をビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。
8/8には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。試合後、猪木が藤波の腰にIWGPのベルトを巻いてやり、共に涙するシーンは感動を呼んだ。
以後、新日本プロレスのエースとなり10/15にアメリカ・オレゴン州ポートランドでザ・グラップラーからPNWヘビー級王座を、12月9日には後楽園ホールでケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し日米に渡る三冠王となった(後にWCWA、PNW両王座は返上)。これと同時期に、IWGPヘビー級のベルトを携えてアメリカなどを転戦、海外でもIWGPヘビー級王座の防衛戦を行っている(当時、猪木が提唱していた「世界戦略」に対して、「藤波流世界戦略」とも呼ばれた)。
腰痛による欠場、復帰後
1989/6/22、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。その間、帝拳ジムでボクシングの練習にも取り組んだ。
1990/9/30の越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。
この頃、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成(メンバーは越中、獣神サンダー・ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャット、南海龍、ワイリー・テイラー)したが、軌道に乗ることはなかった。
同年12/26、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者に。
翌1991/3/21、東京ドームでリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれる(ただしNWAの公式HPには、歴代チャンピオンに藤波の記載あり)。
1993/8/7、両国国技館で馳浩を破りG1 CLIMAX優勝。
その年1月から参戦し、新日勢を連破していた天龍源一郎と9/26大阪城ホールで初対決。セコンドの馳の介入にクレームを付ける天龍の虚をついてグランド・コブラで勝利した。
1994/4/4、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグランド・コブラで王座を奪取。
腰痛からの復帰以降、闘魂三銃士の台頭もあり、藤波は徐々に第一戦から退くようになる。
|