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アントニオ猪木

アントニオ 猪木
(1943/2/20)
アントニオ猪木 テーマ ”炎のファイター”
日本の元プロレスラー、新日本プロレス創始者で元オーナー、元参議院議員、事業家。現在はイノキ・ゲノム・フェデレーション代表取締役会長。本名は猪木 寛至。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。愛称は「燃える闘魂」「アントン」。

新日本プロレス創業、総合格闘技に先駆けた異種格闘技戦の実施など日本のプロレス・格闘技史上最も多くのプロレスラーや格闘家に影響を与えた存在の一人である。2010年WWE殿堂入り。

オフィシャルブログ IGF
アントニオ猪木ブログ IGF


主な戦績

  • 1960/9/30、デビュー戦で大木金太郎(金一=キム・イル)に逆腕固め負け。
  • 1966/11/19、ジョニー・バレンタインと対戦し、勝利。US王座獲得。
  • 1967/10/31、ジャイアント馬場と組み、ビル・ワット、ターザン・タイラー組に勝利。インターナショナル王座獲得。
  • 1969/5/16、クリス・マルコフを破りワールドリーグ戦初優勝。
  • 1969/12/2、NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアに挑戦、ノーフォールのまま60分時間切れ引き分けとなった。
  • 1971/3/2、ジョン・トロス戦に勝利。UNヘビー級王座を獲得。
  • 1972/10/4、カール・ゴッチと対戦、勝利世界ヘビー級王座を獲得。
  • 1973/10/13、坂口征二と組み、カール・ゴッチ、ルー・テーズ組と90分3本勝負で対戦、2-1で勝利。
  • 1973/12/10、ジョニー・パワーズと対戦。NWF世界ヘビー級王座獲得。
  • 1974/3/19、NWF世界ヘビー級選手権試合でストロング小林と対戦、大物日本人同士の対決が話題となった。ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
  • 1974/4/26、坂口征二と初対戦。30分1本勝負で時間切れ引き分け
  • 1974/6/26、タイガー・ジェット・シンと対戦し、腕を折る。
  • 1974/8/16、坂口征二と組み、クルト・フォン・ヘス、カール・フォン・ショッツ組から北米タッグ王座を奪取。
  • 1974/10/10、NWF世界ヘビー級選手権試合で大木金太郎と対戦、13分13秒でバックドロップからフォール勝ち。
  • 1975/12/11、ビル・ロビンソンの挑戦を受けてNWF選手権、60分時間切れ引き分け。
  • 1976/2/6、ミュンヘンオリンピック柔道無差別級金メダリストウィレム・ルスカと初の異種格闘技戦。バックドロップ3連発で勝利。
  • 1976/6/26、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリと対戦、時間切れ引き分けに終わる。
  • 1976/10/7、アンドレ・ザ・ジャイアントと格闘技世界一決定戦を戦いレフェリーストップで勝利
  • 1977/8/2、空手のWKA世界スーパーヘビー級チャンピオンであった、ザ・モンスターマン(エベレット・エディ)と対戦、KO勝ち。
  • 1979/8/26、プロレス夢のオールスター戦で、ジャイアント馬場と組み、タイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャー組と対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。
  • 1979/11/30、ボブ・バックランド戦に勝利。日本人初、WWFヘビー級王座獲得(王座はのちに返上)。
  • 1980/2/27、極真会館所属のウィリー・ウィリアムスと対戦、ドクターストップの無効試合となった。
  • 1980/9/25、スタン・ハンセンと対戦、逆ラリアートでフォール勝ち。
  • 1982/11/4、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。
  • 1983/5/27、第1回IWGP決勝リーグ戦で前田日明(当時は前田明)と(唯一のシングル)対戦、フォール勝ち。
  • 1983/6/2、第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。
  • 1983/11/3、維新軍との4対4綱引きマッチで谷津嘉章と対戦、フォール勝ち。
  • 1984/6/14、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。
  • 1985/4/18、ブルーザー・ブロディと対戦、両者リングアウト。
  • 1985/12/12、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳、木村健吾組と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗北。
  • 1986/2/6、UWF代表の藤原喜明と対戦、疑惑の急所蹴りがあるものの勝利。
  • 1986/6/17、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、世界初のギブアップ勝ち。
  • 1987/3/27、大阪城ホールでの「INOKI闘魂LIVE Part2」のマサ斎藤戦に海賊男が乱入。観客が暴動を起こす。
  • 1987/10/4、マサ斎藤と「巌流島の戦い」を行う。2時間5分14秒の死闘の末勝利。
  • 1987/12/27、たけしプロレス軍団の刺客、ビッグバン・ベイダーと対戦し、2分49秒で敗れる。再三のカード変更と猪木の敗北に観客が、大阪城ホールに続き暴動を起こす。
  • 1988/7/22、長州力と対戦、フォール負け。
  • 1989/4/24、「格闘衛星闘強導夢」と釘打ち、プロレス初の東京ドーム大会でショータ・チョチョシビリと異種格闘技戦。裏投げを食らい、左肩を脱臼し(異種格闘技戦初の)敗北。
  • 1989/5/25、大阪城ホールで再戦し、ギブアップ勝ちを収めている。
  • 1990/2/10、坂口征二と組み、蝶野正洋、橋本真也組の挑戦を受ける形で対戦し、結果は蝶野からフォール勝ち。この試合で初めて「1、2、3、ダー!」を披露。
  • 1992/1/4、馳浩と対戦、卍固めで勝利。
  • 1994/1/4、天龍源一郎と対戦、パワーボムで敗れる。
  • 1994/5/1、福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ち。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。
  • 1998/4/4、「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グランド・コブラで勝利。
  • 2010/7/5、久々に猪木が新世紀セカンドヘビー級デスマッチに復活宣言、19歳の新人・高尾徹(MAKAO)と対戦。開始20秒でラリアットをまともに受けたものの立ち上がり、ビンタでMAKAOが倒れ、そのままKO勝ちとなる。

通算成績

  • シングル戦 - 612勝41敗50分
  • タッグ戦 - 1466勝104敗130分
タイトル
アメリカ修行時代
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / デューク・ケオムカ)
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / ヒロ・マツダ)
東京プロレス時代
  • USヘビー級王座:1回
日本プロレス時代
  • インターナショナル・タッグ王座:4回(w / ジャイアント馬場)
  • アジア・タッグ王座:4回(w / 吉村道明×3、大木金太郎)
  • UNヘビー級王座:1回
新日本プロレス時代
  • 世界ヘビー級王座(カール・ゴッチ所有):1回
  • 北米タッグ王座:1回(w / 坂口征二)
  • NWFヘビー級王座:4回
  • WWFヘビー級王座:1回
  • WWF世界マーシャルアーツ・ヘビー級王座:1回
  • UWA世界ヘビー級王座:1回
  • IWGPヘビー級王座:1回
その他
  • WCW殿堂(1995年度)
  • WWE殿堂(2010年度)

 1997>

引退後

引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEの盛り上げ役や、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催していく。なお、2002/8/28に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を掛けていた。

国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。2003/12/31に日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。

2005/11/14に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。

IGF設立

2006年4月にはアメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任し、同年9月には、IFL参戦のため東京サーベルズを結成し監督に就任する。同9月には自らが企画し、モハメド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜」の開催延期を発表するなど、試行錯誤を繰り返していたが、2007年3月、新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足させ、自身が社長となると共に6月に旗揚げ戦を行った。なお、同時期に娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。

また、2007/7/11、交友のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれているプロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。

2007/12/20の有明コロシアムの小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止をも聞き入れず暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。

WWE殿堂入り

2010/2/1、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は、猪木が初めてである(日系アメリカ人では、過去にミスター・フジが殿堂入りしている)。WWFヘビー級王座の獲得を始め、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン。

猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックスにて行われた。また翌日のアリゾナ州グレンデールのユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムにて開催された第26回レッスルマニア大会の際にも猪木が登場し、観衆からの祝福を受けた。

 1996/1997

引退

1994/5/1に福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ちしたものの、この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。

1996/11/3には以前自身が平壌での対戦を熱望したジョージ・フォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたマイナー団体のプロボクシング世界戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。

1998年豊見城市内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3/22愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4/4に東京ドームで行われた引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で、小川直也などと対戦し勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。

引退の際のスピーチは、いまだに盛んに春一番らがものまねの対象にしている。

 1992/1993/1994/1995

落選

1994年、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子(当初は公設第2秘書であったが第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格)およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反の問題」、「賄賂の問題」、「右翼(日本皇民党)との癒着問題」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」、「税金未納問題」、「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」などを中心とした、いわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。新間にそそのかされたTBSテレビは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。

なお、少女売春などこのうちのいくつかは完全なねつ造であり、特に政治資金規正法違反については、東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分。(官報に記載)

この前後に、もう1人のスポーツ平和党所属の議員であった江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感により、大きな亀裂が生じた。また釈明記者会見の際に、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度も強い批判を浴びた。また、東京佐川急便事件との関与も報じられた。

一連の「猪木スキャンダル」もあって、1995年の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。

1996
USA 
アントニオ猪木 /ダン・スバーンvs藤原善明 /オレッグ・タガロブ 2/2  
1995/3/1
北朝鮮
アントニオ猪木 vs リック・フレアー    
       
       
       
       



 1989/1990/1991

政界進出・参議院議員
同年には「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい“逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできないことをやる」と宣言した。

なお、当時参院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」状態で活動した。

1989/10/14、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院した。10/25、統一会派を組んだ民社党の配慮により、頭に包帯をし車椅子に乗った状態で初めて質問に立った。

湾岸戦争で邦人人質解放

1990/8/2、当時サダム・フセイン政権であったイラクは突如クウェートに侵攻(湾岸戦争)。イラクは日本を含む国際連合から非難や制裁措置などを受けたことを受け、当時クウェートにいた日本人41人などが事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分にされる。

政府間の人質解放交渉が膠着していたところ、猪木は12/1、イラクにおいて「平和の祭典」を行うことを発表。外務省による引き止めをよそに、猪木は費用を個人負担でトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。

不測の事態発生時などの賛否はあるものの、猪木のこの行動によって結果的に多数の人質が救い出されたことは事実である。

この勢いを追い風に、その後行われた1992年7月第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得(参議院会派で2議席目)した。

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       



 1987/1988
アントニオ猪木vs藤波辰巳
1988/8/8
横浜
アントニオ猪木 vs 藤波辰巳  
1988/7/22
札幌中島
体育センター
アントニオ猪木vs長州力  
1987/12/27 アントニオ猪木vsビック・バン・ベイダー  
1987/10/25 アントニオアントニオ猪木 vs スティーブ・ウイリアムス  
1987/10/14 アントニオ猪木vsマサ斎藤
2/12 / 3/12 / 4/12 /  5/12 / 6/12 / 7/12 / 8/12 / 9/12 / 10/12 / 11/12 / 12/12
1987/4/6
後楽園ホール
アントニオ猪木vsクラッシャー・バンバン・ビガロ 2/2
1987/2/4
岐阜
アントニオ猪木/藤波辰巳vs
クラッシャー・バンバン・ビガロ/バス・ソイヤー
2/2
1987/2/2
アントニオ猪木/武藤敬司/ジョージ高野vs
クラッシャー・バンバン・ビガロ/キューバン・アサシン/トニー・セント・クレアー
 2/2 
     
     
     
     
     
     
     
     



 1985/1986
851129
1986/11/24
札幌中島体育センター
アントニオ猪木/藤原喜明vs
ディック・マードック マスクド・スーパースター
   
1986/6/17
愛知県体育館
アントニオ猪木 vsアンドレ・ザ・ジャイアント 2/2  
1986/6/12
大阪 
アントニオ猪木 vs 藤原喜明 2/2  
1986/6/6
札幌中島体育
センター
アントニオ猪木/坂口征二vs
アンドレ・ザ・ジャイアント/キューバン・アサシン
 2/2  
1986/5/30
広島
アントニオ猪木 vs 坂口征二 2/2  
1986/5/2
両国国技館
アントニオ猪木/上田馬之助vs
アンドレ・ザ・ジャイアント/KYワカマツ
 2/2  
1986/4/25
熊本
アントニオ猪木/上田馬之助vs
アンドレ・ザ・ジャイアント/ケリー・ブラウン
2/2  
1986/3/26
両国国技館
新日本プロレスvsUWF イリミネーションマッチ    
1986/3/21
岐阜
アントニオ猪木/上田馬之助 vs 前田日明/藤原喜明 2/2  
1986/3/7
上田
アントニオアントニオ猪木/坂口征二/ 星野勘太郎 vs
ニック・キニスキー/クリス・アダムス/ ジャッカル
2/2  
1986/2/6 アントニオ猪木 vs 藤原喜明 2/3 3/3
1986/2/5
大阪
アントニオ猪木/山田恵一vs木戸修/高田延彦 2/2  
1986/1/31
古河
アントニオ猪木vsマッドマックス1号w/KYワカマツ     
1986/1/10
船橋
アントニオ猪木/木村健吾vsマッドマックスw/KYワカマツ     
1985/12/18
ハワイ
アントニオ猪木/アンドレ・ザ・ジャイアントvsテキサス・アウトローズ 2/2  
1985/12/12
宮城
アントニオ猪木/坂口征二vs藤波辰巳/木村健吾    
1985/12/6 アントニオ猪木/坂口征二vs藤波辰巳/木村健吾 2/3 3/3
1985/11/29
西日本総合
展示場
アントニオ猪木 /坂口征二vs
ブルーザー・ブロディ /ジミー・スヌーカ
2/2   
1985/10/31
両国国技館 
アントニオ猪木vsブルーザー・ブロディ  2/4   3/4
4/4  
1985/10/18
後楽園ホール
アントニオアントニオ猪木 vs バーバリアン 2/2   
1985/10/4
札幌中島体育センター
アントニオ猪木vsブルーザー・ブロディ 2/3 3/3
1985/9/6  アントニオ猪木vsジャイアント・マシン 2/2  
198/8/30
山形
アントニオ猪木/坂口征二vsジャイアント・マシン/スーパー・マシン 2/2  
1985/8/23
東村山 
アントニオ猪木/木村健吾 vs
ハクソー・ヒギンズ/ トニー・セント・クレアー
 2/2  
1985/8/3
ハワイ
アントニオ猪木vsブルーザー・ブロディ  2/2  
1985/7/28
大阪
アントニオ猪木vsブルーザー・ブロディ 2/2  
1985/7/26
弘前
アントニオ猪木/藤波辰巳vs
ブルーザー・ブロディ/キングコング・バンディ
2/2  
1985/6/28
品川
アントニオ猪木/藤波辰巳vs
ブルーザー・ブロディ/バッド・ニュース・アレン
 2/2  
1985/4/12
泉佐野
アントニオアントニオ猪木 vs ビリー・ジャック    
       
 1983/1984 

IWGP立ち上げと世代交代

1983年には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げるが、同年6月2日に、自身の立ち上げた第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにロープ越しのアックスボンバーを受けリングサイドに落ちた際に頭を打ち脳震盪を起こし、失神完全KO負けを喫した。この際、頭を地面に打ったためとはいえ、ホーガンは猪木を失神させてしまったことに大変動揺していた。

また、この頃より猪木自身が「アントンハイセル」など様々な事業に新日本プロレスの資金を投資したものの、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、タイガーマスクや長州力の退団騒動がこの後に起こることになる。

1987年、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントンハイセルへの借金。クーデターで最悪の精神状況の中、「リングで死ぬ」と言い、一番の敵であり、一番の仲間であったマサ斎藤と巌流島で観客なしのノーピープルマッチを敢行。2時間5分14秒の壮絶な闘いの末、猪木が勝利した。

1988/8/8の藤波とのIWGP戦は、「猪木負ければ引退か?」と憶測が飛び交った試合であるが、この一戦の前には長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれる中でIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により、急きょ実況する設定の中行われた試合は、結果60分時間切れの引き分け。猪木がIWGPに挑戦した最後の試合となった。

1989/2/22、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。

840511
1984/12/6
広島
スーパーバトルロイヤル    
アントニオ猪木/アンドレ・ザ・ジャイアントvs
ストロング・マシン1号&2号w/若松市政
 2/2   
1984/12/5
大阪 
アントニオ猪木/藤波辰巳vs
ディック・マードック/アドリアン・アドニス
 
2/4 3/4
4/4  
1984/12/3
岡山
アントニオ猪木 /藤波辰巳 /タイガー戸口vs
アンドレ・ザ・ジャイアント/ディック・マードック /アドリアン・アドニス
2/2   
1984/7/28
松戸
アントニオ猪木/藤波辰巳vs
バッド・ニュース・アレン/デビッド・シュルツ
   
1984/7/23
帯広
アントニオ猪木/藤波辰巳/ザ・コブラ VS
デビッド・シュルツ/ダイナマイト・キッド/デイビー・ボーイ・スミス
 2/2  
1984/6/14
蔵前国技館 
アントニオ猪木vsハルク・ホーガン  2/4 3/4
4/4  
1984/5/11
福岡スポーツ
センター
アントニオ猪木 vsハルク・ホーガン 2/2  
1984/2/27
蔵前国技館
アントニオ猪木vsバッド・ニュース・アレン    
1984/2/3
札幌
アントニオ猪木/前田明vsハルク・ホーガンマイク・シャープ    
1984
蔵前国技館
アントニオ猪木 vs 長州力     
1983/11/25
高崎
アントニオ猪木/ハルク・ホーガンvs
アドリアン・アドニス/ディック・マードック
2/2   
1983/6/2
蔵前国技館
アントニオ猪木vsハルク・ホーガン 2/3 3/3
1983/5/6
福岡スポーツ
センター
アントニオ猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアント    
       
       
 1981/1982 

「過激なプロレス」
1980年に村松友視の『私、プロレスの味方です』が発表される。観客自身の想像力によりプロレスを過激にヒートアップするベクトルを示唆した本書にストロングスタイルの教祖であった猪木は当然反発すると見られたが「過激なプロレス」を標榜、新路線を開拓する。純粋にプロレスラーの技術や試合内容を楽しむことに主眼が置かれた時代もあったが、1970年代における青少年層がプロレスを愛憎奏であう現実の人間社会として捉えることに対して素直に理解を示した(または、村松の「私的観戦」を便宜主義で利用した)。

その結果、会場における熱狂的ムーブメントがそれまでのプロレス文脈を全てを飲み込む結果となった。後日、プロレスライターのターザン山本は『私、プロレスの味方です』は、時代を変えたとまで書いている。しかし、旗を揚げた猪木自身にも、観客にも以降の方向性が見出せなかったために、「新日本プロレス」内部においては猪木自身の神格化でしかその終焉を迎えられなかった。

「猪木監禁事件」

1982/2/27には、「ルールの無い命をかけた」果し合いを申し込んだ沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともに猪木はフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。同年、漫画原作者の梶原一騎により、暴力団関係者を使い、大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出され、銃などを持っていることをほのめかされ、猪木が監禁される事件が起こった。当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった。監禁に至った理由は猪木が「寛水流」を設立したことに梶原が怒ったとされていたが、梶原は著作『四角いジャングル』で寛水流に好意的な姿勢を見せており、真相は不明であった。

後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件は、「タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から支払われなくなっており、猪木も梶原を避けていたので全く連絡がつかなかった時にたまたまホテルで会ったので、部屋に招いてその件を問いただしただけで監禁恐喝は完全に冤罪である」という。これにより、一連の騒動はタイガーマスク使用料を巡る軋轢が原因で起きたという結論を見た。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。

1982/8/27 アントニオ猪木/ハルク・ホーガンvs
サージャント・スローター/ブルータス・ビーフケーキ
2/2  
1982/7/6
大阪府立
体育会館
アントニオ猪木 vs エル・カネック    
1982/4/21  アントニオアントニオ猪木 vs ジェシー・ベンチェラ 2/2  
1982/1/28
東京体育館
アントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー 2/2  
1981/12/8
蔵前国技館
アントニオ猪木/藤波辰巳vsスタン・ハンセン/ローランド・ボック 2/2  
1981/11/13
安芸
アントニオ猪木/坂口征二vs
アブドーラ・ザ・ブッチャー/バッド・ニュース・アレン
2/2  
1981/9/18 アントニオ猪木vsスタン・ハンセン 2/2  
1981/8/6 アントニオ猪木vsマスクド・スーパースター 2/3 3/3
1981/8/14
後楽園ホール
アントニオ猪木vsバッド・ニュース・アレン 2/2  
1981/5/26 アントニオ猪木 /ダスティ・ローデスvsスタン・ハンセン /ハルク・ホーガン    
1981 アントニオ猪木/長州力/タイガー・戸口vs
アンドレ・ザ・ジャイアント/バッド・ニュース・ブラウン/スタン・ハンセン
2/2  
 <1979/1980

生い立ち

神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。5歳の時に父親は死去。第二次世界大戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産した。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サントス港を経由してサンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

ブラジル移住

ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力と基礎体力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。

幼少時代は運動神経が悪く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」と呼ばれていた程であったが、ブラジルへ移住してからは陸上競技選手として砲丸投げなどで活躍し、その身体能力をいかんなく発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。その後現地の陸上競技大会の砲丸投げに出場して優勝。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。

プロレスデビュー

1960/4/11にサンパウロで興業を行っていた力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという(後日談であるが、猪木の肉体は全盛期のルー・テーズにそっくりだったため、力道山もそこに目を付けたと言う。デビュー後に外国人トレーナーからもオファーが殺到したと言う)。

1960/9/30、東京都台東区の台東区体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。デビューはジャイアント馬場と同日である。この時は本名の猪木寛至でデビュー戦のリングに上がった。

なお、『アントニオ猪木』というリングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単に「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため洋風な名前にされたということである

なお、まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。

また力道山は猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南アメリカでの興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。そのために当時の猪木は、片言の日本語でインタビューに答えたりした。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後であった。

デビューしてからまもなくたって、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年12月15日に死去。その後に初めて「俺は日系ブラジル人と言われてましたが、れっきとした神奈川県出身の日本人です。力さんの付き人になってからは何時も力さんに殴られるので、このままでは馬鹿になってしまうと思って(日本プロレスを)辞めようと思ってました。でも力さんが亡くなったので、これからは豊登さんに着いて行きます」と初めて日本人であることをマスコミに公表した。

その後の1964年に、アメリカへ武者修行へ赴く(当初正式な労働ビザが取れなかった為本名を名乗ることを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった『リトル・トーキョー・トム』等多数。)地方巡業を中心に活躍して2年後に帰国。なおアメリカ時代にアメリカ人女性と結婚している。

東京プロレス

かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、豊登と東京プロレスを旗揚げする。猪木はエースとして扱われ、ジョニー・バレンタインとの一戦は昭和プロレス史に残る名勝負となって一躍猪木の名を有名にした。

しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱体、豊登の横領などにより急速に業績が悪化、「客が少ない」という理由で興業を中止にしようとしたら、それに怒った観客がリングに火をつける「板橋事件」などにより、3か月で東京プロレスは破産し、最終的に古巣である日本プロレスに戻ることになる。

日本プロレス復帰

日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、馬場とのタッグ・BI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで、馬場の試合が日本テレビの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦したメインイベントの試合は名勝負として伝説になっている。

しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける(上田馬之助 密告事件)。なお、その直前の同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した(1987年に離婚)。

新日本プロレス設立

日本プロレスを追放された後は新団体設立を画策し、1972/1/26に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラーを多数招聘することが難しかったため、流血遺恨試合、釘板デスマッチなどの際物的な試合も多かったが、対戦相手の良さを引き出し、試合毎に成長させる猪木の卓越した手腕のおかげで、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなど外国人エースが育っていった。

さらに、WWFと提携してからは多数の外国人スターを呼べるようになり、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦など名勝負を繰り広げ、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

異種格闘技戦

新日本プロレスにおいて、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」というストロングスタイルを標榜。その後のプロレスのスタイルに大きな影響を与える。最強の証明のため、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本ではそのアリ戦は昼間の生中継と、同日のゴールデンタイム19時からNETテレビ(現テレビ朝日)にて録画中継という形で2度放送された。(アントニオ猪木対モハメド・アリ参照)。なお、1979年1月には元アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領イディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したものの、その後アミンが反体制派クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。

1980/12/10 
大阪府立
体育会館
アントニオ猪木/ボブ・バックランドvs
スタン・ハンセン/ハルク・ホーガン
     
1980/11/6
津市体育館
アントニオ猪木/長州力vsハルク・ホーガン/ポール・オンドーフ 2/2    
1980/8/9 アントニオ猪木 vs ラリー シャープ       
1980/4/4 アントニオ猪木vs タン・ハンセン      
1980/2/28 アントニオ猪木vsスタン・ハンセン      
1980 アントニオアントニオ猪木 vs ウイリー・ウイリアムス       
1979/11/1 アントニオ猪木 vs ダスティ・ローデス      
1979/8/26
日本武道館  
アントニオ猪木 /ジャイアント・馬場vs
アブドーラ・ザ・ブッチャー/タイガー・ジェット・シン
2/3  3/3  
アントニオ猪木/ジャイアント馬場 vs
アブドーラ・ザ・ブッチャー/タイガー・ジェット・シン
2/2    
アントニオ猪木/ジャイアント馬場vs
アブドーラ・ザ・ブッチャー/タイガー・ジェット・シン
 
     
1979/6/7
東京体育館
アントニオ猪木vsスタン・ハンセン 2/2    
1979/5/10 アントニオ猪木 vs ジャック・ブリスコ      
1979/3/30 アントニオ猪木 vs マスクド・スーパースター      
1979/2/6 アントニオ猪木 vs ミスターX      
1978/7/27 アントニオ猪木 vs ボブ・バックランド      
1978/5/12 アントニオ猪木 vs 星野勘太郎 2/2    
1978/2/8
日本武道館
アントニオ猪木vs上田馬之助 2/3 3/3  
1978 アントニオ猪木/長州力vs
タイガーー・ジェット・シン/上田馬之助
2/3  3/3  
1977/12/8 アントニオ猪木 vs グレート・アントニオ      
1976/10/7 アントニオ猪vsアンドレ・ザ・ジャイアント      
1976/9/10 アントニオ猪木 vs ビリー・グラハム      
1976/8/14 アントニオ猪木 vs Rハンター      
1976/6/26
日本武道館 
アントニオ猪木 vs モハメド・アリ記者会見会見      
アントニオ猪木 vs モハメド・アリ     2/6  3/6  4/6
5/6  6/6  
各格闘家が語る「アリVS猪木戦 1 2/2    
1976/5/11 アントニオ猪木 vs リベラ      
1975/12/11 アントニオ猪木 vs ビル・ロビンソン      
1975/11/25  アントニオ猪木vsローランド・ ボック      
1975/10/19 アントニオ猪木 vs ルー・テーズ      
1975/10/3 アントニオ猪木/坂口征二 vs ハリウッド ブロンズ      
1975/6/26 アントニオ猪木vsタイガー・ジェット・シン 2/2    
1975/3/13 アントニオ猪木vsタイガー・ジェット・シン      
1973/12/10 アントニオ猪木vsジョニー・パワーズ      
1973/10/14  アントニオ猪木vsカール・ゴッチ      
1972/3/6 アントニオ猪木 vs カール・ゴッチ 2/3  3/3  
1972/3/2 アントニオ猪木/坂口征二vsルー・テーズ/カール・ゴッチ      
1971/12/4
宮城
アントニオ猪vsディック・マードック 2/3  3/3  
1970/8/9  アントニオ猪木vsドリーファンクJr.      
1970/8/2
福岡 
アントニオ猪vsドリーファンクJr. / 2/7 / 3/7 / 4/7 / 5/7 / 6/7 /  7/7
アントニオ猪木vsドリ-ファンクJr.       
1969  アントニオ猪木vsドリ-ファンクJr. 2/    
         
         
         
         
         
     
         
         
         
         
 不明 - ご存知の連絡お願いします。
  アントニオ猪木/キラー・カーンvsハルク・ホーガン/ドン・ムラコ 2/2    
  アントニオ猪木 vsハルク・ホーガン 2/2    
  アントニオ猪木/ハルク・ホーガンvs
アンドレ・ザ・ジャイアント /エル・カネック
2/2    
  アントニオ猪木/ハルク・ホーガンvs
ディック・マードック/マスクド・スーパースター
2/2    
  アントニオ猪木/藤波辰巳vs
アンドレ・ザ・ジャイアント/ジミー・スヌーカ
2/2    
  アントニオ猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアン 2/2    
  アントニオ猪木 /坂口征二/木村健吾vs
アンドレ・ザ・ジャイアント/ディック・マードック/
アドリアン・アドニス
     
  アントニオ猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアント  2/3 3/3  
  アントニオ猪木vsブルーザー・ブロディ  2/4 3/4 4/4
  アントニオ猪木vsブルーザー・ブロディ 2/4 3/4 4/4
  アントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー      
  アントニオ猪木vsタイガー・ジェット・シン       
  アントニオ猪木vsディック・マードック 2/2    
  アントニオ猪木vsビック・バン・ベイダー 2/2    
  アントニオアントニオ猪木 vs ケン・パテラ 2/2    
  アントニオ猪木/ストロング小林vsザ・モンゴリアンズ 2/3 3/3  
  アントニオ猪木 vs オットー・ワンツ      
  アントニオ猪木/長州力vsブラック・ゴードマン/グラン・ゴリアス      
  アントニオ猪木 vs サージャント・スローター      
  アントニオアントニオ猪木 vs ランバー・ジャック 2/2    
  アントニオ猪木vs藤波辰巳      
  アントニオ猪木/藤波辰巳 vs 長州力/マサ斎藤 2/3 3/3  
  アントニオ猪木/武藤敬司vs 藤波辰巳/長州力 2/2    
  アントニオ猪木 ディック・マードック/越中詩郎 vs
長州力/マサ斎藤/馳浩
2/3 3/3  
  アントニオ猪木 vs ストロング小林 2/4 3/4 4/4



著書

  • 格闘技世界一(1978年 ベストセラーズ)
  • 勇気 炎のメッセージ!(1981年3月 スポーツライフ社)
  • 苦しみの中から立ちあがれ(1983年2月 シャピオ)
  • 男の帝王学 闘魂革命(1990年6月 ワニブックス)
  • 最後に勝つ負け方を知っておけ 思ったことを面白く実現してしまう(1990年9月 青春出版社)
  • 闘魂記(1990年9月 集英社)
  • たったひとりの闘争(1990年12月 集英社)
  • 心の叫び(1991年8月 世界文化社)
  • アントニオ猪木議員の闘魂ハイスクール(1992年1月 未来出版)
  • 猪木イズム(1998年4月 サンクチュアリ出版)
  • 猪木寛至自伝(1998年5月 新潮社)※猪木寛至名義
  • 不滅の闘魂(1998年12月 海鳥社)
  • アントニオ猪木自伝(2000年2月 新潮社)※猪木寛至名義
  • 猪木詩集「馬鹿になれ」(2000年10月 角川書店)
  • 俺の魂(2001年9月 あうん)
  • もう一つの闘い―血糖値596からの糖尿病克服記(2001年12月 三笠書房)
  • 非常識(2002年4月 河出書房新社)
  • 闘魂レシピ(2002年11月 飛鳥新社)
  • 風車の如く―アントニオ猪木の人生相談(2003年2月 集英社)
  • あなたの体も危ない!―糖尿病1600万人を救う魔法の杖(2005年9月 PHP研究所)※主治医であった舘一男との共著
  • 元気があれば何でもできる!(2007年5月 ロングセラーズ)
  • 猪木語録 元気ですか!一日一叫び!(2007年12月 扶桑社)
  • 猪木式教育論「父親の背中」の見せ方(2008年4月 講談社)
  • 花が咲こうと咲くまいと生きていることが花なんだ(2008年9月 経済界)
  • 真実(2009年4月 ゴマブックス)
  • 踏出力。(2010年1月 創英社)
  • 元気ですか!?ニッポン!!―日本を元気にする猪木の言葉(2010年5月 ポプラ社)






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