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グラン浜田
(1950/11/27 - )
本名は浜田 広秋。群馬県前橋市出身。身長167cm、体重90kg。その軽量な体を生かしてルチャリブレを活動の中心としている。また最も著名な日本人ルチャドールの1人とされ、日本およびメキシコにおいて顕著な活躍を残している。娘のソチ浜田、浜田文子もプロレスラーである(正確には、ソチ浜田は夫人の連れ子であり、浜田文子とは異父姉妹となる)。

タイトル歴

UWA
  • UWA世界ミドル級王座 : 3回
  • UWA世界ジュニアヘビー級王座 : 5回
  • UWA世界ライトヘビー級王座 : 2回
  • UWA世界タッグ王座 : 3回 (&長州力、ペロ・アグアヨ、ケンドー)
NWA
  • NWAアメリカ王座 : 1回
  • NWAミドル級王座 : 1回
WWF
  • WWF世界ライトヘビー級王座 : 2回
新日本プロレス
  • ジュニアヘビー級タッグ王座 : 1回
その他
  • UWA&UWF認定インターコンチネンタルタッグ王座 : 1回(&ザ・グレート・サスケ)
  • UWFスーパーミドル級王座 : 1回
  • WWAジュニアヘビー級王座 : 1回
  • P*MIXタッグ王座 : 1回 (&浜田文子)
  • BJPWヘビー級王座 : 1回
  • MWF認定世界ジュニアヘビー級王座


桜田 一男(1948/9/26 - )
本名(戸籍上の表記)は櫻田 一男(読みは同じ)。北海道網走市出身。ケンドー・ナガサキのリングネームで知られる。

リングネーム

  • 桜田一男(Kazuo Sakurada)
  • ミスター・サクラダ(Mr. Sakurada)
  • チャン・チュン(Chan Chung)
  • ドリーム・マシーン(The Dream Machine)
  • ケンドー・ナガサキ(Kendo Nagasaki)
  • ランボー・サクラダ(Rambo Sakurada)
  • ドラゴンマスター(The Dragonmaster)


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ミスター・ポーゴ(1951/2/5 - )
群馬県伊勢崎市出身。リングネームは一時期、ザ・グレート・ポーゴポーゴ大王大ポーゴ大王を名乗ったこともある。本名は、関川 哲夫(せきがわ てつお)。大相撲出身。バックボーンは柔道。

獲得タイトル

国内
  • FMWブラスナックル王座:2回
  • FMWブラスナックル・タッグ王座:3回(w / 大矢剛功、ザ・グラジエーター、金村ゆきひろ)
  • W★ING認定世界タッグ王座:1回(w / クラッシュ・ザ・ターミネーター)
  • BJW認定デスマッチヘビー級王座:1回(初代王者)
  • バーブドワイヤーストリートファイト世界6人タッグ王座:1回(w / 中牧昭二 & 矢口壹琅)
海外
  • NWAブラスナックル王座(アマリロ版):1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / ミスター・サトー)
  • スタンピード・ノースアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • スタンピード・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ダイナマイト・キッド)
  • NWAトライ・ステート・ヘビー級王座:2回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ジプシー・ジョー)
  • WWC世界タッグ王座:5回(w / TNT×1、ケンドー・ナガサキ×4)
  • WWCカリビアン・タッグ王座:2回(w / 佐々木健介)
  • WWC世界ジュニアヘビー級王座:1回

逸話

  • 伊勢崎市に飲食店を開業する前は、本庄市内のスポーツジム兼サウナで雇われ店長を務めていた。
  • 寿司好きで知られ、松永との抗争では『ポーゴ寿司』の開店を目論んでいた。魚を鎖鎌でさばいたり、火炎噴射で魚を焼いたり、といったパフォーマンスも行っている。
  • 好きな女性のタイプはオリビア・ニュートンジョン、ノリコ・アワヤ(淡谷のり子)とインタビューで答えていた。
  • 漫画家のあだち充とも同級生で、雑誌で対談した際、あだちのヒット作『タッチ』の登場人物・松平孝太郎はポーゴがモデルだと持ち上げられた(リップサービスの可能性大)。

 1989/1990/1991 
   
   
   
   
   
   
       
       
       
       




後藤 達俊(1956/5/25 - )
愛知県常滑市出身。フリーランス。Mr.バックドロップ大魔人などのニックネームを持つ。レスリングキャリアのほとんどでヒールユニットに属し、反則技を中心とした試合運びで観客を沸かした

タイトル歴

新日本プロレス
  • IWGPタッグ王座(第38代 &小原道由)
WAR
  • WAR世界6人タッグ(第4代 &越中詩郎・小原道由)
DEP
  • DEP無差別級王座
天龍PROJECT
  • 天龍PROJECT認定世界6人タッグ王座(初代 &関本大介・高山善廣)

入場テーマ曲

Mr.B.D.
レイジング・スタッフのチームテーマ曲であった時期には、「頑張れ、頑張れ、レイジング!頑張れ、頑張れ、レイジング!」と歌詞を加えられていた。

その他

  • ヒロ斎藤とは誕生日が同じ5/25である。2002年と2004年の誕生日には斎藤とタッグを組んで試合をし、勝利している。
  • 山本尚史は新日本プロレス時代の唯一の弟子である。代名詞でもあるバックドロップを伝授し、山本は「天下獲りバックドロップ」の名前で使用していた。
  • 2006/1/5のリキプロ後楽園ホール大会で後頭部を切った翌日、病院で精密検査を受けた際、過去に頭蓋骨骨折を負っていたが、まったく気付かずに巡業へ参加し自然治癒していたことが発覚。手術をしなければ命に関わるほどの重傷だったという。
  • デビュー当時、なかなか勝利に恵まれず、山田恵一のデビュー戦まで初勝利出来なかった。

 1987/1988
   
   
   
   
       
       

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ヒロ斎藤(1961/5/25 - )
本名:斎藤 弘幸。ドラディション所属。

獲得タイトル

  • WWF世界ジュニア王座(第12代)
  • PWF認定世界ジュニアヘビー級王座(初代)
  • IWGPタッグ王座(第14代)

入場テーマ曲

  • サクセス 〜激走〜
  • nWo SUCCESS
    • nwo時代に使用

その他

  • 「ヒロ」のリングネームは、本名の弘幸からの命名である。また、同じく新日本プロレス所属のマサ斎藤の名前にもあやかっている。凱旋帰国当時の風貌は、肌は色白、金髪の長髪でたけし軍団のグレート義太夫に似ていたが(「義太夫!」と野次られたこともある)、ヘビー級に転向し色黒になり髪型もパンチパーマにした所体型、髪型、風貌ともマサ斎藤に似てきた。体型や風貌から、しばしばマサ斎藤と兄弟・親戚であると勘違いされるが血縁関係はない。マサ斎藤はテレビ解説の際実況のアナウンサーに「ヒロはマサさんに良く似てきましたね」と振られ「だんだん俺に似てきてるんじゃないかな」と照れたような口調で答えていた。
  • 新日本時代にトップロープ上からセントーンを繰り出した際解説のマサ斎藤は「こういった技は凄く怖いんですよ、失敗した時がね。斎藤もよくやりますよね。」と絶賛していた。しかし当のヒロ斎藤はセントーンを必殺技に選んだ理由を「自爆しても痛くないから」と週刊プロレスのインタビューで述べている。
  • 若手時代、スパーリングで最も負けたくなかったライバルは前田日明。
  • 若手時代、異種格闘技戦向けの公開特訓として、アントニオ猪木が延髄斬りを集中練習する際、首の後ろにスポンジを巻いた珍妙な姿で練習台にさせられたことがある。
  • ヒロの身長が後5cm高ければ歴史が変わっていたと言われる程のプロレスセンスとは裏腹にどこかコミカルなレスラーであることも特徴の一つであり平田淳二とのブレーンバスターの掛け合いでタイミングが合わず両者共にジャンプしてしまう。テーブルをリング内に投げいれようとしてロープに当たりリバウンドで自身の方へ跳ね返って来てしまうなどのエピソードがある。
  • 凱旋帰国当初は、サングラス、リーゼント、革ジャン姿のクールスばりの暴走族数名(クールキャッツ、というバンド)を引き連れて入場していた。しかし上田馬之助との決別試合において、試合前上田に竹刀で追い回されて消えた。
  • 長らく茶髪のパンチパーマという髪型であったが現在では頭髪が薄くなってきたためかスキンヘッドである。
  • 千葉県船橋市で「炭火焼肉ヒロ」を経営していたが、2005年に閉めている。
  • 盟友の後藤達俊とは誕生日が5月25日で同じ。毎年一緒に祝われており、2002年および2004年に後藤と2人でタッグを組んで試合をし勝利している。斎藤は後藤より先輩であるが年下であるためか「後藤さん」と呼んでいる(後藤も「ヒロさん」と呼んでいる)。
  • 若手レスラーを指導することもあったが、レベルが高すぎて後継者を出せなかった。近年では吉江豊の要請で若手レスラーの指導にあたった旨雑誌の企画対談(対談相手は蝶野)で明かしている。指導方法としては「こういうやり方もあるんだよ」と受講者自らに正しい、自分にあっていると思うものを選ばせる手法が主であるとのこと。
  • ファンからは「ヒロさん」と、さん付けでコールされることが多い。脇役に徹するスタイルとそのテクニックに対するファンからの敬意かと思われる。

 1981/19821983/1984 1985/1986
1985/11/29
西日本総合
展示場
星野勘太郎/後藤達俊 vs ケンドー・ナガサキ/ミスター・ポーゴ    
1985/10/18
後楽園ホール
ジャイアント・グスタブ vs 星野勘太郎/小杉俊一    
1985/9/13 武藤敬司/山田恵一/木村健吾vs橋本真也/小杉俊一星野勘太郎 2/3 2/3
1982/5/6 ブラックタイガー vs グラン浜田    
       

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星野 勘太郎(1943/10/9 - )
プロモーター。本名(通名)は星野 建夫。兵庫県神戸市出身の在日コリアン。

名称

リングネームの勘太郎は、長谷川一夫主演の映画「伊那の勘太郎」から豊登に付けられたもの。「突貫小僧」の異名をもつ。韓国での試合名はヨ・コンブ(呂建夫、여건부)であり、金一(キム・イル)こと大木金太郎に招かれて韓国で試合をしたことがある。

入場テーマ曲

  • 「フライング・ボディ・プレス」
  • 「URBAN SUNRISE」(上田力&パワーステーション) - 剛竜馬もレギュラー出演したテレビドラマ「警視庁殺人課」のオープニング曲






山本 小鉄(1941/10/30 - 2010/8/28)
新日本プロレスに所属していたヘビー級の元プロレスラー。本名は山本勝(やまもと まさる)。リングネームは豊登の命名。神奈川県横浜市南区出身。タレントとしても活動、芸能事務所、インターテイク所属であった。

公称身長170cm、体重100kg。現役引退後は、解説者・レフェリーとして活躍した。

人物

山本小鉄は一度は日本プロレスに入門を申し入れたものの、力道山から「お前の様なチビがレスラーになれるか!」と門前払いで拒まれた。しかしプロレスラーへの夢を諦め切れない山本は、1年間徹底的に体を鍛え、再度力道山に直談判した。このときも「何度来てもダメなものはダメだ!」と断られたが、力道山をハッシと睨み付け、固く握った拳をブルブルと震わせる山本を見て「こいつの意思は本物だ」と確認した力道山は入門を許可したと言う。

非常に真面目な人物であり、度を超えた下ネタを極度に嫌っている。あるTV番組に出演中「自分はアダルトビデオなんか一度も見たことはないし、見たいとも思わない」と言ってのけた。また、自らが教え発展させた新日本プロレスのレスリングスタイルには誇りを持っており、スーパーJカップに参戦した男色ディーノのゲイ・ムーブに大激怒したことがあった。

スキンヘッドで強面の外見とは裏腹に、(礼儀をわきまえた上で接すれば)物腰は柔らかく、愛妻家でもあった。晩年もそうであったかは不明であるが、山本が割と後年に誕生した娘を非常に可愛がる子煩悩で、娘の出生日からの日数を言えるほどの可愛がりようであった。

情に厚く律儀なことで知られ、『S.X.W.』番組内サプライズで、ファンからもらった誕生日プレゼントのマスク(新日本のライオンマークを模ったデザイン)に感激し、「これは僕の宝物にします」と言っていた。

現役引退及び『ワールドプロレスリング』解説者就任にあたっては、当時のテレビ中継では新聞記者上がりの人物が解説者を務めることがほとんどだったことから「今の中継の解説者にはレスラー上がりで技の凄さや痛みを理解している人がいない」として、猪木から直接頼まれたという。山本は「あと5年は現役を続けたい」として一度は断ったものの、猪木から「ギャラは現役時代と同額を保証する」と再度要請され、仕方なく引き受けたとのこと。これに伴い、元来口下手だった山本は、TV局に迷惑をかけまいと「話し方教室」に通った(正確には「落合恵子が主宰する『日本話し方講座』の通信教育を受けた」とのこと)。解説者当初は、放送中に自分のことを「オレ」と言ってしまったりで、実況の古舘伊知郎を困惑させたこともあった。

道場での若手指導には厳格であり、その厳しさから、前田日明は「キャデラック(山本の愛車)の音が聞こえるだけで震えが止まらなかった」と語っている。だが、練習が終わって食事の時間となると、選手と一緒にちゃんこ鍋を囲んで歓談するなど、硬軟を使い分けていたこともあり、新日本プロレスを離れて総合格闘技方面に行った前田、あるいは船木誠勝などからも敬われている。

引退後も現役時並みのトレーニングを怠らず、「インディーには引退した僕より首の細いレスラーがいる」と嘆いている。新日本の東京ドーム大会で行われたOBバトルロイヤルに飛び入り参加した時には、年齢を感じさせないほどに引き締まった肉体を披露している。

現役時代の肩の負傷のため、引退後も右腕が水平以上に挙がらなかった。

アントニオ猪木と行動を共にすることが多かったが、猪木の海外遠征の時にはボディーガード的な役割を果たし、「いきなり銃口を向けられた時には、オレが楯になって猪木さんを守るしかないだろう」と当然の様に話していた。

猪木の日本プロレス追放発表の記者会見で、星野が坂口、小鹿らと乾杯(ちなみに木戸と藤波は会場にいたが、乾杯の写真撮影時に消えた)していたことに大激怒する。後に坂口らの新日合流後、猪木と坂口はわざわざ山本に許可を取ってから、メキシコに遠征していた星野を新日本プロレスへ誘った。

ミスター高橋とは幼馴染だが、高橋が暴露本を出して以降は、「リングの魂を金に換えた奴を友人とは思わない」と絶縁状態であった。

プロレス界の発展のために女子レスラーの指導を行ったり、バラエティ番組などでレフェリー役を務めるなど、プロレス以外の分野でもそのキャラクターは重宝されており、活躍の幅は広かった。筋肉番付のめんこスタジアムのレフェリーをしたことがある。

上記の様に弟子から敬われてた為、葬儀には新日本プロレスの所属レスラー・関係者だけでなく、武藤敬司、船木誠勝、高山善広、鈴木みのる、神取忍など団体の垣根を越えての参列者があり、遺族から依頼を受けた前田日明が弔辞を行った。


 



マサ斎藤(1942/8/7 - )
元レスリング選手、元プロレスラー、健介オフィススーパーバイザーである。本名斎藤 昌典(さいとう まさのり)。東京都中野区出身。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)である。

エピソード

カルピス愛

プロレスラーとしてのマサ斎藤は一貫して荒々しいキャラクターであったが、カルピスが大好きという愛嬌のある一面や、解説者時代に見せた天然ボケとも言えるキャラクターも知られており、このような面を愛するファンも居る。カルピスについては「あんなに美味しい飲み物はないよな」と自他共に認める大好物である。これがマサ自身の豪快なイメージと相まってか「原液をそのまま飲んでいる」という伝説まで生まれた。ただし本人は「薄めないと飲めない」「ちゃんと薄めないと美味しくない」と否定している。

解説者として

解説者時代のマサ斎藤は、言い間違いや、素頓狂なコメントをする事が多かった。例えば、当時、正体を公式には明らかにしていなかったマスクマンの試合を実名で解説してしまったことも多い(獣神サンダー・ライガー、ブラック・タイガー、エル・サムライなど複数)。また正体が明らかであるが、あくまで別キャラクターとしてリングに上がっている選手(グレート・ムタ、パワー・ウォリアーなど)も本名で呼んでいた。

蝶野正洋と小原道由の試合で小原が犬の首輪をはめられた場面では「イヌワですイヌワ!」と連呼。また「nWoの狙いは世界制覇」と言おうとして「世界平和」と発言したこともある。この種の言い間違いは枚挙に暇がなく、「G1(ジーワン)の事をジーアイと言った」「G1の優勝候補選手予想で、レフェリーのタイガー服部の腕っ節の強さを熱く語った」「アナウンサーが『受身の取れないバックドロップ!』と実況すると『いや、(受身を)取ってます』と返した」「TEAM 2000(チーム・トゥーサウザンド)を頑なに『ティーにせん』と発音」「辻よしなりがノートン出演CMにひっかけて『スコット・ノートンは和の精神を理解しています』と煽ったところ『それはCMだけでしょ』と無粋な突っ込みをした」などなど、武勇伝は数知れない。

アメリカでの活動が長かった事もあり、英語力に長けている。ノートンなどの外国人レスラーに、流暢な英語でインタビューする事もあった。

アメリカでの評価

アメリカでは、しっかりしたレスリングができるヒールとして各地で大活躍。後にミネソタ州知事となるジェシー・ベンチュラとAWAでタッグを組んでいたこともあり、彼の名を冠したカクテルが存在するほどである。特にAWA圏での「悪党人気」は絶大であった。理由の一つとして、1980年代当初、日本車の輸出により斜陽を迎えていたUSA自動車産業の総本山であったデトロイトで、リック・マーテルらベビーフェイスに対する反則攻撃の際に「トヨター、ニッサンー、ホンダー」と、日本の自動車メーカーの名を叫んで観客のヒートを買ったことが挙げられる。関係者からの評価も高く、警官暴行事件の際には、裁判でニック・ボックウィンクルやバーン・ガニアらが陳述に立ち、マサの弁護につとめた。

フクちゃん

若手時代、漫画のキャラクターに似ていたことから「フクちゃん」と呼ばれていた。出獄後マスコミから「獄門鬼」というニックネームがつけられたが、マサ本人が嫌がったためすぐお蔵入りとなった。

東京プロレス社長

東京プロレス設立の際、豊登はそのドンブリ勘定な性格から周囲より忌避され、また、猪木も帰国していなかった状況だったため、レスリング五輪代表の経歴及び、父親が某電器会社の重役という信用性により、マサが初代の代表取締役社長として登記された。

新日本プロレスでのマサ

明治大学の同窓という事で若手の頃から坂口征二と交流があり、1972年、東京プロレス時代の縁を通じて新日本プロレスから参戦オファーがあったのを断り、日本プロレスに参戦したのは坂口がエースだから、とプロレス雑誌の坂口との対談で明かしている。またその際に、馬場・猪木離脱後の日本プロレスの集客の惨状を見て、「このままではダメだ」と坂口に進言し、西麻布の某焼肉店での猪木・坂口会談を実現させた。

長州力の参謀についた頃〜現在に至るまでも、大学レスリング部出身及び五輪代表という両人の経歴のため、参謀につく以前から師弟関係が存在していたと見る向きがあるが、1982年末に長州力がマサ斎藤に会いに渡米するまでそれほど接点はなかったそうである。マット上では北米タッグ(長州は坂口のパートナーとして)やプレ日本選手権等でのシングルマッチ対戦経験はあったが、当時は「ほとんど喋った事がなかった」と、プロレス雑誌のインタビューで語っている。


 


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