山本 小鉄(1941/10/30 - 2010/8/28)
新日本プロレスに所属していたヘビー級の元プロレスラー。本名は山本勝(やまもと まさる)。リングネームは豊登の命名。神奈川県横浜市南区出身。タレントとしても活動、芸能事務所、インターテイク所属であった。
公称身長170cm、体重100kg。現役引退後は、解説者・レフェリーとして活躍した。
人物
山本小鉄は一度は日本プロレスに入門を申し入れたものの、力道山から「お前の様なチビがレスラーになれるか!」と門前払いで拒まれた。しかしプロレスラーへの夢を諦め切れない山本は、1年間徹底的に体を鍛え、再度力道山に直談判した。このときも「何度来てもダメなものはダメだ!」と断られたが、力道山をハッシと睨み付け、固く握った拳をブルブルと震わせる山本を見て「こいつの意思は本物だ」と確認した力道山は入門を許可したと言う。
非常に真面目な人物であり、度を超えた下ネタを極度に嫌っている。あるTV番組に出演中「自分はアダルトビデオなんか一度も見たことはないし、見たいとも思わない」と言ってのけた。また、自らが教え発展させた新日本プロレスのレスリングスタイルには誇りを持っており、スーパーJカップに参戦した男色ディーノのゲイ・ムーブに大激怒したことがあった。
スキンヘッドで強面の外見とは裏腹に、(礼儀をわきまえた上で接すれば)物腰は柔らかく、愛妻家でもあった。晩年もそうであったかは不明であるが、山本が割と後年に誕生した娘を非常に可愛がる子煩悩で、娘の出生日からの日数を言えるほどの可愛がりようであった。
情に厚く律儀なことで知られ、『S.X.W.』番組内サプライズで、ファンからもらった誕生日プレゼントのマスク(新日本のライオンマークを模ったデザイン)に感激し、「これは僕の宝物にします」と言っていた。
現役引退及び『ワールドプロレスリング』解説者就任にあたっては、当時のテレビ中継では新聞記者上がりの人物が解説者を務めることがほとんどだったことから「今の中継の解説者にはレスラー上がりで技の凄さや痛みを理解している人がいない」として、猪木から直接頼まれたという。山本は「あと5年は現役を続けたい」として一度は断ったものの、猪木から「ギャラは現役時代と同額を保証する」と再度要請され、仕方なく引き受けたとのこと。これに伴い、元来口下手だった山本は、TV局に迷惑をかけまいと「話し方教室」に通った(正確には「落合恵子が主宰する『日本話し方講座』の通信教育を受けた」とのこと)。解説者当初は、放送中に自分のことを「オレ」と言ってしまったりで、実況の古舘伊知郎を困惑させたこともあった。
道場での若手指導には厳格であり、その厳しさから、前田日明は「キャデラック(山本の愛車)の音が聞こえるだけで震えが止まらなかった」と語っている。だが、練習が終わって食事の時間となると、選手と一緒にちゃんこ鍋を囲んで歓談するなど、硬軟を使い分けていたこともあり、新日本プロレスを離れて総合格闘技方面に行った前田、あるいは船木誠勝などからも敬われている。
引退後も現役時並みのトレーニングを怠らず、「インディーには引退した僕より首の細いレスラーがいる」と嘆いている。新日本の東京ドーム大会で行われたOBバトルロイヤルに飛び入り参加した時には、年齢を感じさせないほどに引き締まった肉体を披露している。
現役時代の肩の負傷のため、引退後も右腕が水平以上に挙がらなかった。
アントニオ猪木と行動を共にすることが多かったが、猪木の海外遠征の時にはボディーガード的な役割を果たし、「いきなり銃口を向けられた時には、オレが楯になって猪木さんを守るしかないだろう」と当然の様に話していた。
猪木の日本プロレス追放発表の記者会見で、星野が坂口、小鹿らと乾杯(ちなみに木戸と藤波は会場にいたが、乾杯の写真撮影時に消えた)していたことに大激怒する。後に坂口らの新日合流後、猪木と坂口はわざわざ山本に許可を取ってから、メキシコに遠征していた星野を新日本プロレスへ誘った。
ミスター高橋とは幼馴染だが、高橋が暴露本を出して以降は、「リングの魂を金に換えた奴を友人とは思わない」と絶縁状態であった。
プロレス界の発展のために女子レスラーの指導を行ったり、バラエティ番組などでレフェリー役を務めるなど、プロレス以外の分野でもそのキャラクターは重宝されており、活躍の幅は広かった。筋肉番付のめんこスタジアムのレフェリーをしたことがある。
上記の様に弟子から敬われてた為、葬儀には新日本プロレスの所属レスラー・関係者だけでなく、武藤敬司、船木誠勝、高山善広、鈴木みのる、神取忍など団体の垣根を越えての参列者があり、遺族から依頼を受けた前田日明が弔辞を行った。
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