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ディック マードック / アドリアン アドニス /
マスクド スーパースター/ダスティー ローデス
おまとめ動画集



ディック・マードックDick Murdoch
リングネームで知られるリチャード・マードックHoyt Richard Murdoch、1946/8/16 - 1996/6/15)
アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ワクサハチー出身。

来歴

父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動したが、実際には大学には入学しておらず、勝手に出入りしていたらしい。また、ボクシングの心得もあったとされ、そのキャリアはアメリカ海兵隊時代に身につけたものといわれている。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクとは幼なじみである。

キャリア開始直後はドン・カーソンの弟と称しカーソン・ブラザースでデビュー、その後キラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。

1968年2月に日本プロレスに初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。また、1971/12/4には、アントニオ猪木の持つUNヘビー級王座に挑戦している。

1971年7月、「チェーン・デスマッチの鬼」グレート・ボリス・マレンコとチェーン・デスマッチを行ったことがある。この試合でマードックは豪快な勝ちを収め、怖いもの知らずのアウトロー振りを発揮した。

1973年6月、国際プロレスに参戦しストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。同年10月には全日本プロレスにも参戦した。全日本ではローデスと組んでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980年には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。目立たないが、オープン選手権でのパット・オコーナー戦、ホースト・ホフマン戦。コックスとのブレーンバスター対決(1976年12月)。ハーリー・レイスとのNWA世界選手権(1974年5月)。キラー・トーア・カマタ(1980年3月)との凄惨な流血戦など名勝負も多く残している。

また、覆面レスラーザ・トルネードに変身してのザ・デストロイヤー戦(1974年)覆面十番勝負などもある。1974/11/5に馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した際には回転エビ固めで敗れている。なお、覆面が結構気に入ったのか持ち前の茶目っ気故か、新日本時代にはアンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーンになったのを見て「俺もマシン軍団に混ぜてくれ」と言っていたという。

1981年に新日本プロレスに移籍。以降も常連レスラーとなり、猪木や藤波辰巳らと激闘を展開した。新日本時代はタッグでの活躍が目立ち、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニス、マスクド・スーパースターらとのチームでは日本勢を大いに苦しめた。シングルでは1986年には猪木とIWGP優勝戦を争っている。また、当時は幻とされていたローデスとのアウトローズも復活させファンの喝采を浴びている。

1984年にWWF(現・WWE)入りし、同年4/17にアドニスとのタッグでWWF世界タッグ王座を獲得した。

1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターと「ハード・ライナーズ」を結成した。

晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996/6/15に心臓麻痺により急死。49歳没。

獲得タイトル

シングルタイトル
  • UNヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:2回
  • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • NWAインターナショナル・ヘビー級王座:3回(アマリロ版)
  • NWAブラスナックル王座:3回(アマリロ版)
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:3回
  • NWA北米ヘビー級王座:2回(ミッドサウス版)
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
  • WWC世界TV王座:2回
タッグタイトル
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
  • IWA世界タッグ王座:2回(オーストラリア版)(w / ラーズ・アンダーソン、ダスティ・ローデス)
  • NWA世界タッグ王座:1回(デトロイト版)(w / ダスティ・ローデス)
  • NWA北米タッグ王座:3回(セントラル・ステーツ版)(w / ダスティ・ローデス、ボブ・スウィータン×2)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン)
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / ボビー・ダンカン、ブラックジャック・マリガン)
  • NWA USタッグ王座:1回(ミッドアトランティック版)(w / イワン・コロフ)
  • NWA USタッグ王座:2回(ミッドサウス版)(w / キラー・カール・コックス、テッド・デビアス)
  • MSWAタッグ王座:3回(w / ジャンクヤード・ドッグ)
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / アドリアン・アドニス)

入場テーマ曲

  • Texas Fight(Texas Longhorn Band) - テキサス大学オースティン校フットボール部の応援歌

1988/10/6 ディック・マードック アドリアン・アドニス vs ビリー・ガスパー バリー・ガスパー    
  ディック・マードック マスクド・スーパースター vs 前田日明 木戸修 2/2  
  ディック・マードック アドリアン・アドニス vs ビック・バン・ベイダー マサ斎藤 2/2  
1986 ディック・マードック マスクド・スーパースター vs ケンドー・ナガサキ ミスター・ポーゴ 2/2  
1985/12/26
両国国技館
ディック・マードック マスクド・スーパースター vs ブルーザー・ブロディ ジミー・スヌーカ    
  ディック・マードック vs ブルーザー・ブロディ
2/2  
1985/7/7 ディック・マードック vs アブドーラ・ザ・ブッチャー 2/2  
1985/6/7
松本
ディック・マードック アドリアン・アドニス vs ザ・コブラ 高野俊二    
  ディック・マードック vs アドリアン・アドニス    
広島 ディック・マードック アドリアン・アドニス vs ハルク・ホーガン マスクド・スーパースター 2/2  
  ディック・マードック vs ブルーザー・ブロディ    
1982 ディック・マードック ダスティー・ローデス vs ラッシャー木村 タイガー戸口 2/2  
       
       
       
       
       
       
       
       
       

エピソード

日本プロレス・国際プロレス・全日本プロレス・新日本プロレスといった昭和のメジャー団体からFMWなどのインディー団体まで、日本の各プロレス団体を渡り歩いた数少ないプロレスラーの一人。通算来日回数は54回を数え、銀座の裏通りに行きつけの焼き鳥屋を持つほどの日本通となった。

全日本プロレスでは、無欲な性格とブッチャーとの因縁関係を馬場が考慮してか、チャンピオン・カーニバルや世界最強タッグ決定リーグ戦等のリーグ戦にエントリーされることはなく、唯一例外は1975年のオープン選手権のみである。

新日本プロレス移籍後は、MSGシリーズ&タッグリーグ戦(後にIWGP)にほぼ毎回エントリーされるようになった。優勝経験は無いものの、アドリアン・アドニスやマスクド・スーパースター 等、タッグパートナーに恵まれていたこともあり、優勝争いには必ず絡んできた。そういった経緯から、日本マット界での実績は新日本プロレス参戦時の印象が今尚強い。

アドリアン・アドニスとタッグを組み勝利した際には、向かい合って両手を互いにクロスして握り、それを素早く引き・押しし合うという独特の勝利のパフォーマンスを見せていた。お約束のムーブとしてTV中継もそこまで行うという流れになっていた。

垂直落下式ブレーンバスター(特に滞空時間の長い)やカーフ・ブランディング(仔牛の焼印押し)といった必殺技で日本のプロレス界に与えた影響は大きい。喧嘩っ早い性格である一方で、どこか抜けた所があり、ファンから愛された。ゆるめのレスリングパンツを履いていたので、場外乱闘からリングインする時にうしろから藤波にパンツをつかまれ、藤波とともに「半ケツ状態」になるのがお約束のムーブだった。

本気になればNWA世界ヘビー級王座も夢ではないといわれ続けながら、本人はあくまでマイペースな活動を続けた。酒、特にビールをこよなく愛しており、サインをする時に自身の名前の横に、好物として『beer』と書き加えることもあったという。ある日当時実況担当の古舘伊知郎と飲み、古舘がこれ以上飲めない(食えない)という状態で店を出て、ホテルに帰るのかと思いきや、生卵を2個ずつ落とした屋台のラーメン4杯を平然と平らげたというエピソードが古舘の自叙伝に記されている。

ガチンコ(シュート)にも相当の自信があったようで、ちょうど同時期に新日本に参戦していた前田日明に「お前プロレスがやりたいのか喧嘩がやりたいのか、はっきりしろ」と言ったこともあるという。山本小鉄も、1986/4/29の前田対アンドレ・ザ・ジャイアントのシュートマッチについて「もし新日本が本気で前田を潰そうとしていたらアンドレではなくマードックを送り込んでますよ」と語っていたという。

全日本から新日本に移籍した後も、時々馬場のところに顔を出しては「一杯おごってくれや」と言っては朝まで付き合わせたりしていたそうで、「憎めない奴だった」と馬場は回想している。また、輪島大士のプロレスデビューを受けて、その対戦相手に立候補するために1986年、全日復帰を宣言したことがあるが、1985年末に両団体が結んだ「引き抜き防止協定」に基づいて実現しなかった。

アントニオ猪木とは好敵手でありながら友好関係もあった。1987年に新日本プロレスで勃発したNEWリーダー(長州力、藤波辰巳、前田日明、木村健吾、スーパー・ストロング・マシン)対NOWリーダー(アントニオ猪木、坂口征二、マサ斎藤、星野勘太郎、藤原喜明、武藤敬司)の対抗戦では、ゴングが鳴らんとする直前に猪木がマイクを持ち、「おーい出て来い」のGOサインで花道から現われ、星野に代わるNOWリーダーの助っ人として活躍した。

私生活

アレン・コージの明かしたところによれば、マードックはその生涯を通してクー・クラックス・クランのメンバーだった。


WING
1992/11/2
ディック・マードックvsミスター・ポーゴ 2/2  
  ディック・マードック vs リック・フレアー 1    
  ディック・マードック vs リック・フレアー 2    
  ディック・マードック and ダスティー・ローデス    
  ディック・マードック Visits アドリアン・アドニス    
  ディック・マードック マスクド・スーパースター バス・ソイヤー vs ハクソー・ジム・デューガン テッド・デビアス スティーブ・ウイリアムス    
  ディック・マードック vs ディック・ザ・ブルーザー    
  ディック・マードック vs ワフー・マクダニエル    
1985/9/22 ディック・マードック vs スティーブ・ウイリアムス    
  ディック・マードック アドリアン・アドニス ルー・アルバノ vs ワイルド・サモアンズ サージャンと・スローター    
1984 WWF 30000$ Battle Royal 2/2  
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アドリアン・アドニスAdrian Adonis
キース・フランクKeith Franke、1953/9/15 - 1988/7/4)は、1970年代から1980年代にかけて活躍したアメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州ニューヨークシティ出身。リングネームは、正確には「エイドリアン」と発音する。生年は1954年ともされる。

来歴

かつてはアメリカンフットボールの選手として活躍していたが、1974年にジャイアント馬場やタイガー・ジェット・シンの師匠としても知られるフレッド・アトキンスに弟子入りしてプロレス入り。本名をもじったキース・フランクスKeith Franks)を名乗り、金髪の若手ヒールとして売り出す。

若手時代は「賞金王」「ゴールデン・ボーイ」と呼ばれ、試合のたびに多額な賞金を賭けて戦い「俺を破った奴にはこの賞金をプレゼントしよう」と豪語していた。このスタイルで5年程戦ったが、1回も賞金を取られることはなかった(負けたことはなかった)という。

1977年にはNWAのロサンゼルス地区でアメリカス・ヘビー級王座を獲得し、チャボ・ゲレロやザ・ハングマンらと抗争。ロディ・パイパーとのコンビでアメリカス・タッグ王座も奪取し、ミル・マスカラスやアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して日本でも注目を浴びた(当時、日本の専門誌では「ース・フランクス」と表記されていた)。その後、アドリアン・アドニスの名前で太平洋岸北西部のPNW(Pacific Northwest Wrestling)に登場、ロン・スターと組んで1979年4月にパイパー&キラー・ブルックスからパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取している。

1979年の下期よりAWAに参戦し、ジェシー・ベンチュラとタッグチーム『イースト・ウエスト・コネクションEast-West Connection)』(アドニスがニューヨーク=東海岸出身、ベンチュラが自称カリフォルニア=西海岸出身)を結成。このヒール・コンビで大ブレイクを果たし、1980/7/20にはAWA世界タッグ王座を獲得、翌1981/6/14にハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)に敗れるまで、1年近くに渡ってタイトルを保持した。

1981年の後半にベンチュラと共にWWF入り。両者ともフレッド・ブラッシーを共通のマネージャーに迎え、リック・マーテル&トニー・ガレアやチーフ・ジェイ・ストロンボー&ジュールズ・ストロンボーなどの人気チームと対戦したが、当時は同じヒール陣営のミスター・サイトー&ミスター・フジがWWFタッグ王座に就いていたこともあり、それぞれシングル・プレイヤーとして売り出された。アドニスは1982/1/18と2/15のMSG定期戦においてボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に連続挑戦し、初戦ではバックランドの流血によるレフェリー・ストップで勝利を収めている(タイトルは移動せず)。また、インターコンチネンタル王者のペドロ・モラレスにも再三挑戦した。

1982年7月にWWF経由で新日本プロレスに初来日し、以降も新日本の常連外国人としてIWGPリーグ戦などで活躍。ニューヨーク・ヤンキースの革ジャンが入場時のコスチュームだったため、日本ではアメリカの暴走族のイメージから暴走狼のニックネームが付けられた。1983年3月の来日時は、1シリーズだけだがボブ・オートン・ジュニアとタッグを組む。オートンとのチームは「(初代)マンハッタン・コンビ」と呼ばれ、繰り出した「ハイジャック攻撃」の数々は、後に維新軍団他がコピーして、タッグマッチにおける一大ブームとなる(スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの「超獣コンビ」の対抗馬とも目された)。

しかし、オートンが諸事情でしばらく来日できなくなったため、同年夏以降はディック・マードックが新パートナーとなる。チームリーダーではなくなったものの、傍若無人な暴走ファイトでアントニオ猪木と藤波辰巳の師弟コンビや維新軍団らと激闘を展開した。北部ニューヨーク出身のアドニスと南部テキサス出身のマードック、出身地も個性も対照的な2人のチームは、後にWWFで『ノース・サウス・コネクションNorth-South Connection)』と呼ばれた。

同時期、アメリカではテキサス州サンアントニオ地区のSCW(Southwest Championship Wrestling)を主戦場に、ボブ・スウィータンとサウスウエスト・ヘビー級王座を巡る抗争を展開。1983/5月/26には、真の世界王者(Undisputed World Heavyweight Champion)を決めるべく新設されたSCW世界ヘビー級王座の争奪トーナメントに出場、決勝で盟友のボブ・オートン・ジュニアを下して初代王者となり、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座の旧ベルトを手にした。

1984年からは全米侵攻を開始したWWFと再契約し、マードックとのノース・サウス・コネクションでWWF世界タッグ王座も獲得(1984年4月17日、ロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスから奪取)したが、その後は薬物依存とストレス性過食症で極度の肥満に苦しむようになる。コンビ解散後はジミー・ハートをマネージャーにゲイボーイ・ギミックの "アドラブル" アドリアン・アドニス"Adorable" Adrian Adonis)に変身し、LA時代の盟友ロディ・パイパーと抗争。パイパーと仲間割れしたカウボーイ・ボブ・オートンをボディーガードに従え、初代マンハッタン・コンビの再結成も見られたが、アドニスのギミックに合わせオートンもピンク色のテンガロンハットを被るなど、かつての暴走チームの面影は微塵もなかった(また、当時のWWFにはベンチュラも在籍していたが、すでに引退していたためイースト・ウエスト・コネクションが復活することはなかった)。このギミックでは、ザ・フラワー・ショップThe Flower Shop)なるインタビューコーナーのホストも担当している。

1987年の後半にWWFを退団してリハビリ施設に入所、以後は末期のAWAにてポール・E・デンジャラスリーをマネージャーに活動し、1988年5月には新日本プロレスへの久々の来日も実現。元のスタイルに復帰して再起を図っていた矢先の1988/7/4、カナダで自動車事故に遭い、34歳で死去。なお、この時の事故では新日本プロレスの常連外国人の仲間入りをしていた双子のタッグチーム、ケリー・ツインズも死去した。





1984
青森
アドリアン・アドニス vs アンドレ・ザ・ジャイアント    
  アドリアン・アドニス vs ロディ・パイパー 2/2  
  アドリアン・アドニス vs グレッグ・ガニア 2/2  
1996/8/28 アドリアン・アドニス vs ジャンクヤード・ドック    
  アドリアン・アドニス    
  アドリアン・アドニス vs ダイナマイト・キッド    
  アドリアン・アドニス vs トミー・リッチ    
1982/10/17 アドリアン・アドニス vs ハルク・ホーガン    
1986/4/7 アドリアン・アドニス vs アンクル・エルマー    
  アドリアン・アドニス promo    
  The death of アドリアン・アドニス    
       
       
       
       
       
       

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ビル・イーディーBill Eadie、1947/12/27 - )
ペンシルベニア州ブラウンズヴィル出身。

現役選手時代はボロ・モンゴルBolo Mongol)、マスクド・スーパースターThe Masked Superstar)、デモリッション・アックスDemolition Ax)などのリングネームで活躍した。

来歴

ウェストバージニア州立大学卒業後は高校の教師をしていたが、友人とプロレス観戦に行った際ニュートン・タットリー(ジート・モンゴル)にスカウトされ、彼のトレーニングを受け1973年に五大湖地区でデビュー。当初は教職を続けながら時折リングに上がるという状態だったが、やがてプロレスに専念し、タットリーのパートナーとしてモンゴル人ギミックのボロ・モンゴルを名乗り、タッグチーム「ザ・モンゴルズ」で活躍。このキャラクターで1974年4月に新日本プロレスへ初来日している。1976年7月には新日本版アジアヘビー級王座およびアジアタッグ王座の王座決定リーグ戦にもボロ・モンゴルとして出場した。

その後、ジム・クロケット・ジュニアの主宰するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区で覆面レスラーの“流星仮面”マスクド・スーパースターに変身。グレート・マレンコをマネージャーに付けて頭角を現す。1977年3月には新日本の第4回ワールド・リーグ戦に来日、坂口征二に敗れたものの優勝戦に進出するなどの活躍を見せた。ちなみに、同リーグ戦にはジート・モンゴルの初代パートナーだったベポ・モンゴルことニコリ・ボルコフも参加しており、両者は公式戦で対戦している。大型外国人対決としても注目されたが、当時はすでにイーディーの方が格上であり、フォール勝ちを収めている。

以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、1978年3月の来日時はマネージャーのマレンコを帯同し、蔵前国技館でアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1979年9月には坂口征二の北米ヘビー級王座にも挑んだ。1981年8月、猪木との「賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ」に敗れて覆面を剥がされたため、一時期素顔でビリー・クラッシャーと名乗って来日していたが、ほとぼりが冷めるとマスクド・スーパースターに戻った。IWGPリーグ戦には1984年から1986年まで3年連続で参加。年末のタッグリーグ戦でもディック・マードックとのコンビで上位に食い込む活躍を残している。また、1985年にはスーパー・マシーンとしてマシーン軍団に加入し、アンドレ・ザ・ジャイアントのジャイアント・マシーンとコンビを結成して猪木を苦しめている。スーパー・マシーンは覆面レスラー史上にもあまりない「正体も覆面レスラーの覆面レスラー」ということになる。

マスクド・スーパースターに変身後のアメリカマットでは、トップクラスのヒールとして主に南部エリアを中心に活躍。ミッドアトランティック地区ではワフー・マクダニエルやブラックジャック・マリガンと抗争し、ビッグ・ジョン・スタッドをマスクド・スーパースター2号に変身させたこともあった。同地区では1980年下期に一時的にベビーフェイスにも転向し、リッキー・スティムボートのタッグ・パートナーを務めたこともある。

現在のホームタウンでもあるジョージアのGCW(ジム・バーネット主宰)では1970年代末から1980年代初頭にかけて、トミー・リッチとの遺恨マッチやミスター・レスリング2号との覆面レスラー同士の抗争を展開した他、スタン・ハンセンとも何度となく対戦している。ハンセンとはタッグを組んだこともあるが、日本において両者のタッグチームが見られることはなかった。また、1981年にはフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWに参戦、ケン・パテラを破りアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得している。

1983年からは約1年間に渡りニューヨークのWWF(現・WWE)をサーキット。グラン・ウィザードをマネージャーに、MSG定期戦において10/17と11/21の2カ月連続で当時のWWF王者ボブ・バックランドに挑戦、初戦ではリングアウト勝ちを収めている。1984年よりビンス・マクマホン・ジュニア政権のもとでスタートした全米侵攻にも主力メンバーとして参加し、同年2/10にはNWAの本拠地であったセントルイスのキール・オーディトリアムにて、新WWF王者ハルク・ホーガンの初防衛戦の相手を務めた。

WWF離脱後は一時ジョージアに戻り、キングコング・バンディと組んで1984/5/6にロード・ウォリアーズからNWAナショナル・タッグ王座を奪取。その後はAWAと契約し、ミスター・サイトーの用心棒的なヒールとして、同時期にWWFを脱退したサージェント・スローターと抗争。同年下期にはスチュ・ハートの運営するカナダ・カルガリー地区のスタンピード・レスリングにおいて、ニック・ボックウィンクルを破ったとして、同地区で新設されたIWA世界ヘビー級王座のチャンピオンに認定されている。

1986年にはビル・ワットの主宰するルイジアナ州のMSWAに進出、新日本プロレスでのパートナーだったディック・マードックとコンビを組み、テッド・デビアスやスティーブ・ウィリアムスらと対戦した。同年はフロリダ地区にも参戦し、7/22にレックス・ルガーからNWA南部ヘビー級王座を奪取している。以降は親友でもあるディノ・ブラボーの招きにより、カナダのモントリオール地区で活動した。

マスクド・スーパースター名義としては1976年から約10年間に渡って活躍したが、覆面レスラーのギミックは短命に終わる場合の多い米マット界において彼のキャラクター寿命の長さは特筆すべきことであり、日本マットに定着したザ・デストロイヤーを除くと、ミスター・レスリング、ミスター・レスリング2号、ザ・スポイラー(スーパー・デストロイヤー)らと並ぶ、アメリカのマスクマンの代表格といえる。

1986年の後半からは前述のマシーン軍団の一員、スーパー・マシーンとしてWWFと再契約。NWA時代のライバルでもあったブラックジャック・マリガン=ビッグ・マシーンも加わり、日本からやって来たベビーフェイスのマスクマン軍団として売り出される。1987年からは再びヒールターンし、覆面を脱ぎ顔面にペイントを施すなど大胆なギミック・チェンジを行い、デモリッション・アックスを名乗って大型タッグチーム「デモリッション」を結成(マネージャーはミスター・フジ)。相棒のデモリッション・スマッシュ(正体はクラッシャー・クルスチェフやリポマンとしても知られるバリー・ダーソウ)と共にWWF世界タッグ王座を再三獲得した。1990/4/13に東京ドームで行われた日米レスリングサミットでは、ジャイアント馬場&アンドレ・ザ・ジャイアントの大巨人コンビと対戦したほか、アックスとして新日本プロレスにも何度か登場している。

1990年下期より体調不良のため試合出場を控えるようになり、デモリッションにはクラッシュ(ブライアン・アダムス)が新しく加入。アックスはスマッシュとクラッシュをコントロールするプレイング・マネージャーとなり、同時期にWWFに移籍してきたリージョン・オブ・ドゥームと抗争を繰り広げた。

WWFを離れてからもデモリッション時代と同じコスチュームとリングネームで日本マットにも度々参戦したが、キャラクターの版権使用を巡ってビンス・マクマホンとの間で軋轢が生じ、その後はWWEとは絶縁状態である。近年はジョージア州の青少年更生施設でカウンセラーとして勤務する傍ら、各地のインディー団体にレジェンドとして単発的に出場しており、2007年にはバリー・ダーソウとの名コンビも復活させている。2008/2/29、ペンシルベニア州フィラデルフィアのチカラで行われた6人タッグマッチのトーナメントにはダーソウ&ワンマン・ギャングと「チームWWF」を結成して出場した。

2009年7月、久々の来日が実現。7/4に新木場1stRINGにて記念大会が開催され、7/5には新日本プロレスの後楽園ホール大会に登場して挨拶を行った。

獲得タイトル

ボロ・モンゴル
  • IWA世界タッグ王座
  • IW北米ヘビー級王座:1回
マスクド・スーパースター
  • JCP(ノースカロライナ)
    • NWAミッドアトランティック・TV王座:1回
    • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
    • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / マスクド・スーパースター2号)
    • NWA世界タッグ王座:2回(w / ポール・ジョーンズ)
  • GCW(ジョージア)
    • NWAジョージア・ヘビー級王座:4回
    • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / オースチン・アイドル)
    • NWAナショナル・ヘビー級王座:4回
    • NWAナショナル・タッグ王座:2回(w / スーパー・デストロイヤー、キングコング・バンディ)
  • CWF(フロリダ)
    • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • WCCW(ダラス)
    • NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • IWA(カルガリー)
    • IWA世界ヘビー級王座:1回
  • 新日本プロレス
    • 第4回ワールドリーグ戦準優勝
デモリッション・アックス
  • WWF世界タッグ王座:3回(w / デモリッション・スマッシュ)
  • GLCWタッグ王座:1回(w / デモリッション・スマッシュ)
  • USXWタッグ王座:1回(w / デモリッション・スマッシュ)
  • IAWタッグ王座:2回(w / タイフーン)

etc.

入場テーマ曲

    マスクド・スーパースター時代に使用。

エピソード

  • マスクド・スーパースターとしての得意技であるフライング・ネックブリーカー・ドロップおよびスイング式ネックブリーカーは、いずれも新日本プロレスの対立団体だった全日本プロレスの総帥ジャイアント馬場の得意技でもあった。これが意図的なものかどうかは不明だが、イーディー本人はフライング・ネックブリーカー・ドロップについて、1982年の第5回MSGシリーズ来日時のインタビューにおいて「1976年頃、スタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを見たマネージャーのグレート・マレンコのアドバイスで使用するようになった」と答えている。なお、日米レスリングサミットでの大巨人コンビVSデモリッションの試合のフィニッシュは馬場の十六文キックからアンドレのエルボー・ドロップでスマッシュがフォールされたものである。
  • ネックブリーカー・ドロップは日本では馬場のオリジナル技であり、スーパースターがこの技を出すとテレビ朝日の新日本プロレス中継では「フライング・スリーパー」と呼んでいた。
  • マスクド・スーパースター時代は正体不明の覆面レスラーというキャラクターを活かすため、アメリカではプロフィールは"Unknown"とされており、日本のプロレスマスコミ上でも長い間「生年月日・出身地は非公開」となっていた。また、当時はレスラー仲間から『スープSupe)』の愛称で呼ばれていた。
  • 1983年、サザンオールスターズのラジカセの広告に素顔で登場したことがある。
  • リングコスチュームとして着用していた似顔絵入りジャケットは、当初義祖母が作成し、後に夫人が継承した。

福岡 マスクド・スーパースター vs ハルク・ホーガン    
  マスクド・スーパースター テーマ    
  マスクド・スーパースター vs アンドレ・ザ・ジャイアント    
  マスクド・スーパースター vs チャック・ターナー    
  マスクド・スーパースター promo    
  マスクド・スーパースター interview    
2009/7/4  マスクド・スーパースター 流星仮面FIESTA    

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ダスティ・ローデスDusty Rhodes
ヴァージル・ラネルズ・ジュニアVirgil Riley Runnels, Jr.、1945/1012 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、現WWEプロデューサー。

人物

テキサス州オースティン出身。ニックネームはアメリカン・ドリームThe American Dream)。日本での異名は獣戦車(それ以前は“極道”)。「俺は配管工の息子から成り上がったんだ」が決め台詞。コテコテの南部訛りでのマイクパフォーマンスを得意とする。

日本ではダスティ・ローデスと表記されるが、正式にはダスティ・ローズと発音する(プロ野球選手のタフィ・ローズと同じスペル)。

130kgを越える巨体であったが動きは素早く、コミカルなショーマン・スタイルの第一人者として、1970年代から1990年代にかけて絶大なベビーフェイス人気を獲得した。しかし元々は喧嘩ファイトを得意とするラフファイターであり、ブルロープ・マッチをはじめデスマッチ形式の試合でも数々の流血戦を演じた。

実子のダスティン・ラネルズもプロレスラー(ダスティン・ローデス、ゴールダスト、ダスティ・ローデス・ジュニアなどのリングネームで知られる)。2006年から末子のコーディ・ローデスもプロレス界入りした(ダスティンとは異母兄弟)。

来歴

ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボールの選手として活躍していた(同期にブルーザー・ブロディ、ボビー・ダンカン。ザ・ファンクスは大学の先輩、スタン・ハンセンとテッド・デビアスは大学の後輩)。

ジョー・ブランチャードのコーチを受け、1968年にテキサス州サンアントニオでプロレスラーとしてデビュー。その後、セントラル・ステーツ地区で同じテキサス出身のディック・マードックとタッグチーム「ジ・アウトローズ」を結成し、NWAとAWAの両地区を股に掛けて活躍。日本には1971年11月に国際プロレスに初来日。以降、全日本プロレスと新日本プロレスに参戦した。

AWAではマードックとのコンビでディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキーの元祖・極道コンビと抗争を展開。"ダーティ" ダスティ・ローデス"Dirty" Dusty Rhodes)の異名を持つテキサスの荒くれ極道としてヒール人気を高めた。

ジ・アウトローズ解散後の1973年下期、エディ・グラハムが主宰するフロリダ州のCWF(Championship Wrestling from Florida)に参戦。当初はAWA時代と同じくヒールのポジションだったが、マネージャーのゲーリー・ハート、パートナーのパク・ソンとの仲間割れを機に、1974年5月よりベビーフェイスに転向する。

以降は1980年代半ばまで約10年間に渡ってCWFを主戦場とし、南部のヒーロー的存在となってフロリダ・ヘビー級王座を通算11回[3]、南部ヘビー級王座を通算7回獲得。テリー・ファンク、アーニー・ラッド、キング・イヤウケア、ザ・シーク、オックス・ベーカー、キラー・カール・コックス、キラー・カール・クラップ、ブラックジャック・マリガン、ザ・スポイラー、ボブ・ループ、ボブ・オートン・ジュニア、バグジー・マグロー、イワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、バロン・フォン・ラシク、ミスター・サイトー、ディック・スレーター、アレックス・スミルノフ、ブルーザー・ブロディ、ビッグ・ジョン・スタッド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マーク・ルーイン、ケビン・サリバン、ザ・グレート・カブキ等々、名立たるヒール勢を迎え撃った。

フロリダではマードックとジ・アウトローズを再結成したこともあるが、ヒールのマードックを敵に回してシングル対決も行っている。また、ルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れたというアングルの後、マスクを被ってミッドナイト・ライダーThe Midnight Rider)やウバルデ・スリムUvalde Slim)などと名乗り、一時的に覆面レスラーに変身したこともある。体型やファイトスタイルで正体は一目瞭然であり、対戦相手のヒールを撹乱し、ファンを楽しませるための演出だった。

1977年にはニューヨークのMSGでスーパースター・ビリー・グラハムのWWF世界王座に連続挑戦。以降もMSG定期戦にはスペシャル・ゲストの立場で何度となく出場し、スパイロス・アリオン、スタン・ステイジャック、ジミー・バリアント、トーア・カマタ、キラー・カーン、アンジェロ・モスカらと対戦(1979/12/17の定期戦では王者ハーリー・レイスVS挑戦者ローデスのNWA世界ヘビー級タイトルマッチも行われた)。1978/3/20にはアンドレ・ザ・ジャイアント&ミル・マスカラスと超豪華トリオを結成、ケン・パテラ、トール・タナカ、ミスター・フジ組を破っている。 

1979/8/21、フロリダ州タンパでハーリー・レイスを破り第53代NWA世界ヘビー級王者となるが、5日後オーバー・ザ・トップロープによる反則負けで王座転落(アメリカのルールではトップロープを越えて場外に相手を落とすのは反則である。普通反則負けでは王座は移動しないが、時折特別ルールとして「反則でも王座移動」となることがあった)。その後1981/6/21に再びレイスから(第61代)、1986/7/26にはリック・フレアーから同王座を奪取し(第69代)、計3回に渡って載冠している。1985年頃からはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区でプロデューサーも兼任するようになり、数多くのイベントや試合形式、レスラーのギミックなどを企画した。

1989年から約2年間、WWF(現・WWE)と契約。黒人女子レスラーのサファイアをマネージャーに従え水玉模様のリングコスチュームを身にまとい、テッド・デビアス、ランディ・サベージ、ホンキー・トンク・マン、ビッグ・ボスマンらと抗争した。1990年代はWCWのプロデューサーに就任、一時期は事実上の引退状態だったが、nWoのメンバーでもあった。

WCW崩壊後は各地のインディー団体に出場し、2003年からはTNAのプロデューサーに就任(レスラーとしても活動)。2004年には息子と共にハッスルに参戦した。TNA離脱後、2005年にWWEとレジェンド契約を交わし、現在はWWEのプロデューサー・脚本家として裏方で活躍する一方、時折リング上に姿を見せることもある。2007年にはWWE Hall of Fameに迎えられた(プレゼンターは息子のダスティンとコーディ)。

ローデスのパフォーマンスとして有名なのが「尻振りダンス」である。これは相手を倒した後、尻を左右にクリッ、クリッと振る動作で、アメリカでこれをやると観客は沸いたが、これを見たジャイアント馬場が、「こんなのが流行るのだから、アメリカというのはわからん国だ」と呆れていたという。

日本での活躍

初来日は前述のように1971年11月の国際プロレス。この時はストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦しているが0-2で敗れている。その後1973年6月にディック・マードックとのジ・アウトローズとして再来日。ラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した。

1975年11月には全日本プロレスに登場。マードックとのコンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、そのまま2人とも残留してオープン選手権に参加した。国際プロレスの常連外国人で同じくオープン選手権に参加したホースト・ホフマン、バロン・フォン・ラシクはそのまま全日本の常連になったが、ローデスが全日本に来たのはこれが最初で最後だった。開幕戦の日本では最初で最後となったハーリー・レイス戦は、日本でのベストバウトと言われている。馬場はローデスをあまり評価していなかったらしく「レスラーとしては何から何までマードックの方が上」と語っている 。

1979年10月には新日本プロレスに初参戦し、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。ローデスと新日本とのスタイルの違いを懸念する声もあったが、新日本がWWFとの提携でアメリカ色が強くなっていた時期でもありアメリカ同様に日本でもファンの支持を獲得、以降も新日本の常連外国人となり、平成に入るまで来日を続けた。アメリカでの活動が多忙のため1週間程度の特別参加が多く、シリーズを通しての参戦は困難だったものの、MSGシリーズにおけるアンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとの対戦、マードックとのアウトローズ復活、息子ダスティン・ラネルズとの親子タッグなど数々の名場面を残した。


 海外(WWF)編
ダスティー・ローデス Jr. Mark Scarpa vs 大熊元司 永源遙 2/2
ダスティー・ローデス Jr. vs デイビー・ボーイ・スミス 2/2
ダスティー・ローデス vs キラー・カーン
1981/6/4
蔵前国技館
ダスティー・ローデス ボブ・バックランド vs サージジャント・スローター ボビー・ダンカン 2/2
1981 ダスティー・ローデス vs タイガー・ジェット・シン
ダスティー・ローデス vs アブドーラ・ザ・ブッチャー




獲得タイトル

  • NWA世界ヘビー級王座:3回
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):1回(w / ディック・マードック)
  • NWA北米タッグ王座(セントラル・ステーツ版):3回(w / ディック・マードック)
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:2回(w / バロン・フォン・ラシク、ディック・マードック)
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):2回
  • NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
  • NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):1回
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / アンドレ・ザ・ジャイアント)
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAナショナル・ヘビー級王座:1回
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ディック・マードック)
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):1回(w / ディック・マードック)
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座(インディー版):1回(w / バフ・バグウェル)
  • WCW Hall of Fame:1995年度
  • WWE Hall of Fame:2007年度
CWF
  • NWAブラスナックル王座(フロリダ版):2回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):7回
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:11回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:4回(w / ディック・マードック、ディック・スレーター、ボボ・ブラジル、アンドレ・ザ・ジャイアント)
  • NWAフロリダ・グローバル・タッグ王座:1回(w / マグナムT.A.)
  • NWAフロリダ・バハミアン王座:1回
  • NWAフロリダTV王座:2回
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):2回(w / バグジー・マグロー、ブラックジャック・マリガン)
ミッドアトランティック
  • NWA USヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / ディック・スレーター、マニー・フェルナンデス)
  • NWA世界6人タッグ王座:2回(w / ロード・ウォリアーズ)
  • NWA世界TV王座:2回

  ダスティー・ローデス Theme    
  ダスティー・ローデス Promo    
  ダスティー・ローデス Hall Of Fame Highlight Video    
  ダスティー・ローデス vs Tリック・マーテル    
1986 ダスティー・ローデス vsリック・フレアー (金網) 2/3 3/3
  ダスティー・ローデス(ミスター・イチバン) vs ケンドー・ナガサキ    
レッスルマニア6 ダスティー・ローデス vs ランディ・サーベージ 2/3 3/3
  ダスティー・ローデス vsレックス・ルーガー    
1988 ダスティー・ローデス vs バリー・ウインダム 2/2  
  ダスティー・ローデス vs エイドリアン・ストリートt 2/2  
  ダスティー・ローデス vs リック・フレアー
(baby Doll Turns)
2/2  
  ダスティー・ローデス vs アキーム 2/2  
  ダスティー・ローデス NWO Promo    
  ダスティー・ローデス マグナムTA vs ミッドナイト・エクスプレス    
  ダスティー・ローデス vs スティーブ・コリノ
Bullrope Match
2/2  
  ダスティー・ローデス vs バックランド/2/4 3/4 4/4
       
 








 


 






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