ダスティ・ローデス(Dusty Rhodes)
ヴァージル・ラネルズ・ジュニア(Virgil
Riley Runnels, Jr.、1945/1012 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、現WWEプロデューサー。
人物
テキサス州オースティン出身。ニックネームはアメリカン・ドリーム(The
American
Dream)。日本での異名は獣戦車(それ以前は“極道”)。「俺は配管工の息子から成り上がったんだ」が決め台詞。コテコテの南部訛りでのマイクパフォーマンスを得意とする。
日本ではダスティ・ローデスと表記されるが、正式にはダスティ・ローズと発音する(プロ野球選手のタフィ・ローズと同じスペル)。
130kgを越える巨体であったが動きは素早く、コミカルなショーマン・スタイルの第一人者として、1970年代から1990年代にかけて絶大なベビーフェイス人気を獲得した。しかし元々は喧嘩ファイトを得意とするラフファイターであり、ブルロープ・マッチをはじめデスマッチ形式の試合でも数々の流血戦を演じた。
実子のダスティン・ラネルズもプロレスラー(ダスティン・ローデス、ゴールダスト、ダスティ・ローデス・ジュニアなどのリングネームで知られる)。2006年から末子のコーディ・ローデスもプロレス界入りした(ダスティンとは異母兄弟)。
来歴
ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボールの選手として活躍していた(同期にブルーザー・ブロディ、ボビー・ダンカン。ザ・ファンクスは大学の先輩、スタン・ハンセンとテッド・デビアスは大学の後輩)。
ジョー・ブランチャードのコーチを受け、1968年にテキサス州サンアントニオでプロレスラーとしてデビュー。その後、セントラル・ステーツ地区で同じテキサス出身のディック・マードックとタッグチーム「ジ・アウトローズ」を結成し、NWAとAWAの両地区を股に掛けて活躍。日本には1971年11月に国際プロレスに初来日。以降、全日本プロレスと新日本プロレスに参戦した。
AWAではマードックとのコンビでディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキーの元祖・極道コンビと抗争を展開。"ダーティ"
ダスティ・ローデス("Dirty" Dusty Rhodes)の異名を持つテキサスの荒くれ極道としてヒール人気を高めた。
ジ・アウトローズ解散後の1973年下期、エディ・グラハムが主宰するフロリダ州のCWF(Championship Wrestling from Florida)に参戦。当初はAWA時代と同じくヒールのポジションだったが、マネージャーのゲーリー・ハート、パートナーのパク・ソンとの仲間割れを機に、1974年5月よりベビーフェイスに転向する。
以降は1980年代半ばまで約10年間に渡ってCWFを主戦場とし、南部のヒーロー的存在となってフロリダ・ヘビー級王座を通算11回[3]、南部ヘビー級王座を通算7回獲得。テリー・ファンク、アーニー・ラッド、キング・イヤウケア、ザ・シーク、オックス・ベーカー、キラー・カール・コックス、キラー・カール・クラップ、ブラックジャック・マリガン、ザ・スポイラー、ボブ・ループ、ボブ・オートン・ジュニア、バグジー・マグロー、イワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、バロン・フォン・ラシク、ミスター・サイトー、ディック・スレーター、アレックス・スミルノフ、ブルーザー・ブロディ、ビッグ・ジョン・スタッド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マーク・ルーイン、ケビン・サリバン、ザ・グレート・カブキ等々、名立たるヒール勢を迎え撃った。
フロリダではマードックとジ・アウトローズを再結成したこともあるが、ヒールのマードックを敵に回してシングル対決も行っている。また、ルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れたというアングルの後、マスクを被ってミッドナイト・ライダー(The
Midnight Rider)やウバルデ・スリム(Uvalde Slim)などと名乗り、一時的に覆面レスラーに変身したこともある。体型やファイトスタイルで正体は一目瞭然であり、対戦相手のヒールを撹乱し、ファンを楽しませるための演出だった。
1977年にはニューヨークのMSGでスーパースター・ビリー・グラハムのWWF世界王座に連続挑戦。以降もMSG定期戦にはスペシャル・ゲストの立場で何度となく出場し、スパイロス・アリオン、スタン・ステイジャック、ジミー・バリアント、トーア・カマタ、キラー・カーン、アンジェロ・モスカらと対戦(1979/12/17の定期戦では王者ハーリー・レイスVS挑戦者ローデスのNWA世界ヘビー級タイトルマッチも行われた)。1978/3/20にはアンドレ・ザ・ジャイアント&ミル・マスカラスと超豪華トリオを結成、ケン・パテラ、トール・タナカ、ミスター・フジ組を破っている。
1979/8/21、フロリダ州タンパでハーリー・レイスを破り第53代NWA世界ヘビー級王者となるが、5日後オーバー・ザ・トップロープによる反則負けで王座転落(アメリカのルールではトップロープを越えて場外に相手を落とすのは反則である。普通反則負けでは王座は移動しないが、時折特別ルールとして「反則でも王座移動」となることがあった)。その後1981/6/21に再びレイスから(第61代)、1986/7/26にはリック・フレアーから同王座を奪取し(第69代)、計3回に渡って載冠している。1985年頃からはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区でプロデューサーも兼任するようになり、数多くのイベントや試合形式、レスラーのギミックなどを企画した。
1989年から約2年間、WWF(現・WWE)と契約。黒人女子レスラーのサファイアをマネージャーに従え水玉模様のリングコスチュームを身にまとい、テッド・デビアス、ランディ・サベージ、ホンキー・トンク・マン、ビッグ・ボスマンらと抗争した。1990年代はWCWのプロデューサーに就任、一時期は事実上の引退状態だったが、nWoのメンバーでもあった。
WCW崩壊後は各地のインディー団体に出場し、2003年からはTNAのプロデューサーに就任(レスラーとしても活動)。2004年には息子と共にハッスルに参戦した。TNA離脱後、2005年にWWEとレジェンド契約を交わし、現在はWWEのプロデューサー・脚本家として裏方で活躍する一方、時折リング上に姿を見せることもある。2007年にはWWE
Hall of Fameに迎えられた(プレゼンターは息子のダスティンとコーディ)。
ローデスのパフォーマンスとして有名なのが「尻振りダンス」である。これは相手を倒した後、尻を左右にクリッ、クリッと振る動作で、アメリカでこれをやると観客は沸いたが、これを見たジャイアント馬場が、「こんなのが流行るのだから、アメリカというのはわからん国だ」と呆れていたという。
日本での活躍
初来日は前述のように1971年11月の国際プロレス。この時はストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦しているが0-2で敗れている。その後1973年6月にディック・マードックとのジ・アウトローズとして再来日。ラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した。
1975年11月には全日本プロレスに登場。マードックとのコンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、そのまま2人とも残留してオープン選手権に参加した。国際プロレスの常連外国人で同じくオープン選手権に参加したホースト・ホフマン、バロン・フォン・ラシクはそのまま全日本の常連になったが、ローデスが全日本に来たのはこれが最初で最後だった。開幕戦の日本では最初で最後となったハーリー・レイス戦は、日本でのベストバウトと言われている。馬場はローデスをあまり評価していなかったらしく「レスラーとしては何から何までマードックの方が上」と語っている
。
1979年10月には新日本プロレスに初参戦し、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。ローデスと新日本とのスタイルの違いを懸念する声もあったが、新日本がWWFとの提携でアメリカ色が強くなっていた時期でもありアメリカ同様に日本でもファンの支持を獲得、以降も新日本の常連外国人となり、平成に入るまで来日を続けた。アメリカでの活動が多忙のため1週間程度の特別参加が多く、シリーズを通しての参戦は困難だったものの、MSGシリーズにおけるアンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとの対戦、マードックとのアウトローズ復活、息子ダスティン・ラネルズとの親子タッグなど数々の名場面を残した。
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