上田 馬之助(1940年6月20日 - )
愛知県海部郡(現在の弥富市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代は、海部錦(あまにしき)の四股名で最高位は序二段12枚目。プロレス時代は、頭髪をまだらに金髪に染めていたことから「まだら狼」「金狼」と呼ばれた。全盛期は身長190cm、体重118kg。本名は上田
裕司。
経歴
1958年、大同工業高校を中退して追手風部屋に入門、1958年5月場所に初土俵を踏み、同年9月には部屋付き親方の間垣親方が分家独立するのに伴って間垣部屋に移る。当時の四股名は上田山(うえだやま)であったが、後に海部錦に改名した。
1960年、追手風部屋に同期入門した仲間である林牛之助(ミスター林)の誘いで力士を廃業して日本プロレスに入門、1961年4月に名古屋市金山体育館における平井光明戦でプロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場やアントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがダブル・リストロックを得意技とし、道場内での関節技スパーリング(上田いわく「極めっこ」)や真剣勝負(同「冷たい試合」
通称「ガチンコ」)には自信があったと本人は語っている。しかし、当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまうことがしばしばあったらしく、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていた。
1966年にアメリカに渡り「プロフェッサー・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年3月に帰国したが、ここでも馬場、猪木、坂口征二らの影に隠れ、大きな活躍はできなかった。1971年末の猪木追放騒動では、猪木の計画を日プロ幹部に密告したといわれる。馬場に次いで坂口も日プロ離脱を表明した1973年3月、大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得、念願の国内初戴冠を果たしたが、まもなく日プロは崩壊した。
その後、大木らと共に全日本プロレスへ参戦したが、前座扱いだった為(異説あり。)フリーとなり渡米、南部地区を中心に転戦した。1976年、アメリカから馬場、猪木、ラッシャー木村への挑戦を表明、木村が応じたため、同年5月に国際プロレスに参戦した。この時から前髪を金色に染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身(後に髪全部を染め、「金髪の狼」「金狼」と呼ばれるようになる)、ヒールとして凶悪ファイトに徹するようになった。木村と金網デスマッチなどで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得。日本マットでは初の本格日本人ヒールとして注目を集めた。
1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成して北米タッグ王座を獲得し、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けることになる。1978/2/8には因縁深い猪木と釘板デスマッチを実現(11分2秒
上田のTKO負け)。シンと仲間割れした決着戦では、猪木がレフェリーを務めるも、上田・シンとも猪木を急襲、試合は無効試合になるが、対猪木の共闘戦線としてシンと和解する。同年暮れにはヒロ・マツダ、マサ斎藤、サンダー杉山らフリーの日本人レスラー達と「狼軍団」を結成、新日勢と抗争を展開した。斎藤とのコンビでは国際プロレスにも参戦した。その後も主にシンとのコンビで新日に参加したが、1979年以降はやや戦績を落とし、坂口との北米ヘビー級王座をめぐる抗争がメインとなった。
1981年に再び全日本プロレスへ、先に移籍したタイガー・ジェット・シンを追う様に参戦した。ここでもインタータッグ王座を獲得するなど、ヒールとして大いに暴れた。しかし、またしてもシンと仲間割れをし全日本プロレスを去る。そして新日本プロレスの試合会場に突如スーツ姿で現れ、猪木に花束を渡すなどをして新日に再参戦。一時期はマシン軍団やヒロ斎藤との共闘をしていたが仲間割れし、カルガリーハリケーンズの離脱後に新日正規軍入り、UWF軍との5対5のイリミネーション・マッチでは、前田日明と心中して場外に飛び降り引き分けるという活躍をした。そのファイトでは前田のミドルキックの連発どころか側頭部へのハイキックさえも平然と受けて見せ倒れず、勢いをつけたフライング・ニールキックで漸く倒れた。(当時は上田のシュートでの強さはさほど認知されておらず、その上田が当時最強といわれた前田の蹴りを平然と受けきって見せたことで観客席からは大きなどよめきが起こった。ちなみに当時の上田の入場テーマは、後に三沢光晴も使った「スパルタンX」である。また、前述の全日本プロレスにおけるシンとの仲間割れを起こした試合は、全日正規軍+プリンス・トンガvs.シン軍団の4対4で行なわれた日本初のイリミネーション・マッチであり、両団体の歴史的試合にまたがって参加したのは上田だけである。)。その後はNOW、IWAジャパンといったインディー団体を転戦した。
1996年3月に東北自動車道で、西濃運輸との不慮の交通事故に遭遇。フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられ、普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていたことに加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていたことで一命を取り留めた。本人は車が衝突した瞬間以降のことは覚えていないらしい。
その事故により脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998/4/16に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。
その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、「リサイクルショップ上田屋」を経営。地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っている。2008年には近年のリハビリ生活がドキュメンタリー番組「生きる×2」で放映された。
2009年には、大分のローカルプロレス団体であるプロレスリングFTO所属のプロレスラーであるVINNIが、初代の同意の下「上田馬之助」の名前を襲名することを発表。同年7月5日に大分市内で襲名式が開かれ、上田本人は体調不良のため姿を見せなかったものの、立会人を真樹日佐夫が務めたほか、夫人より上田が現役当時使用していた竹刀とガウンが手渡された。
人柄
常に竹刀を片手にし、レスラー人生の大半を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。また、高いプロ意識の持ち主であったことが言動の随所に表れている。
- 相撲時代に毛筆(相撲字)の訓練を受けたために、能筆としても知られていた。
- サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「統一コミッショナーの下、プロレスにライセンス制度を復活させるべきだ」というような発言もしている。
- 全日本プロレスを離脱してフリーとして渡米した理由を「前座扱い」としていたが、親しいプロレス関係者には、プロレス草創期からの日本プロレスのレフェリーだった沖識名がハワイへ帰国する際に、全日本プロレスが沖識名の「ありがとう興行」を実施したのに、全日本サイドが売上から餞別を沖識名に一切渡さなかった為(上田と松岡巌鉄が自分のファイトマネーの中から沖識名に餞別を渡した)、『馬場は沖(識名)さんに昔からあれだけ世話になったのに……
恩知らずじゃないか』と激怒したことがきっかけだったと語り、後にその逸話はプロレス雑誌に紹介された。
- アナウンサーの徳光和夫とはお互いの若手時代から親しく、徳光は上田のことを「馬さん」と呼んでいる。上田が大事故による障害を負った後に日本テレビの『24時間テレビ』に出演した際、徳光が「馬さんもこんな辛いことになってしまって…」と語りかけると、上田も眼を潤ませながら「徳光さん、私は大丈夫です。元気ですよ」と応じた。
- ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
- 場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老女を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
- 徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。
- また茅ヶ崎のダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。川原でのバーベキュー等でも活躍。
- 以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ・フロリダ州ペンサコーラに移住していた時期がある(ラッシャー木村は猪木ファンからの攻撃で愛犬が脱毛症になるなどの被害を受けており、決してありえないことではなかった)。
- 入場時には、スポンサーであるキャピタルエース(合同商事)のジャージを永年着用していた。
- 自身の隆盛期が過ぎた頃に、海外で顔にペイントをし「テング」のキャラクターとリングネームでも活躍していた。なお日本では全日で一回だけ、ザ・グレート・カブキとのシングルが組まれた際にこのキャラクターで試合をした。
- 引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
- 交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
- 外国人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。
- 上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
- 5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、現役時代はそのことを伏せて戦っていた。
- 深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。
- 筆まめという一面もあった。日本プロレス時代に長期海外遠征を行った際には、親しい記者などに丁寧な文体で書かれた近況の手紙を定期的に送っていたという。
- 上田が新日正規軍から離れ(前述)セミリタイヤ状態となった後、新日本は「ニューリーダー対ナウリーダー」という世代闘争に入ったが、ある時上田が突如会場に現われ「何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ」というマイクアピールを行った。この模様は「言いたいことだけ言って上田は去っていった…」という見出し付きで、当時の週刊プロレスの表紙を飾った。後日の同誌のインタビューでは「団体に育ててもらい、今も世話になっている身で、それに刃向かうべきではない」とニューリーダーの姿勢を批判、さらに「そんな人間を勘違いさせる、おたくらマスコミも悪い」とも語っていた。
- 1990年頃の週刊プロレスのインタビューで、初代タイガーマスクのことを「お子様ランチ」と言い、初代タイガーの登場以降プロレスを好きになる世代が広がり、それに合わせるようにプロレス自体が空中技や派手な技に片寄りつつある中、プロレスの凄味はもっと違うところに有ると警鐘を鳴らしていたが、それ以降もプロレスは派手な技の応酬、危険な技が連続するものになっていった。
密告事件
力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。
ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。
一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、このことに気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。
当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」は良くも悪くも現在の価値観で言う暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。また、馬場の自伝においては、猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だったとされ、これに関係していた上田を馬場が詰問したら「上田が全部しゃべったんです」との記述がある。雑誌ゴングの元編集長竹内宏介(馬場の側近としても有名だった)も「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。
ただ2007年1〜5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」と語っている。上田は「証拠となるメモも残っている」と語っており、これが事実なら定説が覆ることになるが、今となっては馬場を含め当時の関係者の多くが亡くなっていて事実関係を検証するのは困難であり、真相は藪の中というのが現状である。
いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、「新日本プロレス」を旗揚げした猪木、「全日本プロレス」を起こした馬場が日本プロレスから離脱、客の呼べる両エースを失った日本プロレスは崩壊した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落としたことも事実である。
上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。
山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を抱く馬場は大熊の訃報すら伝えなかったため、「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。
出演
映画 ]
- 爆裂都市 BURST CITY(1982年、東映セントラルフィルム)
- パンツの穴(1984年、ジョイパックフィルム)
テレビ番組
- 痛快なりゆき番組
風雲!たけし城
- オレたちひょうきん族 - 「ひょうきんベストテン」で「コント赤信号」が自身を歌う場面でセットのリングよりスーツに竹刀片手に乱入、島崎俊郎演じるアントニオ猪木、片岡鶴太郎のタイガー・ジェット・シンらひょうきんレスラー軍と共演(実際はどつき回す)。
- たけしのお笑いサドンデス - 「三議員」と称した審査員のひとりとして、立川談志、手塚理美らと共演。
- 笑っていいとも-テレホンショッキングのコーナーでなぎら健壱から紹介された。タモリの「明日来てくれるかな?」に対して、「いいとも」と言わず、「OK」とだけ言って電話を切った。本番中にタモリにヘッドロックをかけた。
CM
- ワーナー・ランバート トライデント・シュガーレスガム(1983年〜1986年ごろ)
- 泉谷しげる、美保純らと共演。以下の複数バージョンが存在する。いずれも台詞は棒読み。ガムのロゴ入りTシャツを着て興行に出ていた時期もある。
- 「歯を大切にしましょうね」という美保に対して「歯なんかどうでもいいでしょう」と発言し、天罰の雷を浴びて黒焦げになる。
- 小学生に扮し「私は歯を大切にしてるので、ガムはトライデント・シュガーレスガムに決めてます。馬之助くんは?」と尋ねる美保に対して、同じく小学生の扮装をした上田が「僕は特に決めたりしません」というと、「トリャーッ!!」と美保に後頭部を思い切り叩かれ「歯に失礼でしょ!」と怒鳴られる。次のカットでは美保の半分くらいの背丈になっていて「いろんなガムが好きじゃいけませんか」と返すと「いけません」と言われる。
- リングでキックボクサーと戦い、顔に攻撃が入ったことに対して「トライデントで大切にしている歯になんてことをするんだ」と怒る。攻撃自体は全く効いていない。
- 眼鏡をかけた怪しげな風体で現われ、「ガムあげるからついておいで」と小学生の女の子に扮した美保に声をかける。「歯を大切にしてるからガムはトライデントしか食べないの!」と言う美保に「そんなのどこでも同じだよ!」と返すが、逆に美保に指を噛まれ「歯を馬鹿にしないで!!」と一喝されてしまう。
- 「ガムなんか何だっていいじゃねえか」と美保に噛み付いた泉谷に「泉谷、お前黙れ。お前の歯なんかどうなったっていいんだ」と一喝する。
- 後ろからブロック塀を破壊して、「もっと真面目にやれ!この野郎!」と言って泉谷に土下座をさせる。
- セガ・エンタープライゼス『ぷよぷよ通』(1994年)
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