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タイガー・ジェット・シンTiger Jeet Singh、1948/4/3 - )
本名ジャグジート・スィン・ハンスJagjit singh hans)は、インド・パンジャーブ州のルディヤーナー出身のプロレスラー、実業家。なお、日本以外での正式なリングネームはタイガー・ジート・スィンである。シク教徒。

ニックネームは「インドの猛虎(狂虎)」、「狂える虎」。息子のタイガー・アリ・シンもWWEのリングで活躍したプロレスラーである。

概略

彼はフェンシングのサーベルを振りかざす姿で一世を風靡した悪役レスラーである。しかし、ここぞという場面では正統派レスリングを見せ、アントニオ猪木らトップクラスのレスラーにも勝利している。言動には独自の哲学を徹底して貫いており、多くの関係者から一目置かれる存在となっている。

日本国外や地元トロントではベビーフェイスとして活躍を続ける一方、プロレス以外の様々な事業を経営している。プロレス業界のみならず、財界、政界とも繋がりがあり、北米インド人社会では最も著名な人物の一人である。

タイトル履歴

  • NWF認定世界ヘビー級王座
  • UWA認定世界ヘビー級王座
  • モントリオール版AWA認定世界ヘビー級王座
  • NWA認定インターナショナルタッグ
  • アジアヘビー級王座
  • アジアタッグ王座
  • NWA認定北米ヘビー級王座
  • NWA認定北米タッグ王座


上田 馬之助(1940年6月20日 - )
愛知県海部郡(現在の弥富市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代は、海部錦(あまにしき)の四股名で最高位は序二段12枚目。プロレス時代は、頭髪をまだらに金髪に染めていたことから「まだら狼」「金狼」と呼ばれた。全盛期は身長190cm、体重118kg。本名は上田 裕司

経歴

1958年、大同工業高校を中退して追手風部屋に入門、1958年5月場所に初土俵を踏み、同年9月には部屋付き親方の間垣親方が分家独立するのに伴って間垣部屋に移る。当時の四股名は上田山(うえだやま)であったが、後に海部錦に改名した。

1960年、追手風部屋に同期入門した仲間である林牛之助(ミスター林)の誘いで力士を廃業して日本プロレスに入門、1961年4月に名古屋市金山体育館における平井光明戦でプロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場やアントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがダブル・リストロックを得意技とし、道場内での関節技スパーリング(上田いわく「極めっこ」)や真剣勝負(同「冷たい試合」 通称「ガチンコ」)には自信があったと本人は語っている。しかし、当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまうことがしばしばあったらしく、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていた。

1966年にアメリカに渡り「プロフェッサー・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年3月に帰国したが、ここでも馬場、猪木、坂口征二らの影に隠れ、大きな活躍はできなかった。1971年末の猪木追放騒動では、猪木の計画を日プロ幹部に密告したといわれる。馬場に次いで坂口も日プロ離脱を表明した1973年3月、大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得、念願の国内初戴冠を果たしたが、まもなく日プロは崩壊した。

その後、大木らと共に全日本プロレスへ参戦したが、前座扱いだった為(異説あり。)フリーとなり渡米、南部地区を中心に転戦した。1976年、アメリカから馬場、猪木、ラッシャー木村への挑戦を表明、木村が応じたため、同年5月に国際プロレスに参戦した。この時から前髪を金色に染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身(後に髪全部を染め、「金髪の狼」「金狼」と呼ばれるようになる)、ヒールとして凶悪ファイトに徹するようになった。木村と金網デスマッチなどで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得。日本マットでは初の本格日本人ヒールとして注目を集めた。

1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成して北米タッグ王座を獲得し、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けることになる。1978/2/8には因縁深い猪木と釘板デスマッチを実現(11分2秒 上田のTKO負け)。シンと仲間割れした決着戦では、猪木がレフェリーを務めるも、上田・シンとも猪木を急襲、試合は無効試合になるが、対猪木の共闘戦線としてシンと和解する。同年暮れにはヒロ・マツダ、マサ斎藤、サンダー杉山らフリーの日本人レスラー達と「狼軍団」を結成、新日勢と抗争を展開した。斎藤とのコンビでは国際プロレスにも参戦した。その後も主にシンとのコンビで新日に参加したが、1979年以降はやや戦績を落とし、坂口との北米ヘビー級王座をめぐる抗争がメインとなった。

1981年に再び全日本プロレスへ、先に移籍したタイガー・ジェット・シンを追う様に参戦した。ここでもインタータッグ王座を獲得するなど、ヒールとして大いに暴れた。しかし、またしてもシンと仲間割れをし全日本プロレスを去る。そして新日本プロレスの試合会場に突如スーツ姿で現れ、猪木に花束を渡すなどをして新日に再参戦。一時期はマシン軍団やヒロ斎藤との共闘をしていたが仲間割れし、カルガリーハリケーンズの離脱後に新日正規軍入り、UWF軍との5対5のイリミネーション・マッチでは、前田日明と心中して場外に飛び降り引き分けるという活躍をした。そのファイトでは前田のミドルキックの連発どころか側頭部へのハイキックさえも平然と受けて見せ倒れず、勢いをつけたフライング・ニールキックで漸く倒れた。(当時は上田のシュートでの強さはさほど認知されておらず、その上田が当時最強といわれた前田の蹴りを平然と受けきって見せたことで観客席からは大きなどよめきが起こった。ちなみに当時の上田の入場テーマは、後に三沢光晴も使った「スパルタンX」である。また、前述の全日本プロレスにおけるシンとの仲間割れを起こした試合は、全日正規軍+プリンス・トンガvs.シン軍団の4対4で行なわれた日本初のイリミネーション・マッチであり、両団体の歴史的試合にまたがって参加したのは上田だけである。)。その後はNOW、IWAジャパンといったインディー団体を転戦した。

1996年3月に東北自動車道で、西濃運輸との不慮の交通事故に遭遇。フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられ、普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていたことに加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていたことで一命を取り留めた。本人は車が衝突した瞬間以降のことは覚えていないらしい。

その事故により脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998/4/16に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。

その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、「リサイクルショップ上田屋」を経営。地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っている。2008年には近年のリハビリ生活がドキュメンタリー番組「生きる×2」で放映された。

2009年には、大分のローカルプロレス団体であるプロレスリングFTO所属のプロレスラーであるVINNIが、初代の同意の下「上田馬之助」の名前を襲名することを発表。同年7月5日に大分市内で襲名式が開かれ、上田本人は体調不良のため姿を見せなかったものの、立会人を真樹日佐夫が務めたほか、夫人より上田が現役当時使用していた竹刀とガウンが手渡された。

人柄

常に竹刀を片手にし、レスラー人生の大半を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。また、高いプロ意識の持ち主であったことが言動の随所に表れている。

  • 相撲時代に毛筆(相撲字)の訓練を受けたために、能筆としても知られていた。
  • サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「統一コミッショナーの下、プロレスにライセンス制度を復活させるべきだ」というような発言もしている。
  • 全日本プロレスを離脱してフリーとして渡米した理由を「前座扱い」としていたが、親しいプロレス関係者には、プロレス草創期からの日本プロレスのレフェリーだった沖識名がハワイへ帰国する際に、全日本プロレスが沖識名の「ありがとう興行」を実施したのに、全日本サイドが売上から餞別を沖識名に一切渡さなかった為(上田と松岡巌鉄が自分のファイトマネーの中から沖識名に餞別を渡した)、『馬場は沖(識名)さんに昔からあれだけ世話になったのに…… 恩知らずじゃないか』と激怒したことがきっかけだったと語り、後にその逸話はプロレス雑誌に紹介された。
  • アナウンサーの徳光和夫とはお互いの若手時代から親しく、徳光は上田のことを「馬さん」と呼んでいる。上田が大事故による障害を負った後に日本テレビの『24時間テレビ』に出演した際、徳光が「馬さんもこんな辛いことになってしまって…」と語りかけると、上田も眼を潤ませながら「徳光さん、私は大丈夫です。元気ですよ」と応じた。
  • ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
  • 場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老女を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
  • 徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。
  • また茅ヶ崎のダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。川原でのバーベキュー等でも活躍。
  • 以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ・フロリダ州ペンサコーラに移住していた時期がある(ラッシャー木村は猪木ファンからの攻撃で愛犬が脱毛症になるなどの被害を受けており、決してありえないことではなかった)。
  • 入場時には、スポンサーであるキャピタルエース(合同商事)のジャージを永年着用していた。
  • 自身の隆盛期が過ぎた頃に、海外で顔にペイントをし「テング」のキャラクターとリングネームでも活躍していた。なお日本では全日で一回だけ、ザ・グレート・カブキとのシングルが組まれた際にこのキャラクターで試合をした。
  • 引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
  • 交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
  • 外国人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。
  • 上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
  • 5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、現役時代はそのことを伏せて戦っていた。
  • 深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。
  • 筆まめという一面もあった。日本プロレス時代に長期海外遠征を行った際には、親しい記者などに丁寧な文体で書かれた近況の手紙を定期的に送っていたという。
  • 上田が新日正規軍から離れ(前述)セミリタイヤ状態となった後、新日本は「ニューリーダー対ナウリーダー」という世代闘争に入ったが、ある時上田が突如会場に現われ「何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ」というマイクアピールを行った。この模様は「言いたいことだけ言って上田は去っていった…」という見出し付きで、当時の週刊プロレスの表紙を飾った。後日の同誌のインタビューでは「団体に育ててもらい、今も世話になっている身で、それに刃向かうべきではない」とニューリーダーの姿勢を批判、さらに「そんな人間を勘違いさせる、おたくらマスコミも悪い」とも語っていた。
  • 1990年頃の週刊プロレスのインタビューで、初代タイガーマスクのことを「お子様ランチ」と言い、初代タイガーの登場以降プロレスを好きになる世代が広がり、それに合わせるようにプロレス自体が空中技や派手な技に片寄りつつある中、プロレスの凄味はもっと違うところに有ると警鐘を鳴らしていたが、それ以降もプロレスは派手な技の応酬、危険な技が連続するものになっていった。

密告事件

力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。

ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。

一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、このことに気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。

当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」は良くも悪くも現在の価値観で言う暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。また、馬場の自伝においては、猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だったとされ、これに関係していた上田を馬場が詰問したら「上田が全部しゃべったんです」との記述がある。雑誌ゴングの元編集長竹内宏介(馬場の側近としても有名だった)も「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。

ただ2007年1〜5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」と語っている。上田は「証拠となるメモも残っている」と語っており、これが事実なら定説が覆ることになるが、今となっては馬場を含め当時の関係者の多くが亡くなっていて事実関係を検証するのは困難であり、真相は藪の中というのが現状である。

いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、「新日本プロレス」を旗揚げした猪木、「全日本プロレス」を起こした馬場が日本プロレスから離脱、客の呼べる両エースを失った日本プロレスは崩壊した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落としたことも事実である。

上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。

山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を抱く馬場は大熊の訃報すら伝えなかったため、「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。

出演

映画 ]

  • 爆裂都市 BURST CITY(1982年、東映セントラルフィルム)
  • パンツの穴(1984年、ジョイパックフィルム)

テレビ番組

  • 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城
  • オレたちひょうきん族 - 「ひょうきんベストテン」で「コント赤信号」が自身を歌う場面でセットのリングよりスーツに竹刀片手に乱入、島崎俊郎演じるアントニオ猪木、片岡鶴太郎のタイガー・ジェット・シンらひょうきんレスラー軍と共演(実際はどつき回す)。
  • たけしのお笑いサドンデス - 「三議員」と称した審査員のひとりとして、立川談志、手塚理美らと共演。
  • 笑っていいとも-テレホンショッキングのコーナーでなぎら健壱から紹介された。タモリの「明日来てくれるかな?」に対して、「いいとも」と言わず、「OK」とだけ言って電話を切った。本番中にタモリにヘッドロックをかけた。

CM

  • ワーナー・ランバート トライデント・シュガーレスガム(1983年〜1986年ごろ)
泉谷しげる、美保純らと共演。以下の複数バージョンが存在する。いずれも台詞は棒読み。ガムのロゴ入りTシャツを着て興行に出ていた時期もある。
  • 「歯を大切にしましょうね」という美保に対して「歯なんかどうでもいいでしょう」と発言し、天罰の雷を浴びて黒焦げになる。
  • 小学生に扮し「私は歯を大切にしてるので、ガムはトライデント・シュガーレスガムに決めてます。馬之助くんは?」と尋ねる美保に対して、同じく小学生の扮装をした上田が「僕は特に決めたりしません」というと、「トリャーッ!!」と美保に後頭部を思い切り叩かれ「歯に失礼でしょ!」と怒鳴られる。次のカットでは美保の半分くらいの背丈になっていて「いろんなガムが好きじゃいけませんか」と返すと「いけません」と言われる。
  • リングでキックボクサーと戦い、顔に攻撃が入ったことに対して「トライデントで大切にしている歯になんてことをするんだ」と怒る。攻撃自体は全く効いていない。
  • 眼鏡をかけた怪しげな風体で現われ、「ガムあげるからついておいで」と小学生の女の子に扮した美保に声をかける。「歯を大切にしてるからガムはトライデントしか食べないの!」と言う美保に「そんなのどこでも同じだよ!」と返すが、逆に美保に指を噛まれ「歯を馬鹿にしないで!!」と一喝されてしまう。
  • 「ガムなんか何だっていいじゃねえか」と美保に噛み付いた泉谷に「泉谷、お前黙れ。お前の歯なんかどうなったっていいんだ」と一喝する。
  • 後ろからブロック塀を破壊して、「もっと真面目にやれ!この野郎!」と言って泉谷に土下座をさせる。
  • セガ・エンタープライゼス『ぷよぷよ通』(1994年)


インディーズ時代(1992年〜)

1992年にFMWに参戦。ストリートファイトマッチを始め、過激なデスマッチ路線を邁進していたこの団体においてシンは、水を得た魚の如く蘇り大活躍をした。FMWのリングでは、大仁田と電流爆破デスマッチ、関ヶ原でのノーピープル電流爆破デスマッチ等多数の名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シン(当時はタイガー・ジェット・シン・ジュニアを名乗った)と組んでタッグリーグ戦に参加した。また、シンをFMWに呼び寄せたともされたザ・シークともコンビを結成したが、後に仲間割れした。

その後NOWに参戦し、上田馬之助とのタッグを復活させたが後に仲間割れし、一転して抗争状態に。さらに参戦したIWA・JAPANではベビーフェイスになってミスター・ポーゴと抗争するなど、インディー団体を中心に転戦し続けた。近年の来日ではハッスルで小川直也と戦い、敗れはしたものの小川を流血させた。その後HG、クロマティ、曙、ボブ・サップなどと戦い、彼らを血祭りにあげた。還暦を遥かに過ぎたとは思えぬスピードとスタミナ、自分の子供のような世代のレスラー達を狂乱ファイトで痛め続け、狂虎健在ぶりをアピールしている。2009/7/26にはハッスル・両国国技館大会においてアブドーラ・ザ・ブッチャーと1989年以来20年ぶりのタッグを結成するも、お約束の同士討ちにより、シンがフォール負け。同大会の因縁勃発を受け、同7/30には19年ぶりにブッチャーとの一騎打ちを展開。試合のほぼすべてが場外戦の末、無効試合となった。


  タイガー・ジェットン vs ボブ・サップ 2/2  
  大仁田vシンin関ヶ原    
  タイガー・ジェット・シン vs 大仁田厚    
  タイガー・ジェット・シンh vs ミスター雁之助    
  タイガー・ジェット・シン vs テリー・ファンク    
       
       
       
       

新日本プロレス復帰(1990 - 1992年)

1990年9月に行われたアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントにおいて、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。これを機に新日本プロレスへ復帰を果たすも体力的な衰えは隠せず、台頭してきた闘魂三銃士との試合もかみ合わずじまいで、メインイベンターからは遠退いていった。また、アントニオ猪木デビュー30周年に合わせ、グレーテスト18クラブなる親睦団体兼新タイトルが設けられ、シンは開設当初からメンバーだったものの後に除名されたり猪木とのシングルマッチの権利を奪われたりと不遇が重なった。ただし全日本プロレス時代に比べて、シンの暴れっぷりはむしろ復活していた。シンより一〜二世代若い長州力、ブラック・キャット等のレスラーを次々と血祭りにあげたり、場外では馳浩が所有する自動車をバットでメッタ打ちにしその因縁から馳と巌流島決戦を行うなど、自らの健在ぶりをアピールした。


1991/3/21
東京ドーム
タイガー・ジェット・シン vs 長州力    
1986/6/6
札幌
上田馬之助 vs 前田日明    
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

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全日本プロレス参戦期(1981 - 1990年)

1981年7月に全日本プロレスに移籍し、再び上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。1980年代前半はザ・シークやテリー・ファンクら外人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。輪島大士の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。特に1980年代後半は以前と比べると流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの持ち味であるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。





1990 タイガー・ジェット・シン vs アブドーラ・ザ・ブッチャー 2/2  
  タイガー・ジェット・シン アブドーラ・ザ・ブッチャー vs ダイナマイト・キッド デイビー・ボーイ・スミス    
1989 タイガー・ジェット・シン アブドーラ・ザ・ブッチャー vs スタン・ハンセン 天龍源一郎 2/2  
1989 タイガー・ジェット・シン アブドーラ・ザ・ブッチャー vs 谷津嘉章 田上明    
1989 タイガー・ジェット・シン アブドーラ・ザ・ブッチャー vs ジャンボ鶴田 高野俊二 2/2  
1988
大阪
タイガー・ジェット・シン アブドーラ・ザ・ブッチャー vs スタン・ハンセン テリー・ゴディ 2/2  
1988 タイガー・ジェット・シンh アブドーラ・ザ・ブッチャー vs ディック・スレーター トミー・リッチ 2/2  
       
1987
青森
タイガー・ジェット・シン 阿修羅原 vs The ザ・グレート・カブキ 輪島大士 2/2  
1987
千葉
タイガー・ジェット・シン ジョージ・ワインゲロフ vs タイガーマスク 仲野信市 2/2  
1987
長野
タイガー・ジェット・シン vs 輪島大士 2/2  
1987
後楽園ホール
タイガー・ジェット・シン キラー・トーア・カマタ vs 天龍源一郎 輪島大士 2/2  
1987
横浜
タイガー・ジェット・シン vs 谷津嘉章 2/2  
1987
高松 
タイガー・ジェット・シン テキサス・レッド vs 天龍源一郎 輪島大士 2/2  
1987 タイガー・ジェット・シン テキサス・レッド vs ジャンボ鶴田 輪島大士 2/2  
1987  タイガー・ジェット・シン ジョージ・ワインゲロフ vs 輪島大士 石川敬士 2/2  
  タイガー・ジェット・シン ア・シーク vs 天龍源一郎 輪島大士 2/2  
1987
横浜
タイガー・ジェット・シン vs 輪島大士 2/2  
1987
札幌
タイガー・ジェット・シン vs 輪島大士 2/2  
1986
七尾
タイガー・ジェット・シン vs 輪島大士 2/2  
1986/3/13
日本武道館 
タイガー・ジェット・シン ワンマン・ギャング vs ハリー・レイス クラッシャー・ブラックウェル    
1985/8/23
後楽園ホール
タイガー・ジェット・シン vs 長州力 2/2  
1984/12/8
愛知
タイガー・ジェット・シン vs グレート小鹿    
1983
秋田
上田馬之助 vs 天龍源一郎 2/2  
1982/6/8
蔵前国技館
上田馬之助 スタン・ハンセン vs 天龍源一郎 ディック・スレーター 2/2  
1982 タイガー・ジェット・シン 鶴見五郎 vs ジャンボ鶴田 The ザ・グレート・カブキ 2/2  
1982
蔵前国技館
上田馬之助 スーパー・デストロイヤー vs 天龍源一郎 阿修羅原 2/2  
1982
後楽園ホール
タイガー・ジェット・シン vs ジャンボ鶴田 2/3 3/3
1981/12/9
札幌
タイガー・ジェット・シン vs ザ・シーク    
1981
愛知
タイガー・ジェット・シン vs ハリー・レイス    
1981/10/6
宮城
上田馬之助 バック・ロブレイ vs ドリー・ファンクJr. .テリー・ファンク 2/2  
1981/7/6
秋田 
タイガー・ジェット・シン ボビー・ハンセン vs ジャンボ鶴田 天龍源一郎 2/2  
1981/7/3
越谷
タイガー・ジェット・シンh vs ディック・スレーター 2/2  

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新日本プロレス参戦期(1973 - 1981年)

1973年5月に新日本プロレスに参戦するため初来日。アントニオ猪木と因縁の抗争劇を繰り広げ悪役レスラーのトップとなった。1975年3月に猪木を破りNWFヘビー級王座を獲得。1976年7月には坂口征二を破り初代アジアヘビー級王座を獲得。1977年2月には上田馬之助とタッグチームを組み、坂口征二&ストロング小林組から北米タッグ王座を獲得。しかし1980年頃からスタン・ハンセンらの台頭により、人気に陰りが見えはじめてくる。


 
  タイガー・ジェット・シンh 上田馬之助 vs スタン・ハンセン ハルク・ホーガン 2/2  
       
       
       
       
       
       

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来日前(〜1973年)

1964年にシンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない。

ジャイアント馬場のアメリカ修行時代の師匠で知られたフレッド・アトキンスに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー(ここからのプロフィールははっきりしている)。翌1966年には師匠のアトキンスとのタッグで同地区のインターナショナルタッグ王座を奪取する。

日本では全く無名の存在であったが、1967年6月にジョニー・バレンタインを破ってトロント地区のUSヘビー級王座を獲得すると、当時のトロント地区で完全にメインイベンターの地位を確立。同年にはNWA世界王者ジン・キニスキーに1度、WWWF(現WWE)世界王者ブルーノ・サンマルチノに2度挑戦している。1968年の暮れにベビーフェイスに転向するとさらに人気は増し、1971年2月に行われたザ・シークとの一騎打ちでは18000人を超える観衆を集め、当時の年収は約8万ドル(当時の為替レートで約2500万円ほど)にも達していたという。


 
1981/4/10
広島
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ブルーザー・ブロディ    
1980/12/1 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ザ・シーク 2/2  
1979 アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ワフー・マクダニエル 2/2  
 1979 アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ミル・マスカラス ドス・カラス 2/2  
1979/11/30  アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ワフーマクダニエル フランク・ヒル    
1979/9/6
滋賀 
アブドーラ・ザ・ブッチャー カルロス・コロン ボボ・ブラジル vs ジャイアント馬場 ジャンボ鶴田 ミル・マスカラス 2/3 3/3
1979/8/22
札幌
アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ミル・マスカラス 2/2  
  アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ザ・ファンクス 2/3 3/3
1978/12/15
札幌
アブドーラ・ザ・ブッチャーキマラ Ⅱvs ニック・ボックウインクル ブラックジャック・ランザ 2/2  
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs テリー・ファンク    
1978  アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ザ・ファンクス 2/2  
1977/12/14
大阪
アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs ビル・ロビンソン ホスト・ホフマン    
1977/10/10 アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シーク vs 大木金太郎 タイガー戸口    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs Gジャイアント馬場    
  アブドーラ・ザ・ブッチャートーア・カマタ Vs ザ・シーク & グレート・メフィスト    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ドン・レオ・ジョナサン    
  アブドーラ・ザ・ブッチャーvs ザ・デストロイヤー    




「襲撃事件」と「腕折り事件」

  • 1973年11月、タイガー・ジェット・シンは2度目の来日中に外人レスラー数名と組み、倍賞美津子(当時の猪木夫人)と買い物中だったアントニオ猪木を新宿伊勢丹前で白昼堂々と襲撃し警察沙汰となる事件を起こした。猪木は負傷・流血し警察にも通報された。

新日本プロレスに対する四谷警察署の対応は、「本当の喧嘩であれば猪木はシンを傷害罪で告発し、被害届を出せ。やらせであれば、道路交通法違反(道路無許可使用)で新日本プロレスを処分する」という厳しいものだった。これに対し新日本プロレスは、「やらせではない。シンは契約選手なので傷害罪で告発することは出来ないが、騒ぎを起こしたことは申し訳なく、お詫びなら幾らでもする」と始末書を提出し、事件は新日本プロレスに対する厳重注意で収まった。

この事件は各方面で報道され世間でも話題になり、シンは本当に狂っているのではないかという印象を強く与えた。以後猪木はリング上で制裁を加えると公言し、猪木対シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集めることとなった。事件直後の1973/11/16、札幌中島スポーツセンターで超満員の中猪木と二度目の一騎打ちが実現。両者大流血の喧嘩ファイトとなった。

それまでの猪木のファイトは正統派スタイルを売りにしていたが、対シン戦で猪木が見せた喧嘩ファイトは猪木の新たな魅力を引き出し、ファンの増加をもたらした。またシンという絶対悪が存在する限り、日本人受けが良いとされる勧善懲悪の世界を築くことができた。これら一連のシン効果により、新日本プロレスはメジャー団体への階段を昇る。

翌1974年6月、NWF王者猪木(当時)とシンのタイトルマッチ2連戦は、両者の遺恨がピークに達した試合と今でも語り継がれる。同6/20、東京・蔵前国技館の60分3本勝負において、2本目開始直後にシンは猪木の顔面に火炎攻撃を仕掛け、サーベルで猪木を滅多打ちにし流血させた。猪木はタイトルこそ防衛したものの、左目と頭部を負傷した。その傷が完治しないまま6日後、6/26の大阪府立体育会館での60分3本勝負は、1本目がシンの徹底した反則攻撃により猪木は大流血。2本目に猪木の怒りが頂点に達し、シンの右腕に狙いを定めると鉄柱攻撃などで集中的に攻め続け、最後はショルダー・アームブリーカーを連発しシンの右腕を骨折させ、ドクターストップの末猪木がタイトルを連続防衛し、ここに両者の遺恨に一旦終止符が打たれた。なお、猪木自身は「腕を折った」と明言しているが、実際にはヒジもしくは肩の亜脱臼だという。

双方の攻防は、いずれも一歩間違えればレスラー生命に関わる激しいものであったが、両者には互いが共栄していくためには、超えてはならない一線を超えることも是とする暗黙の了解があったとされる。当時の猪木は日本プロレスを追放されたも同然の身で、ライバル団体の全日本プロレスに追いつき追い越したいという野望があり、シンも新天地日本でトップヒールとして開花したいという、両者の強烈なハングリー精神が共感した上で、前述の遺恨試合2連戦が展開された。特に第二戦の大阪府立体育会館においては、猪木対シンの試合開始1、2時間前から会場は超満員(8,900人)の観客で溢れ、入場出来なかった多くの熱心なファンが係員と押し問答となったり、ダフ屋では1,000円のチケットに5,000円の値がついたりと場外でも話題は尽きなかった。また、試合を生で観戦した者は「会場全体が、これから殺し合いでも始まるのではないかという異様な熱気と興奮に包まれていた」と当時の様子を回顧する。

後年、ミスター高橋はその著作の中で、新宿伊勢丹襲撃劇は猪木夫妻が了解済みのアングル作りであったこと、シンに荷担したビル・ホワイトもやらせであったことを暴露している。ただし、「我々はある程度良識の範囲内での襲撃を想定していたのだが、途中からシンが本気になってしまった」とシンの予定外の暴挙が騒動に発展したことを明かしている。


 
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人物

  • ミスター高橋は著書の中で、シンが狂人どころか非常に聡明で紳士的な人間であることを強調しており、ヒールとしてのキャラクターは完全に演技であることを明かしている(インドで募金活動をするなど、善意や篤志が有る)。ちなみに「手が付けられないほど、試合中に本当に狂ってしまったのは猪木」とも証言されている。
  • 山本小鉄が巡業先のスポンサーの社長宅で、バーベキューに呼ばれたことがあった。社長は「どうせなら外人レスラーも連れてきてよ」と言い、当時外人選手係りでもあった山本小鉄は、シンと一緒に赴いた。シンはターバンにスーツという、インド式の正装であった。そのうちバーベキューの火力が強くなり、段々汗ばんできたきたシンは、「社長、上着を脱いでもよろしいでしょうか」と一言断りを入れたという。シンの紳士ぶりを象徴する一例である。
  • カナダのトロント地区はインド・パキスタン系住民の多い地であり、この地でのシンは、デビュー直後の数年間を除いて一貫してベビーフェイスである。またアメリカのデトロイトなどでザ・シークと対戦する際もベビーフェイスとして活動している。
  • ヒールとしてのモデルはやはりザ・シークであり、狂人キャラを貫く点、決してプライベートを明かさない点にそれが見える。
  • リングの内外を問わず、大変な倹約家として知られる。トロントでの事業が成功した大きな要因であり、それを物語る一例としてシンと親しいある日本人プロレス記者は、「(シンがメインを取っていた全盛期の頃)週に100万円稼ぐシンが(来日中に)使う金は一日5,000円以下だった」と語る。
  • 普段は物静かで寡黙なシンが、リングに向かう時は急変して大暴れしながら入場する。余談だが、若き日のスタン・ハンセンはこの様子を見て「シンはプロだ」と痛感。客席を暴れながら入場するスタイルなど、ハンセンがシンから受けた影響はかなり大きいと言われる。
  • かつてメインをとっていた全盛期は、「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」と、自身のヒール哲学を徹底的に貫いていたシンだが、体力的な衰えと嘗ての盟友だった上田馬之助の交通事故が転機となり、ファンに愛されるヒールに転向。リビングレジェンドのイメージが色濃くなった近年は、観客に暴行を加え、それでなおかつファンに敬愛されるという唯一無二のキャラクターを確立している。プロレスの楽しみ方も多様化し、1970-1980年代のように本気でシンを怖がって逃げるファンは減り、逆にシンに襲われることを一種のステータスと認めている次世代のファンが増えている。
  • 1990年代後半からはしばしばサイン会等を行い、ファンとの交流に努めている。また、ゴージャス松野らとCDアルバム『愛が地球を救うのだ』を発表し、アニメ『妖怪人間ベム』の主題歌を熱唱したり、バラエティ番組「BANG! BANG! BANG!」にゲスト出演したりと、プロレス以外のメディアでも活躍。
  • 初来日時から関係者でも容易に近付けない雰囲気を放っていたが、実際は電話魔であり大の写真好き。暇さえあればカメラマンを呼び付けては自身の写真撮影を要求していた。
  • 田中秀和リングアナは若い頃、新日本プロレスのリング上でプロレスラーに暴行を受けることがしばしばあった。そのことについて自身のブログで、「シンが僕を襲う場合は悪役としての、プロとしての信念や魂のようなものを感じられた。シンが襲いに来るか否かは雰囲気で分かるようになったし、襲われると分かっていても僕は逃げなかった。シンが悪役のプロなら僕はシンに襲われるプロだ。しかし、アブドーラ・ザ・ブッチャーの場合は単に殴られ損だったので、すぐに逃げた」と語る。
  • 来日間もない頃は英会話が苦手であり、いわゆるブロークン・イングリッシュで発音していたため、日本人には却って聞き取りやすかった。ある日本人プロレス記者は、「陽気にペラペラ喋りたてるアメリカンと違い、シンの英語は不思議と誠意が伝わってくる」とも語る。
  • 2007年ハッスルの青森大会辺りから昔以上に凶悪度が増し始める。青森大会では対戦したKUSHIDA選手が瀕死の大流血に陥り、他の大会(主に後楽園ホール)では女性客にサーベルを突き刺したり、OLを椅子で殴るなどの狂乱ファイトに、観客の子供は泣き叫びカップルは逃げ惑い、果ては客席で観戦していたスポンサーのお偉いさんも襲われるなど阿鼻叫喚の往年のシンの世界を展開させている。また、60を過ぎた肉体にもかかわらず筋骨隆々で100kgを超える選手にいまでもアルゼンチン・バックブリーカーを掛ける。
  • 日本ではシンにブッチャーとザ・シークを加え、「世界三大ヒール」等と称されることが多い。相手選手を反則攻撃で痛めつけ、凶器で流血させるという全盛期の基本的なスタイルは共通しているものの、三者とも独自のキャラクターをしっかりと築いていた。
    • ある日本人プロレス記者は、ザ・シークはレスラー仲間から尊敬されるヒール、ブッチャーはファンに愛されるヒール、そしてシンはファンに恐怖を与えるヒールと大別する。日本における三者の全盛期は多少の差異はあるものの、一般的に1970-1980年代とされる。この頃、悪の限りを尽くしながらもブッチャーは絶大な人気を誇り、同じくシークは年齢的にピークを過ぎていたものの、プロモーターとしてビジネスをしっかりこなしていた。
    • 同じ頃シンは、既述の新宿伊勢丹襲撃事件を筆頭に観客や記者への暴行等を繰り返し、やがてリングの外でもヒールというキャラクターを貫いた。ブッチャーやシークは概ね試合中でのみ凶行に及び、リングを降りるとインタビューや写真撮影等に気さくに応じていたのに対し、シンの場合は控え室や移動中等でもファンや関係者をしばしば襲っていた。その様子がメディアを通じて知られるようになり、唯一無二の恐怖を与えるヒールを確立した。
    • またブッチャーとシークは、小型の鋭利な凶器で相手を静的に流血させることがほとんどであったが、三者の中で最も若く長身なシンは、小型の凶器からテーブル、テレビカメラの三脚、竹箒、三連パイプイス等と大型の凶器までを動的に使いこなし、リング狭しとスピーディーに暴れるスタイルが特徴であった。一時は手錠で相手の自由を奪ったり火を放ったりと演出も豊富であった。この違いについてアントニオ猪木は、「ブッチャーとシークのスタイルは残酷ショーだが、シンはそれと違う」と語る。
  • 息子タイガー・アリ・シンらが幼少期の頃、来日に伴いシンが留守のときは家はジット夫人が守ることとなった。躾に厳しい母が常駐する一方、久方ぶりにシンが帰国したら幼い息子らをつい溺愛してしまう。そのため息子アリ・シンらにとっては、「家では母(ジット夫人)が悪役」であった。ただしケンカに負けて帰ってくると普段は優しい父シンも、「白人のガキどもなんかもっとブッ飛ばせ」と激怒していた。

エピソード等

  • 上田馬之助とタッグチームを組んでいた頃、ストリップ劇場でサモアンズ1号・2号に「踊り子に手を出すな」と注意したことでトラブルになり、劇場外の交差点の真ん中で2対2の乱闘を繰り広げた。
  • 新日本プロレスに参戦する前に「ヒンズー・ハリケーン」のリングネームを使用した時もある。
  • インド人コミュニティーが存在する南アフリカでプロレスのブッカーをしていたこともある。1987年、全日本プロレスにオファーを出し、ジャイアント馬場はそれに応えてハル薗田をブッキングした。ハル薗田とその妻は新婚旅行も兼ねて南アフリカに向かったが、その往路、南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇し不帰の客となった。この時ばかりはシンも沈痛な面持ちで、マスコミのインタビューには背広姿で現れ、「ソノダと彼のワイフをこの様な事故で死なせてしまったことは大変申し訳ない」「彼(ソノダ)はとても良い友人でした」と、普段のギミックからは想像も付かない様な真摯な対応を見せた。その姿はヒール姿しか知らぬ日本のプロレスファンに、薗田の事故死とはまた別の意味で大きな衝撃を与えることになった。薗田夫妻の事故死はもちろんシンには何ら責任はないものであるが、その『償い』として犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと地上最凶悪コンビを結成し、全日本プロレスの興行に貢献したとされる。
  • 1970年代半ばの新日本プロレスは、シンを中心に回っていると言っても過言では無かった。事実シンが登場する興行は飛ぶように売れ、新日本プロレスはシンが登場しない興行との抱き合わせ販売もした。またNWFがシンを介して様々な手法で新日本プロレスに揺さぶりをかけたかのように見せ、当時はマイナーなタイトルだったNWFのベルトやタイトル戦の付加価値を高めた。
  • ミスター高橋によると既述の「腕折事件」以後、骨折していることを装うため帰国までシンの右腕に包帯を巻き続けることを提案した。何日も同じ部位を覆っていたため後に腕の皮膚が炎症を起こしたが、シンは帰国までこれを実行したという。
  • 今では当たり前のように見られるリング外の場外フェンスは、1980年から新日本プロレスがシン対策(観客の安全を確保するため)として常設したのが最初である。フェンス設置直後は、オーバー・ザ・フェンスなる新ルールが設けられた(相手選手をフェンスの外に出せば反則負け)。これにより場外乱闘の行動半径が狭められる格好となったが、代わりにシンはフェンス目掛けてパイプ椅子を投げつける、通称「イス投げ」というムーブメントを確立した。
  • 1979/8/26、東京スポーツ社主催「プロレス夢のオールスター戦」で、ファン投票で1位に選ばれたメインカードが、シン・ブッチャー組対猪木・馬場組であった。対戦前は「俺がブッチャーと組むくらいならむしろ猪木と組んで、ブッチャー・馬場組と対戦してやる」と、ブッチャーとのコンビを露骨に拒否したが、後年「あのオールスター戦のことはよく覚えている。もしメインが、ザ・ファンクス対馬場・猪木であれば、全日本プロレスの色が相当濃かっただろう。それを押さえて俺(シン)を含めたカードが1位で、しかもメインをとったことは今でも誇りに思う」と語っている。ちなみに馬場は引き分けで終わることを望みそれで予定はほぼ決まっていたが、試合直前に猪木から馬場へ電話があり、「俺(猪木)とシンで話がついたから」と語り、結果はシンのピンフォール負けであった。
  • 新日本参戦時の試合中に、サラリーマンとおぼしき観客に傘で殴りかかられたことがある。その際には徹底的な制裁を加え、続行中の試合実況において「先ほどのお客さんは病院に搬送されました」というリポートがあった。ただし実際の負傷の程度、賠償の有無等は不明である。
  • ある会場で試合前に狂人ギミックで暴れていたところ、癇に障った山本小鉄らがシンをロープで縛り上げ、そのまま控え室に放り込まれたことがある。
  • 入場テーマ曲は「サーベルタイガー」で、新日本プロレス時代から現在のハッスル迄、彼の主戦場で流されている。ただし全日本プロレスでは、「吹けよ風、呼べよ嵐」(ピンク・フロイド)が使用された。全日本プロレスにおいてこの曲は、いわゆる「(日本テレビの選曲による)凶悪レスラーの入場曲」という扱いであり、特に誰のテーマ曲とは決まっていなかったためである。ちなみにシン対ザ・シーク、シン対ブッチャーが実現したときは、双方の入場時にこの曲が流された。
  • 1979年、栗栖正伸が家族と共にアメリカへ移住するため飛行機に乗っていた時、栗栖の赤ちゃんがなかなか泣き止まないことがあった。たまたま同じ便に乗り合わせていたシンは、「私(シン)は長距離の移動は慣れているし、うちにも同じ年頃の赤ちゃんがいる。」と言って栗栖の赤ちゃんを抱きかかえ、そのままベビーシッター役を引き受けた。栗栖はシンに深く感謝し、その出来事をずっと忘れなかったため1990年、シンが新日本プロレスに戻って来たとき、栗栖は恩返しとばかり「イス大王」としてシンに加担した。
  • テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』において、シンから譲り受けたサーベルに40万円の鑑定額がついたことがある。
  • 札幌巡業中、ススキノで飲んで上機嫌になったシンと外人レスラー数名が、悪戯に近くに停めてあった車数台をひっくり返し、本当に警察沙汰になったことがある。
  • 函館巡業中、すし屋へ行って「金魚を握ってくれ」と言ったことがある。
  • ヘビが苦手であるにもかかわらず、上田馬之助によって中野駅前の蛇料理店や、まむしラーメンで名高いミスター高橋経営のラーメン店に連行された。
  • リングネームは、日本語では一般的に「タイガー・ジェット・シン」と表記されるが、東京スポーツだけは1990年代中期辺りから「タイガー・ジット・シン」と表記している。本項の冒頭にある通り、ミドルネームの英語表記は“Jet”ではなく“Jeet”であり、後者の発音からすると「ジット」となるのが正しいという。そうした旨の申し入れがシン本人からあったため、以降は「ジット」と表記するようになったという。
  • 1994年7月8日付東京スポーツ1面トップで「シン7万円(1000カナダドル)詐欺逮捕」と報じられる。同紙、並びに『紙のプロレス』第11号で本人は全面否定。
  • 2007年、茨城県つくば市にタイガー・ジェット・シンカレーハウスが開店した。シンの親戚が店長であり、シンも時々来店しては撮影会等、ファンサービスに努めている。メニューにはタイガー・ジェット・シンスペシャルなるコースが存在する。
  • 2010年9月に自らの名前を冠した公立高校が、カナダオンタリオ州ミルトンに開校する事になった。

語録

  • 「成田でニック・ボックウィンクルとルー・テーズに会った。あいつらはバスで来ていたが、俺は(新日本プロレスの)オフィスの豪華な車だ。その時ニックは俺に6万ドルもの借金を申し込んできた。ニックは俺をフレンドと思っているようだが、俺は思っていない。」(時期不明、恐らく昭和54年10月頃と思われる。シンはブラディファイトシリーズに参加、ニックとテーズは国際プロレスのダイナマイトシリーズに参加していた)
  • 「世の中には二通りの人間しかいない。殴る人間と殴られる人間だ。だから俺はプロレスを選び殴る人間になった。」(時期不明)
  • 「ポケットに100ドルあればその日は10ドル使うんだ。50ドルなら5ドルだ。そして残った金は全部貯金するんだ。これがビジネスの始まりさ。」(時期不明)
  • 「猪木とタッグを組むことは何ら問題は無いよ。ただし猪木が試合中に裏切らなければの話だがな。俺と猪木のタッグが実現すれば、アジアでも最強のチームになるだろう。」(1990年9月アントニオ猪木デビュー30周年直前、自宅にて)
  • 「私は長いこと日本でファイトを続けてきたが、日本人がどんどんアメリカ的になっていく点が残念でならない。それもアメリカの良い所ではなく、イージーゴーイングな点ばかり真似しているようだ。若い日本人はもっとアジアの歴史を知るべきじゃないかな。アジアには世界に誇る多数の文化がある。」(1998年春、「週刊プレイボーイ」の特集記事より)
  • 「アーソーデスカ」「トモダチ」「カレーガタベターイ」「アケマシテオメデト」「オヒサシブリ」「ハヤクーハヤクー」「ワカラナイ ワカラナイ」(時期不明、所ジョージ司会のバラエティ番組にて)
  • 「チョトマテクダサーイ」(1990年9月アントニオ猪木デビュー30周年、試合後のマイクパフォーマンスにて)
  • 「あいつはカッコばかりつけたがる。親父の苦労が分かってないんだ。」(時期不明、NOW参戦時の後期。それ以前のFMW参戦時には親子タッグも組んでいた、息子のタイガー・ジェット・シン・ジュニアが、悪役である父に反旗を翻し、正統派ファイターを目指すと言った。それに対してシンの口から出た言葉であるが、この発言の後、シンはプロレス記者の前で涙を流した)
  • 「ピーター、あの本(著書「流血の魔術 最強の演技」)を書いてくれてありがとう。俺はプロレスラーとしては成功したけど、一社会人としても悪役扱いされて困っていたんだ。あの本のおかげで、俺が本当は悪人でないことが分かってもらえた。おかげで日本人相手のビジネスがうまくいってるよ。」(同書発売後に文庫化された「プロレス、至近距離の真実」の文庫版前書きで紹介されたコメント)




 


 






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