歴史
National Wrestling
Association
NWA(アソシエーション)はNBA(全米プロボクシング協会)のレスリング部門でとして設立された。当初はNBAプロレスリング部であったが、1930年10月にNWAとして正式に独立した。名目上は各州の体育協会による運営で、実際はNWA(アライアンス)発足後の1960年代まで存続していた。
National Wrestling
Alliance
NWA(アライアンス)は1948年7月に、アイオワ州のプロモーターであるピンキー・ジョージが中心となり、セントルイスのサム・マソニックやミネアポリスのトニー・ステッカーら5人のプロモーター達と共に結成された。第二次世界大戦後、プロレスを再興させるために「世界タイトルの認定」を行い、世界王者を抱えることによって興行的に大都市のプロモーターに対抗する意図があった。あくまで連盟であるため非営利組織であったが、談合カルテルとしての側面を持ち合わせており、1956年には独占禁止法違反によりアメリカ司法省に告訴された。
当初ピンキー・ジョージは、中西部地区に限った統一世界王座の構想を持ち、NWA結成を呼びかけたが、瞬く間に加盟するプロモーターの数が増え、間もなく発足メンバーの一人であるサム・マソニックに実権を奪われた。1960年代から1970年代にかけては、途中で脱退・分裂などの憂き目に遭うものの、マソニックのリーダーシップにより黄金期を形成した。しかし、1970年代後期になると、ケーブルテレビの普及や、興行戦争、オイルショック以降のガソリンの高騰(当時多くのレスラーは現在以上に車で移動していた)などにより、加盟地区の多くが低迷、NWAの力も衰退していくことになった。
1984年、WWF(現WWE)が豊富な資金とケーブルテレビの活用を背景に全米に勢力を拡大し始めると、次第に興行に行き詰まる地区が続出。AWAのバーン・ガニアと組んで対抗しようとしたが、資金力と団結に劣るNWAに勝ち目はなく、衰退の一途をたどり始める。1980年代後半に入ると王者リック・フレアーを擁するノースカロライナのプロモーター、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化しNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制は形骸化。ダラスのプロモーターで元会長のフリッツ・フォン・エリックのようにNWAからの独立に活路を求める者まで出る始末だった。しかし、ジム・クロケット・プロモーションズもWWFとの興行戦争に敗れ経営難となり、1988年11月、当時TV放映権を持っていたテッド・ターナーに買収され、新団体WCWが発足する。WCWでは買収後はNWA王座とWCW王座のタイトルマッチを並行して行っていたが、1993年にWCWもNWAから脱退した。
WCW脱退衰退後
現在もNWAは団体として存在するものの、マイナータイトルの一つという位置付けにすぎず、かつての威厳はない。かつての権威を取り戻す動きを起こしても、WWEの勢力が強く、また当時とはプロレスの位置付けや見方が大きく変わっているために、苦戦している。
その中でも2002年に設立されたプロレス団体、TNA(Total Nonstop Action)はNWAに所属する団体の中で急速に勢力が拡大している団体であり、単一メジャーのWWEに次ぐ勢力となりつつある。元WWE出身の選手も多く在籍する。しかし、2007年5月にNWAと業務提携を終了、NWAからタイトルを剥奪され
、TNA独自の新タイトルに切り替えることになった。
その他、ジョージア地区のNWAアナーキー(NWA Anarchy)は、2005年4月まで存続した団体、NWAワイルドサイド(NWA
Wildside)の後を継いで、毎週全米とカナダで週一回のテレビ番組を供給している。NWAプロ・レスリング(NWA Pro
Wrestling)は、ルチャ・リブレを取り入れたスタイルでアメリカ南西部、カリフォルニア、ニュージャージーを中心に興行を行なっている。
2008年には、EMLL(現:CMLL)のスターであったブルー・デモンの息子、ブルー・デモン・ジュニアがNWAメキシコ(NWA Mexico)を創立。彼はルチャドールで初めてNWA世界ヘビー級王座に就いた。
日本では2001年に橋本真也率いるプロレスリングZERO-ONEがNWAに加盟し、実質的な日本支部として活動を行い、「NWA」の冠の付いた王座を複数認定していた。2004年にZERO-ONEが崩壊したことで関係は一時途絶えるが、後継団体のZERO1では引き続き独自に「NWA」の冠がつくタッグ王座の管理・認定を続けた。2011年にはZERO1がNWAに加盟(実質的には再加盟)したことで、これらZERO1が管理するNWA王座もNWA側により追認された。
NWAのシステム
NWAは本部をセントルイスに構え、これを頂点として各国のプロモーターの個人加盟(団体単位ではない)によって成り立っている。加盟を認められるには審査を受けなければならない。年1回、毎年8月か9月に総会が開かれる。その他、必要に応じて臨時の総会や役員会が開かれる。
日本プロレスは1960年代後半に加盟し、崩壊までメンバーであった(名義人は芳の里淳三)。またジャイアント馬場はアメリカ遠征時代からNWAとの関わりが強く、全日本プロレス創立直後に芳の里がすでに加盟していたにもかかわらず臨時総会まで開いて加盟が認められている(全日本と友好関係にあったアマリロのプロモーター、ドリー・ファンク・シニアの強力な働きかけによるとされる)。1984年より馬場は、全日本プロレス会長の立場で4期に渡って日本人唯一のNWA第一副会長を務めた。日本では全日本プロレス、新日本プロレスの両団体の首脳が加盟していたが、新日本社長のアントニオ猪木は加盟を申請したものの当初NWA側から拒否されたこともあり、新日本側の加盟名義人は坂口征二と新間寿であった。なお、国際プロレスの吉原功社長も加盟申請したが却下されている。また、大木金太郎が韓国のプロモーターとして加盟している。女子部門では日本女子プロレスが創立してまもなく松永高司を名義人として加盟していたが、松永は日女を離脱して全日本女子プロレスを旗揚げしたためそのまま全女が引き継いだ。
NWAの加盟により、主に以下のようなことが可能となる。
- NWA認定の王者を招聘することができる。
- 他のプロモーターからのルートで様々な外国人レスラーを招聘することができる(逆に言えば、NWA非加盟団体はNWA傘下のプロモーターに選手を斡旋してもらえずに興行上大きく不利になる。旗揚げ直後の新日本がまさにこれであった)。
また、NWAに加盟するために、以下の条件がつけられる。
- NWAに加盟できるのは一つの地区で一人のプロモーターに限り、同じ地区のプロモーターの加盟は認めない。
- 「一つの地区に一人のプロモーター」とすることで、組織の権威を上げることはもちろんだが、同じテリトリーの中での争いに巻き込まれ、共倒れになることを防ぐ目的もある。ただし、日本だけは例外で、全日本プロレスと新日本プロレスの両団体が加盟している(だが、実際はヘビー級王者のタイトルマッチは全日本プロレスのみに限られ、新日本プロレスではヘビー級のタイトルマッチが行うことはできなかったりと、待遇には差があった。猪木はこれを逆用して「NWA王者は俺が怖くて挑戦を逃げた」と国内で宣伝し、日本のファンには受けたが他のレスラーやプロモーターからは顰蹙を買った。馬場は加盟したのが猪木より先だったこと、第一副会長を長らく務めていたことや、NWAの有力プロモーター・レスラーとは馬場のアメリカ修業時代以来の強い関係があったこともあり、全日本側が優遇された)。
- 加盟プロモーターが所属する団体のタイトルから「世界」の表記を外さなくてはならない。
- これはNWAが認定する世界タイトルが本部が直轄するものだけであったためである(全日のPWFヘビー級王座や新日のNWFヘビー級王座がこれに当たる。また、WWF(現WWE)もNWA加盟時には「世界」の表記を外している)。ただし、本部が認可したものに関しては直轄のタイトルではなくても「世界」の表記をつけることが可能である。全日本プロレスのPWF世界タッグ王座がその一例である。これはNWAが本部直轄のタッグタイトルを持っていなかったため(NWA世界タッグと言うタイトルは存在していたが、本部直轄では無かった)と思われる。また実際上は、世界ジュニアヘビー級についてはオクラホマ地区のプロモーターであるレロイ・マクガーク、ライトヘビー級についてはメキシコのEMLLにそれぞれ管理が一任されていた。
尚、EMLLは独自にミドル級、ウェルター級の各階級でNWA世界王座を認定、NWAを脱退しCMLL世界王座を認定している現在でもNWA三王座を認定し続けている。
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