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Japan Pro Wrestling Aliance 略称:JWA





概要

大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山が1953年に、興行師で興行界のドンと呼ばれた永田貞雄と、関東屈指の顔役である新田新作(生井一家貸元で関東国粋会副幹事長の子分、「新田組」組長。新田建設経営。明治座の社長で経済事件の調停にも活躍)の物心双方の援助・後見によって設立した。この際、スポンサーとして経済界からは萩原吉太郎ら、右翼の黒幕・児玉誉士夫と親しい企業人グループが後援をしている。

力道山が1963年に亡くなった後の協会役員の構成は、会長・児玉誉士夫、副会長・田岡一雄(三代目山口組組長)、町井久之(東声会会長)となっている。このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる。

「日本プロレス協会」及び「日本プロレス興業株式会社」の上に戴いていた「日本プロレスリングコミッショナー」には、自民党副総裁の大野伴睦らがいた。なお、のちに首相となる中曽根康弘とは、力道山のマンションの一室を事務所とするほどの関係だった。

一時期は日本で唯一とも言えるプロレス団体であり、プロレス界に与えた影響は計り知れない。力道山以後のプロレス界において双璧をなすことになるジャイアント馬場(後に全日本プロレスを創立)とアントニオ猪木(後に新日本プロレスを創立)も、1960/9/30に同時デビューしている。

略歴

1953/7/30、東京日本橋浪花町に設立された「日本プロレス協会」が母体となる。


力道山の時代

相撲を廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビを通じて全国に中継され話題を呼ぶ。当時の日本には木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅。日本プロレスがほぼ唯一と言っていいプロレス団体となった。

1957年には世界ヘビー級チャンピオンであった“鉄人”ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。日本プロレスにおける看板タイトルとして、防衛戦を行った。

テーズの招聘後、一時期人気が下火になるものの、1959年にワールド・リーグ戦を開催。世界からチャンピオンクラスの大物選手を招聘して興行は成功、崩壊前年まで『春の看板イベント』として14回行われた。1961年には常設会場であるリキ・スポーツパレスが完成している。

力道山は1963年12月15日に死去した。


豊登の時代

力道山の死後、当初は力道山未亡人であった百田(田中)敬子が社長となるも、1年後には豊登・遠藤幸吉・吉村道明、芳の里の4人による合議制となり、社長となった豊登は1964年から1965年にかけてエースとなる。大の博打好きの豊登は、公金を横領し競馬・競輪などギャンブルへ流用するなど放漫経営などにより、1966年1月に尿管結石の悪化を名目に退職(事実上の追放処分)となる(リング上で凱旋帰国した馬場が豊登に迫る人気を得ていたことも大きかった)。豊登は猪木を引き抜いて東京プロレスを設立するも、興行不振に加え、そこでも公金を私的に流用するなど経営が立ち行かず短期間で崩壊。また当時取締役営業部長だった吉原功も、経営路線の対立が元で同社を退社、国際プロレスを設立している。国際プロレスは二番手団体として日本プロレスと競合するが、日プロ崩壊の9年後1981年に倒産する。


BIの時代

1966年には、かねてから力道山の後継者と目された馬場が、復活したインターナショナル王座を連続防衛し、エースとなる。

1967年、東京プロレスから復帰した猪木とタッグを組むようになる。同期デビュー同士のタッグは「BI砲」と呼ばれ、力道山死去で一時低迷した人気は、また黄金期の人気を取り戻すようになる。

また、当時東京プロレスへ移っていた猪木の穴を埋めるべく、世界柔道選手権大会日本代表であった坂口征二を獲得。大木金太郎(キム・イル)、吉村道明、山本小鉄、星野勘太郎らが脇を固める充実した選手層を誇った。

日本プロレスは長らく日本テレビが中継していたが、NET(現:テレビ朝日)が参入を希望した。経営陣は収入面から歓迎したが、先行の日本テレビに配慮して「馬場及び坂口の試合を放映しない」「ワールド大リーグ戦の試合を放映しない」ことを条件にして参入を認め、1969年より2局放送体制となる。人気No.1の馬場の試合を中継できないNETは『ワールドプロレスリング』の番組名で、No.2である猪木、大木らを中心とした番組を組んだ。週2回TVのゴールデンタイムに登場するコブラツイストの若獅子猪木の人気が上がり、大スターは馬場だけではなくなった。このことは、馬場・猪木それぞれに派閥を作り、2人の間を裂くきっかけともなった。


崩壊

2局放送体制となって、経営は引き続き好調を維持していたが、一部幹部に横領などの疑いがもたれ始める。1971年に、これを憂えた馬場・猪木ら選手は、幹部に経営改善要求を突きつける。しかしその結果、会社乗っ取りを図ったとして猪木が除名された。猪木は1972年3月に新日本プロレスを創立する。

これに困ったのがNETである。その放送の中心であった猪木が除名されたため、目玉選手が日本プロレス側の都合で居なくなったことを盾にNETは必然的に馬場の試合中継を要求する。日本プロレス幹部は、NET中継をつなぎ止めるためにこれに応じたが、これに日本テレビ側が激怒、1972年5月にはついに放送を打ち切った(当時のプロレス中継は視聴率も高かったため幹部達は「馬場の試合をNETで放送しても、日本テレビ自体での視聴率も高かったので放送を打ち切ることはないだろう」と目論んでいたらしい)。その結果、日本プロレス中継は以降NETのみの放送となってしまった。日本テレビと関係の深かった馬場は、日本テレビと話を持ち、これを後ろ盾にして独立して8月に全日本プロレスを創立し、同時に日本テレビの中継も『全日本プロレス中継』に移行する。

興行の二枚看板を失った日本プロレスは一気に弱体化することになり、猪木と坂口の会談を契機に、新日本プロレスと日本プロレスを合併する方向で交渉が進められた。坂口によれば、NETが「猪木・新日本プロレスとの合併を認めなければ中継を打ち切る」と強硬姿勢に出たため合併交渉が急速に進展し、日本プロレスの選手会もグレート小鹿が窓口となりこれに同意したという。その結果、1973年2/6には両社による新団体設立の記者会見を京王プラザホテルで行ったほどである。

しかし当時、韓国に滞在していて不在だった大木金太郎(当時日本プロレスの選手会長)が反発し、日本に戻り大々的に反対の意向を示したために、一度は合併に承諾した選手会の総意を大半の選手とフロント勢が覆して大木の意見に賛同したため、合併は破談となる。坂口は「裏切り者」扱いされた形で、木村聖裔(後の木村健悟)、小沢正志(後のキラー・カーン)、大城勤(後の大城大五郎)とレフェリーの田中米太郎(桂浜)とともに日本プロレスを離脱し、新日本プロレスへ合流した。この坂口らの移籍に併せた形でNETが日本プロレス中継を3/30をもって打ち切り、新たに4月6日から新日本プロレスの中継へ移行した。看板選手とテレビ中継を失い、大木や高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)をエースに起用するも、テレビ中継による放映権料の喪失や観客動員も激減したことによる入場料の減収により会社経営も立ち行かなくなり、シリーズ開幕前に長谷川社長は興行活動を断念する意向を示すも、大木ら選手会は「アイアン・クロー・シリーズ」を選手会主催興行として強行。しかし、観客動員は低迷し、1973/4/2、群馬県吉井町大会(「アイアン・クロー・シリーズ」最終戦)をもって興行活動を停止した。

最後まで残った大木ら9選手は、身柄を預けた形の力道山家(百田家)をクッションにして、全日本プロレスに移籍(合流)。また、興行休止で一旦途絶えた形となった管理タイトル(ユナイテッド・ナショナル選手権(UNヘビー級選手権)、アジアヘビー級選手権、アジアタッグ選手権)も、暫くの空白期間を経て、「復活」という形で全日本プロレスへ継承された。

海外に流出していたインターナショナル・タッグ選手権は、2年後の1975年、馬場・ジャンボ鶴田組が奪還して日本に定着。また、大木が保持して母国・韓国や国際プロレスのリング上でも独自に防衛活動を行ってきたインターナショナル選手権(インターナショナル・ヘビー級選手権)は、1981年、全日本のタイトルとして「復活」した。

日本プロレス中継

日本テレビによるテレビ中継 (概史)

  • 1954/2/19、この日より3日間にわたって蔵前国技館で行われた、日本プロレス協会の旗揚げ戦を 「力道山・木村政彦対シャープ兄弟プロレス実況」として放送。
これが日本テレビの初の中継となった。以後、不定期にプロレス中継を放送する。
当初は定期的な中継枠は作らず、主要な試合のみを、特別に枠を設けて生中継を行うスタイルだった。提供スポンサーもその都度変わっていた。
(上記に先駆けて、1954年2月16日の19:45 - 20:15には、「プロ・レスリングの見どころ」という番組を放送した。当時のテレビ欄には「解説・伊集院浩、実演・木村政彦、力道山」〔原文まま〕とあり、「プロレス映画を上映し、力道山、木村選手らによる解説を行った」と社史にはある)
  • 1957/6/15、日本テレビのみで「プロレス・ファイトメン・アワー」のタイトルで、週1回の定期番組を開始。
土曜日17時台からの1時間枠で、若手選手の育成と、スポーツとしてのプロレスの人気の高揚をはかることを目的とした。従って主に放映されたのは、東京・日本橋浪花町の日本プロレス・センターで行われる、若手選手の試合や、力道山の「練習試合」などであった。
この「ファイトメン・アワー」は当初、諸般の事情で提供なしで始まったが、同年7月第3週から三菱電機がスポンサーに付いた。
ただし、タイトル戦などの主要な試合は相変わらず、特別枠を設けての放映という形をとった。折から各地に民放テレビが開局し始め、この特別枠の中継を同時ネットする地方局も出始めた。
(なお、大阪の初の民放テレビ「大阪テレビ放送」でも、1957年末に自社製作による独自のプロレス番組「プロレスアワー」が開始されている。月1回の生番組だった)
  • 1958/8/29、外国テレビ映画「ディズニーランド」の第1回より、三菱電機提供による金曜20時台枠「三菱ダイヤモンド・アワー」が開始される。
翌週の9/5、これと同じ枠で、蔵前国技館で行われた、力道山出場の「国際試合第1日」を中継。
これが第1回となり、以降、「プロレスリング中継」のタイトル(ただし初期は「テレビ中継・プロレス国際大試合」)で、隔週でテレビ中継を行っていく。
ここに本格的に、定期中継番組の体制が整う。
当初は外国テレビ映画「ディズニーランド」(前述)との1週交代での放映。またネットを含めた放映局は、日本テレビ・読売テレビ ・西日本放送 ・テレビ西日本のわずかに4局のみだった。
  • 1959年か1960年には、プロレスのカラーでの中継放送を開始する。
  • 1961/8/25、前述の 「ディズニーランド」を放映する週において、金曜22時台の枠を新設した。
(初回は23:00 - 23:45、以後は22:30 - 23:15→22:20-23:15)
これで毎週「プロレスリング中継」が放映される形となった。
この枠は、開場したばかりのリキ・スポーツパレスでの試合を中心にした、録画中継が主体。
録画中継ということからか、この枠の新設を機に、「プロレスリング中継」の時差ネットを始めた地方局もあった。
  • 1962年、カラー放送が実施されていた初期のころ、フレッド・ブラッシーの試合中に対戦相手が流血する事故があり、それを見ていた老人若干名(2人とする説や4人とする説など諸説ある)がショック死する痛ましい事故があった。この影響でカラー放送は一時自粛することになる
  • 1963/5/24に放送された「WWA世界選手権・ザ・デストロイヤー対力道山」は、関東地区で視聴率64.0%を記録し、これは現在に至るまで日本テレビ史上最高視聴率となっている。
  • 1963年10月より20時56分 - 21時00分枠(日曜は90分番組「日曜ロードショー」のため21時26分 - 21時30分)に「NNNニューススポット」が設置されたため、「ディズニーランド」と共に放送時間が4分短縮。
  • 1968/2/16、「ディズニーランド」がこの日を最後に、「三菱ダイヤモンドアワー」枠(金曜20時台枠)から離脱。
これにより翌週2/23から、毎週金曜日20時にプロレス中継が定着。
(これに伴い同2/16を最後に、隔週金曜22時台の45分枠が廃止)
  • 1969年途中(正式年月日不詳)、「プロレスリング中継」から「日本プロレス中継」に番組タイトルを変更。
  • 1972/4/1、日本テレビが東京地裁に、ジャイアント馬場のNETテレビ中継試合への出場を禁ずる仮処分申請を提出。
その前に日本プロレスの取締役会にて、同年4月1日以降の馬場のNET中継試合出場が、賛成10・反対1で可決されていた(馬場も取締役だったが、唯一反対票を投じた=「BIの時代」「崩壊」の項を参照のこと)。一方NETは、4/3放送の「ワールドプロレスリング」にて『ジャイアント馬場初登場』と銘打ち、馬場の出場した試合を放送してしまった。
その後の日本テレビと日本プロレスとの話し合いも、馬場の日本テレビ独占契約の解釈をめぐり、「継続中」とする日本テレビと、「終了」とする日本プロレスとで、平行線をたどった。いよいよ日本テレビは、強硬手段をとるに至る。
  • 1972/5/12、第14回ワールド大リーグ戦決勝戦(馬場対ゴリラ・モンスーン戦ほか、東京体育館)を生中継。
この3日後(5月15日)に日本テレビは記者会見で、定期中継の打ち切りを正式発表したため、これが最後の「日本プロレス中継」となる。
最終的には全国31局ネット、また番組スポンサーも、三菱電機だけでなく、鈴木自動車、久保田鉄工が付いていた。
  • 1972年5月19日、この日より過去の名勝負を振り返る「日本プロレス選手権特集」と銘打った番組を開始。
  • 1972年7月14日、「日本プロレス選手権特集」が、この日をもって全9回の放送を終了(これで一旦、日本テレビからプロレス番組が消滅)。
翌週7月21日開始の後継番組「太陽にほえろ!」につないだ。
(なおNETでは7月28日より、「日本プロレス中継」亡き跡の「金8枠」に「NET日本プロレスリング中継」という日本プロレスの中継枠を新設し、同年9月まで月・金曜の週2回放送を続け、同年10月からは「金8枠」に統合の上「日本プロレスリング中継」に改称。)

なお、金曜20時枠の中継に関しては、1970年代以降の「ワールドプロレスリング」「全日本プロレス中継」などにみられるような、地方局での時差ネットがなく、「全国同一放送」だった。ただし、以下のような例外もあった。

  • 名古屋放送
日本テレビとNETテレビとのクロスネット局であった同局は、編成の都合のため、1968年10月 - 12月の3か月間のみ、日曜16:00 - 16:56の枠に移動させた。
本放送より2日遅れの放映であった。なおこの間、金曜20時の枠は、NETテレビの「素浪人月影兵庫」を、6日遅れで時差ネットした。
  • 琉球放送
1960年代前期は、火曜20時からの放送だった(放映方法不明)。後年、金曜20時に移動。

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日本プロレス/力道山
DVD紹介

必殺の空手チョップ
今甦る!
力道山 伝説の格闘王
力道山



1963/12/2 東京体育館
世界インターナショナルヘビー級選手権試合
力道山 vs ザ・デストロイヤー

1962/4/23 東京体育館
WWA世界ヘビー級選手権試合
力道山 vs フレッド・ブラッシー

1957 大阪扇町プール
NWA世界選手権試合
力道山 vs ルー・テーズ


世界選手権争奪戦
力道山vsルー・テーズ

1957/10/7
後楽園球場


ルー・テーズ対力道山


第二回メモリアル力道山
第二回メモリアル力道山

2000/3/11
横浜アリーナ


Disk.1

在りし日の力道山 (vs木村政男 他4試合)

グラン浜田/マグナムTOKYOvs
CIMA/スモー・ダンディ・フジ二千

佐野なおきvs石川雄規

近藤有己vs韓 泰潤

堀田祐美子/コマンド・ボリショイvs輝優優/春山加代子

Disk.2

井上京子/中村由佳/田村欣子vs
ダイナマイト関西/日向あずみ/倉垣翼

藤原喜明vs初代タイガーマスク

剛竜馬/平田淳嗣vs木戸修/安田忠夫

山川竜司/本間朋晃vsH/山崎直彦

安生洋二vsターザン後藤

天龍源一郎/BB・ジョーンズvs橋本真也/小川直也

滝沢秀明vsアントニオ猪木


メモリアル力道
昭和レジェンドの章

メモリアル力道山 昭和レジェンドの章



巨星・力道山の遺伝子を継ぐ者達の戦いを厳選収録!「第1回メモリアル力道山」(1996)、
「上田馬之助君を激励するプロレス大会」(1997)、「第2回メモリアル力道山」(2000)
の3大会のカードを第1巻「昭和レジェンド」、第2巻「三銃士の時代」、第3巻「女子プロ
&インディーズ」に再構成して厳選収録したシリーズの第1章。「昭和の魂」が燃え上がる!
藤原、長州、藤波、タイガーの熱き戦いがここに甦る

天龍源一郎・藤波辰爾VS長州力・北原光騎
藤原喜明VS初代タイガーマスク
タイガーキングVS四代目タイガーマスク


モリアル力道山
三銃士の時代の章

メモリアル力道山 三銃士の時代の章



巨星・力道山の遺伝子を継ぐ者達の戦いを厳選収録!「第1回メモリアル力道山」(1996)、
「上田馬之助君を激励するプロレス大会」(1997)、「第2回メモリアル力道山」(2000)
の3大会のカードを第1巻「昭和レジェンド」、第2巻「三銃士の時代」、第3巻「女子プロ
&インディーズ」に再構成して厳選収録したシリーズの第2章。平成プロレスが到来!
闘魂三銃士、小川、北尾らの熱き戦いがここに甦る

小川直也VS天龍源一郎・BBジョーンズ
小島聡VS天山広吉
安生洋二VSターザン後藤


モリアル力道山
女子プロ&インディーの章

メモリアル力道山 女子プロ&インディーの章



巨星・力道山の遺伝子を継ぐ者達の戦いを厳選収録!「第1回メモリアル力道山」(1996)、
「上田馬之助君を激励するプロレス大会」(1997)、「第2回メモリアル力道山」(2000)
の3大会のカードを第1巻「昭和レジェンド」、第2巻「三銃士の時代」、第3巻「女子プロ
&インディーズ」に再構成して厳選収録したシリーズの第3章。「華やかさ」と「意地」
の競演!女子プロ黄金期と、男子プロレスのインディ団体のプロレスを収録

長与千種・福岡晶・矢樹広弓VS
ダイナマイト関西・ボンバー光・植松寿絵
ザ・マミーVS鶴見五郎


力道山
力道山


『オアシス』のソル・ギョングが20kgもの体重増加に挑み、伝説のプロレスラー・力道山を熱演した伝記ドラマ。第二次大戦下の東京。朝鮮人という理由で差別を受けた力道山は相撲界に見切りをつけ、国籍に関わりなく自分の力を試せるプロレス界へと入る。

 
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日本プロレス/力道山
ビデオ紹介

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力道山とその時代
力道山とその時代



証言者
桜井康雄/森徹/安西水丸/芳の里/
村松友/百田義浩

試合
力道山/木村政彦vsシャープ兄弟
力道山/遠藤幸吉vsシュナーベル/ニューマン
力道山vs木村政彦
力道山vs山口利夫
力道山/東富士vsカルネラ/クルスガンプ
力道山vsキング・コング
力道山vsボボ・ブラジル
力道山vsルー・テーズ
力道山vsミスター・アトミック
力道山vsオルテガ
力道山vsノメリーニ
力道山vsブラッシー
力道山vsカルホーン
力道山vsコワルスキー
力道山vsデストロイヤー

 

Number Video
力道山血風録
王者編
力道山血風録


昭和38年第5回ワ-ルドリーグ戦


Number Video
力道山血風録
総集編
力道山血風録



昭和38年第5回ワ-ルドリーグ戦



力道山
まぼろしの名勝負
力道山 まぼろしの名勝負


 

力道山
栄光への足跡
力道山 栄枯上の足跡



力道山vsキング・コング
力道山vsキング・コング 決勝戦
力道山・東富士大暴れ 1
力道山・東富士大暴れ 2
力道山勝利の記録
力道山vsオルテガ
力道山の逆襲


甦る力道山 1
甦る力道山 1


力道山vsキングコング 力道山に挑む木村


甦る力道山 2


力道山vsキングコング


甦る力道山 3


力道山vsキングコング 決勝戦

 

甦る力道山 4

 

力道山、東富士大暴れ

 

甦る力道山 5


力道山、東富士大暴れ 2

 

甦る力道山 6
甦る力道山 6



力道山勝利の記録

 

甦る力道山 7


力道山 オルテガ 最後の決戦!!


甦る力道山 8

力道山の逆襲

力道山物語
怒涛の男
怒涛の男


 

怒れ!力道山
怒れ!力道山



 

力道山と豊登
頭突きと空手チョップ
頭突きと空手チョップ

 

必殺、空手チョップ 2
必殺、空手チョップ 2
1962/4/23
東京都体育館


WWA世界ヘビー
力道山vsブレッド・ブラッシー

 

チャンピオン太
チャンピオン太

 
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主な所属選手


力道山
1924/11/14 1963/12/15

本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(キム・シルラク,김신락)。血液型AB型。大相撲の力士出身。第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている


東富士 欽壹
1921/10/28 - 1973/7/31

本名:井上 謹一(いのうえ きんいち)は、大相撲の第40代横綱、元プロレスラー。東京市下谷区(現在の東京都台東区)出身、富士ヶ根部屋(後に高砂部屋に移籍)所属。身長180cm、体重は最高で178kg。得意手は左四つ、寄り、上手出し投げ。


駿河海 光夫
1920/1/1 - 2010/11/24

出羽海部屋所属の元大相撲力士、日本プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代は、身長186cm、体重98kg、最高位は東前頭14枚目。プロレスラー時代のリングネームは駿河海、身長186cm、体重105kg。本名は杉山光男(すぎやま みつお)。


遠藤 幸吉
1926/3/4

山形県東村山郡金井村(現・山形市)出身の、元柔道家(四段)、プロレスラーである。力道山と共に日本プロレスを創設した人物。


豊登 道春
1931/3/21

福岡県田川郡金田町(現在の福智町)出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。本名は、定野道春(さだの みちはる)。最高位は、前頭15枚目。大相撲時代の体格は、身長173cm、体重105kg。レスラー時代の体格は身長174cm、体重114kg。


吉村 道明
1926/9/19 - 2003/2/15

日本のプロレスラー。日本プロレス界の黎明期を支えた一人。火の玉小僧と呼ばれた。現役引退後は、近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたった。岐阜県岐阜市出身。


芳の里 淳三
1928/9/27 - 1999/1/19

千葉県長生郡一宮町出身で二所ノ関部屋所属の元大相撲力士、日本の元プロレスラー。大相撲時代の四股名は芳ノ里 安秀(よしのさと やすひで)、最高位は前頭12枚目。身長174cm、体重84kg。本名は、長谷川淳三(はせがわ じゅんぞう)。


大木 金太郎
1929/2/24 - 2006/10/26

韓国・全羅南道出身の元プロレスラー。本名は金一(キム・イル、김일)。身長185cm、体重120kg(現役当時)。生年はかつては1933年とされていた。


吉原 功
1930/3/2 - 1985/6/10

日本のレスリング選手、プロレスラー、実業家。元国際プロレス社長。岡山県出身。


ユセフ・トルコ
1930/5/23

日本の元プロレスラー、元レフェリー、俳優。本名ユセフ・オマー。樺太出身。ユスフ・トルコとの表記もある。俳優のオスマン・ユセフ(1920/5/23-1982/8/29)は兄弟。ユセフ・トルコの生年については諸説ある。


羅生門 綱五郎
1920/3/5 - 生死不明

台湾出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、日本プロレス所属の元プロレスラー、元男優。本名は、卓 詒約(たく いやく、注音: ㄓㄨㄛㄧˊㄩㄝ拼音: zhuōyíyuē )。身長203cm、体重125kg。


吉田川 清四郎
1927/11/19

山梨県富士吉田市出身(出生地は東京都八王子市横山町)で、1940年代末から1950年代にかけて活躍した大相撲力士。時津風部屋(入門時は音羽山部屋)に所属していた。本名は真田 征四郎(さなだ せいしろう)。最高位は西前頭13枚目(1952年9月場所)。現役時代の体格は171cm、105kg。得意手は左四つ、寄り、押し。


藤田山忠義
1924/2/11 - 1969/5/9

福岡県田川郡(現在の田川市)出身で高砂部屋(入門時は片男波部屋)所属の元大相撲力士、日本プロレス所属のプロレスラー。大相撲時代は1950年前後に活躍し、最高位は西前頭12枚目(1950年1月場所)。大相撲時代の体格は身長167cm、体重113kg。得意手は押し。本名は藤田忠義(ふじた ただよし)。


ジョー樋口
1929/1/18 - 2010/11/8

日本の元プロレスラー、元レフェリー。本名は樋口 寛治(ひぐち かんじ)。愛称は「ジョー」。神奈川県横浜市出身。法政大学卒業。俳優の菊池隆則は息子。

生前は日本プロレス、全日本プロレスでレフェリーを務め、死去するまでプロレスリング・ノア監査役、GHCタイトル管理委員長などを務めた。


輝昇 勝彦(デビューせず)
1922/1/26 - 1967/2/20

北海道留萌市出身の元大相撲力士。高島部屋所属。最高位は関脇。力士時代の体格は177cm、104kg。


ミスター珍
1932/10/12 - 1995/6/25

日本のプロレスラー。本名は、出口 雄一(でぐち ゆういち)。兵庫県宝塚市出身。身長168cm、体重83kg(全盛期)。くちひげがトレードマーク。プロレス界から離れていた一時期、テレビタレントや俳優としても活動した。


ヒロ・マツダ
1937/7/22 - 1999/11/27

日本のプロレスラー、プロレス・トレーナー。本名は小島 泰弘(こじま やすひろ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。アメリカ合衆国で大きな成功を収めた日本人レスラーの一人。


ジャイアント馬場
1938/1/23 - 1999/1/31

日本のプロレスラー、プロ野球選手、タレント。本名は馬場 正平(ばば しょうへい)。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。

血液型O型。身長209cm、体重135kg。リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアントBaba the Giant)」と命名したことに由来する。

日本プロレス界史上最大の巨体を持ち、力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネームでもあり、CMやテレビ番組などでも人気を博した。 現役時代NWA世界ヘビー級王座に3度就いた。


松岡 巌鉄
1938/11/25

岡山県和気郡出身で間垣部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代の四股名は正剛山(せいござん)で、最高位は幕下33枚目。本名は、松岡 政雄(まつおか まさお)。


マシオ駒
1940/5/18 - 1976/3/10

日本の元プロレスラー。本名は駒 秀雄(こま ひでお)。東京都世田谷区出身。


上田 馬之助
1940/6/20

愛知県海部郡(現在の弥富市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代は、海部錦(あまにしき)の四股名で最高位は序二段12枚目。プロレス時代は、頭髪をまだらに金髪に染めていたことから「まだら狼」「金狼」と呼ばれた。全盛期は身長190cm、体重118kg。本名は上田 裕司(うえだ ひろし)。


サンダー杉山
1940/7/23 - 2002/11/22

杉山恒治(すぎやま つねはる)は日本のプロレスラーである。新潟県糸魚川市出身。現役引退後はタレント活動の他、実業家としても成功していた。


大熊 元司
1941/12/18 - 1992/12/27

埼玉県草加市出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、日本、アメリカで活躍した元プロレスラー。大相撲時代の四股名は崎錦(ささにしき)、最高位は幕下93枚目。プロレス時代の最盛時は、身長179cm、体重130kg、愛称は「クマさん」。


ラッシャー木村
1941/6/30 - 2010/5/24

日本の元大相撲力士、元プロレスラーである。本名は木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。金網の鬼、ラッシング・パワー、吠える闘将などのニックネームで呼ばれた。2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。


山本 小鉄
1941/10/30 - 2010/8/28

日本の元プロレスラー。本名は山本勝(やまもと まさる)。リングネームは豊登の命名。神奈川県横浜市南区出身。新日本プロレス所属。タレントとしても活動、芸能事務所、インターテイク所属であった。現役引退後は、解説者・レフェリーとして活躍した。


田中 忠治
1942/1/26

山口県防府市出身の元プロレスラー。リングネームの名付け親は豊登で、国定忠治をイメージしたものである。


坂口 征二
1942/2/17

日本の元プロレスラー、柔道家(五段)。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。

長男は総合格闘家の坂口征夫(1973/7/26)、次男は俳優の坂口憲二(1975/11/8)。2005年にはホンダ・エアウェイブのCMで憲二と親子共演を果たしている。


グレート草津
1942/2/13 - 2008/6/21

日本の元ラグビー選手、プロレスラー。本名は草津 正武(くさつ まさたけ)。


魁 勝司
1942/2/15

北沢 幹之(きたざわ もとゆき)は、日本の元プロレスラー、レフェリー。大分県出身。

グレート小鹿
1942/4/28(1940年生まれという説もある)

日本のプロレスラー。本名:小鹿 信也(こしか しんや)北海道函館市出身。大日本プロレス代表取締役社長。


ミスター・ヒト
1942/4/25 - 2010/4/21

大阪府大阪市天王寺区出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士、日本及びアメリカ合衆国やカナダで活動した元プロレスラー、トレーナー、マネージャー。本名は安達 勝治(あだち かつじ)。

力士時代の最高位は幕下17枚目。元阪神タイガースの安達智次郎は甥に当たる。


ミスター林
1942/5/17 - 1999/11/4

日本の元プロレスラー、元レフェリー。本名:林 幸一(はやし こういち)。一時期リングネームとして林牛之助とも名乗った。東京都江東区出身。身長176cm体重98kg。


マサ斎藤
1942/8/7

元レスリング選手、元プロレスラー、健介オフィススーパーバイザーである。本名斎藤 昌典(さいとう まさのり)。東京都中野区出身。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)である


アントニオ 猪木
1943/2/20

神奈川県横浜市鶴見区出身の元プロレスラー、経営者(新日本プロレス設立、イノキ・ゲノム・フェデレーション設立など)元参議院議員、事業家。本名は猪木 寛至(いのき かんじ)。血液型AB型。キャッチフレーズは「燃える闘魂」。愛称は「アントン」。

新日本プロレス創業や、異種格闘技戦の実施で日本のプロレス・格闘技史上最も影響を与えた存在の一人である。2010年WWE殿堂入り。


柴田 勝久
1943/12/4 - 2010/1/16

日本の元大相撲力士、元プロレスラー、レフェリー。三重県桑名市出身。大相撲時代の四股名は、三重ノ山 勝久(みえのやま かつひさ)。朝日山部屋(入門時は大鳴戸部屋)所属。柴田勝頼は実子。


ミツ・ヒライ
1943/2/15 - 2003/10/28

日本の元プロレスラー。兵庫県神戸市出身。本名は平井 光明(ひらい みつあき)。

息子の平井伸和もプロレスラー。


星野 勘太郎
1943/10/9 - 2010/11/25

元プロレスラー、プロモーター。本名は星野 建夫(ほしの たつお・韓国名:呂建夫(ヨ・コンブ、여건부))。兵庫県神戸市出身の在日コリアン。


永源 遙
1946/1/11

日本の元プロレスラー、元大相撲力士(立浪部屋所属)。石川県鹿島郡鹿西町(現在の中能登町)出身。プロレスラー時代は多くの団体を渡り歩き、現在はプロレスリング・ノアの相談役。

百田光雄とのシングルマッチは「宿命の対決」とも言われ、100回を超える回数を戦っている。現役後年は唾飛ばしで名を馳せ、対戦相手も永源を観客に向け、喉元を殴打させることで発せられる永源の唾を浴びる観客(それを除ける傘、新聞紙を持参する観客)が多くなった。


サムソン・クツワダ
1947/5/1 - 2004/10/12

北海道江別市出身で朝日山部屋所属の元大相撲力士、日本プロレスおよび全日本プロレス所属の元プロレスラー。本名は轡田友継(くつわだ ともつぐ)。四股名は二瀬海(ふたせうみ)、最高位は幕下23枚目。プロレスラー時代は身長190cm、体重120kg。


タイガー戸口
1948/2/7

東京都葛飾区出身のプロレスラー。キム・ドクタイガー・チャン・リーのリングネームでも知られる。

在日韓国人2世で、本名は金徳(キム・ドク)。通名は戸口 正徳(とぐち まさのり)。身長193cm、体重125kg(全盛時)。引退宣言はしていないが、現在はセミリタイア状態。


ザ・グレート・カブキ
The Great Kabuki
1948/9/8

(、本名:米良 明久(めら あきひさ)日本のプロレスラー、レフェリー。現在、プロレスラーとしてはセミリタイア状態。

宮崎県延岡市出身。

アメリカでも大きな成功を収めたレスラーである。東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持つ、代表的なペイントレスラーの一人。


ロッキー羽田
1943/2/15 - 1991/10/27

日本の元大相撲力士、元プロレスラー。北海道厚岸郡出身。本名は羽田 光男(はた みつお)。


百田 光雄
1948/9/21

日本のプロレスラー。フリーランス。元プロレスリング・ノア取締役副社長で、テレビ解説も務めていた。東京都港区出身。力道山ジュニア6時半の男などのニックネームを持つ。日本のプロレス界の礎を作った力道山の次男であり、百田義浩の実弟。


ケンドー・ナガサキ
1948/9/26

桜田 一男(さくらだ かずお)は、日本のプロレスラー。本名(戸籍上の表記)は櫻田 一男(読みは同じ)。北海道網走市出身。のリングネームで知られる。


伊藤正男
1948/12/9

北海道樺戸郡出身のプロレスラーである。


木戸 修
1950/2/2

日本のプロレスラー。神奈川県川崎市出身。ビッグマウス所属。褐色の肌と、どんなに激しく動いても乱れないヘアスタイルが特徴。寡黙だが、カール・ゴッチ直伝のグラウンド技術で「いぶし銀」のプロレスラーと呼ばれる。長女はプロゴルファーの木戸愛(めぐみ)。


佐藤 昭雄/ザ・グレート・シンジャ
1953/12/13

日本のプロレスラー。


藤波 辰爾
1953/12/28

日本のプロレスラー。本名は藤波 辰巳。大分県出身。血液型はO型。ニックネームは「ドラゴン」もしくは「ドラゴン藤波」。第77代NWA世界ヘビー級王者。一時期、リングネームをドラゴン藤波、ドクター(ドクトル)藤波としていた。


木村 健悟
1953/9/4

日本の元プロレスラー、宮城野部屋所属の元大相撲力士。本名は、木村 聖裔(きむら せいえい、きむら たかしと紹介しているプロレスラー名鑑もある)。愛媛県新居浜市出身。プロレスラーとしての最終所属は新日本プロレス。ニックネームは「稲妻戦士」。


  • 大坪清隆(大坪飛車角)
  • 長沢秀幸(長沢日一)
  • 金子武雄
  • 土佐の花(竹村正明)
  • 玉の川
  • 田中米太郎(桂浜のリングネームもある、のち新日本プロレスのレフェリー)
  • 阿部修(のち国際プロレスのメインレフェリー、大映映画の専属俳優でもあった)
  • 宮島富男
  • 渡辺貞三(のちにメキシコシティで、デビュー前のミル・マスカラスに柔道を指南している)
  • 比嘉敏一
  • 大山博
  • 緑岩
  • 長谷川丹治
  • 竹下民夫(のち国際プロレスのリングアナウンサー)
  • 平野惣一
  • 本間和夫
  • 木戸時夫(木戸修の実兄)
  • 金栄珠(ジャイアント馬場に勝る身長210cm)
  • マティ鈴木
  • 藤井誠之
  • 大里巌
  • 飯田敏光(のちプロ野球大洋へ入団)

 


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スタッフ/レフリー/
リングアナウンサー

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沖識名
1904/7/6 - 1983/12/155

元プロレスラー、その後、日本のプロレスでの元レフェリー。


九州山義雄
1913/10/20 - 1990/5/30

1930年代に活躍した大相撲の力士である。福岡県山田市(現嘉麻市)出身、出羽海部屋所属。最高位は小結。現役時代の体格は176cm、88.5kg。本名は大坪義雄。


  • レフェリー:ハロルド登喜(日本ヘビー級王座決定戦、力道山vs木村政彦戦を務める)
  • リングアナウンサー:阿久津直義(第1回ワールド大リーグ戦決勝戦、力道山vsジェス・オルテガ戦を務める。のちプロボクシングのリングアナウンサーとなり、藤猛や柴田国明の世界タイトル戦を務める)
  • リングアナウンサー:小松敏男(力道山最後のテレビ中継となったインターナショナル選手権試合、力道山vsザ・デストロイヤー戦を務める。のち東京プロレスへ移籍)
  • リングアナウンサー:篠原長昭

 


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アナウンサー/解説者


清水 一郎
1933 - 1997/10/18

元日本テレビアナウンサー。日本のプロレス実況の草分けの一人である。


徳光 和夫
1941/3/10〈戸籍上、実際は3/3)

東京市(現・東京都特別区)目黒区出身のフリーアナウンサー、タレント、司会者。日本ドッジボール協会顧問、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ顧問。オフィス ラ・メール所属。マネジメントはソニー・ミュージックアーティスツと業務提携。元日本テレビ(日テレ)アナウンサー。現在は神奈川県茅ヶ崎市在住。血液型B型。海城高校、立教大学社会学部卒業。夫人は徳光早苗。2男あり。


田鶴浜 弘
1905 - 1991/8/15

日本のスポーツライター、プロレス評論家。日本ボディビル協会の副会長も務めた。


山田 隆
1933/5/24 - 1998/9/8

日本のプロレス記者・評論家。東京スポーツ新聞社に所属していた。北海道北見市出身。


  • 佐土一正(1954年 - 1963年?)
  • 伊集院浩
  • 芳の里淳三

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