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旧UWF


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U.W.F.
Universal Wrestling Federation:(ユニバーサル・レスリング・フェデレーション)

格闘技路線のプロレスで人気を呼んだ。設立時期により第一次と第二次に分かれる。

当初は古代ギリシャのパンクラチオンの復興を目指して設立されたが、離合集散を繰り返し、第二次UWF崩壊以後は分派した団体間・個人間で誹謗・中傷が頻発した。これらUWFの思想から生まれた格闘技団体を総称してU系と呼ぶ。



概要
ファン及び専門誌では旧UWFとも呼ばれる。また所属選手にはユニバーサルと呼ばれる場合がある。第一次UWFは1984年に新日本プロレスの営業本部長だった新間寿を中心に、同じく新日本プロレス所属の前田日明と、同じく新日本プロレス所属で元国際プロレスのラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田、マッハ隼人らによって立ち上げられた
設立までの経緯

UWF設立の裏には、当時アントニオ猪木が起こした事業「アントンハイセル」の失敗により猪木が莫大な負債を抱え、その補填をする為に新日本で得た収益を資金流用しているという話に端を発するお家騒動(新日クーデター事件)が大元にある。この騒動により、猪木派であった新間寿営業本部長と反猪木派社員が反目。新間が猪木の新たな受け皿として用意したのがユニバーサルレスリング連盟、通称「U.W.F」である。一時クーデター派によって新間は営業本部長を解任され、同時に猪木も代表取締役社長を一時的に解任。しかし「猪木なしでの新日本プロレス中継はありえない」というテレビ朝日の介入によりクーデターは未遂に終わる。そういった経緯から、設立前にはアントニオ猪木を含めた新日本プロレスのレスラーの参加が噂され、旗揚げ戦のポスターにも当時の新日の主力選手達や主力外国人レスラー達の写真が載せられたが(「私はすでに数十人のレスラーを確保した」というフレーズまで刷り込まれた)、結果としては前田日明を始め、セミファイナル以下のレベルのレスラーが旗揚げに参加にするにとどまった。なお前田は、「猪木さんが『俺も後から行くから、先に行ってくれ』と言われたので移籍した」と後に発言している。また佐山聡は後に、男性誌の連載記事にて前述にあるような事件の内幕を暴露している。外国人レスラーに関しては、表立ってはいなかったが、ジャイアント馬場のルートでテリー・ファンクが窓口となり選手を斡旋している(旗揚げシリーズには、テリーが主戦場としていたサンアントニオ地区からボブ・スウィータンやスコット・ケーシーらが来日)。これは旗揚げ前に新間から馬場に「猪木とUWFを作るがそれがきっかけで外人引き抜き戦争が再燃しないように外人ルートで協力してくれ」と依頼があったためといわれており、マーク・ルーインやカリプス・ハリケーンといった全日本プロレスへの来日経験者がUWFに登場したのはこのためである。

路線

旗揚げ戦は、1984/4/11埼玉県・大宮スケートセンターにて行われた。旗揚げ戦のポスターに掲載されていた、猪木を始め、当時の新日の主力選手達や、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントら当時の新日のトップ外国人レスラー達は誰も出場しなかった。そのため、これらの選手の来場を期待したファンからの罵声や、当日の興行には関係の無い猪木、長州、藤波らのコールがメインの前田の試合中に発生するなど、波瀾含みのスタートだった。

旗揚げシリーズは路線も定まらない状態だったが、前田の師匠格である藤原喜明が高田延彦を引き連れ参加したあたりから方向性が定まり始め、道場で行われるスパーリングのような関節を取り合う攻防を中心としたレスリングに転換していく。

一方の新日本プロレスは長州力率いる維新軍との軍団抗争が激化。純プロレス路線を更に推し進める中、UWFは1984/7/23・7/24の後楽園ホール「UWF無限大記念日」大会に、引退していたタイガーマスク=佐山聡がザ・タイガーとして、新日本退団後に佐山自身のジム(当時の名称はタイガージム)でインストラクターをしていた山崎一夫を引き連れて、出場することになる。大会が成功した後も一部のプロレスマスコミやファンの強力なバックアップもあり、山崎共々、継続参戦することになり、8/4、正式にUWF入団を果たす。後に新日本を退団した木戸修も加わることになり、基本となるUWFの陣容はこれで固まった。なお、佐山は復帰の条件として一部フロントの追放を挙げ、これにより新間寿は正式にUWFから手を引いた。この時、新間に追従する形でグラン浜田が離脱した。

なお、彼等は皆当時「伝説のストロングスタイル・レスラー」として神格視されていたカール・ゴッチ門下生だったこともあり、ゴッチが彼らを指導したことも人気に拍車をかけた。また、ゴッチの娘婿である空中正三もレフェリー兼レスラーとして参加した。ゴッチもまた弟子が参集したUWFを喜び、ジョー・マレンコなどの選手派遣など協力を約束。ここにUWFの目指すレスリング=ゴッチ流ストロングスタイルという一応のラインが出来上がる。

佐山はリングネームをスーパー・タイガーと改め、9/7後楽園ホールの「UWF実力No.1決定戦」第1ラウンドで藤原を、9/11同所での第2ラウンドで前田を倒し「実力No.1」の称号獲得。試合はシングルがほとんど、ロープワークを廃する、相手の技を簡単に受けない等従来のプロレスのショー的要素を廃し、「キックが急所にまともに入ったら誰であってもまともに立っていられない」「関節技はポイントがガッチリ決まれば絶対に逃げられない」とする格闘技色の強いレスリングを展開、従来のプロレスに飽き足らなくなっていたファンはUWFの標榜する路線を支持し、一部に「UWF信者」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。途中、佐山のUWF移籍問題で浦田昇社長が暴力団を介して、佐山のマネージャーだったショウジ・コンチャ氏を強要した容疑で逮捕されるなどスキャンダルも報じられた。又、ラッシャー木村・剛竜馬が「ビクトリー・ウィークス」シリーズ後に離脱する。ゴッチ流ストロングスタイル路線を嫌った事が理由と言われる事が多いが、シリーズ前後での、佐山やゴッチを迎えた道場での合同練習にも彼らが友好的に参加していた事は、雑誌企画で取材に来た見栄晴のレポートでも紹介されており、また、当人達が後に離脱の理由について「外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブルが理由であり、格闘技路線そのものに反対したわけではない」と語っている事、加えて、プロレス批判を強めていく佐山・前田・藤原らから、木村や剛に対する批判がほとんどなされてない事から、この理由はプロレスマスコミ及び一部UWF信者が後になって作り上げたものと見做される。 UWFはこの後もおおむね順調にいくかと思われた。

しかし佐山の参戦は、実はUWFにとって諸刃の剣だった。佐山は山崎とのタイガージム時代から「新格闘技」と称して、しっかりしたルールにのっとった新しいスタイルの正しいスポーツを模索し、プロレスではなく「シューティング」、その選手には「シューター」という単語を使うようになり、そのプロデュースを手がけることにたいへん熱心だったことから、徐々に試合ルールなどに口を出すようになり、実際それは実行されていった。佐山は最初の試みとして藤原とノーフォールマッチを行い勝利すると、1985年、所属レスラーの戦績から実力査定を行うリーグ戦を開催、ランキング制度を導入し、Aリーグ、Bリーグの2軍制を取り入れた。「反則をより明確にする」「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」「減点ポイント制を導入し、ロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行ってはならない。(公式UWFルール第30条3項)」など、内実あまりに実験的な試みを数多く取り込んでいったため、佐山以外の選手は徐々にフラストレーションを募らせていくことになる。

崩壊

「テレビ局が付いていなければ団体運営は出来ない」と言われていた時代、UWFはテレビ番組が無かった。旗揚げ当初、フジテレビが放送するという話もあったが立ち消えになっている。その後、TBSで放送するという話も持ち上がったが、これも諸問題から立ち消えとなり、最終的にはテレビ東京の番組である『世界のプロレス』で一部の試合が放送されたが、放送局の関係でネット局も少なく、アピールするには不充分だった。

アピール度や放送する事で入ってくる放映権料も無い事で資金繰りに苦しんでいた中で、スポンサーだった豊田商事(一時団体名を「海外UWF」と名乗った事もある)の永野一男会長が殺害されるなど、さらに資金繰りが悪化する。

またリング内では、目指すスタイルの問題、および佐山がUWFの実権を握り自分に都合のいいように団体改革を推し進めたことで佐山とその他選手の間に徐々に溝が生じた。1985/9/2大阪府立臨海スポーツセンターでの第2回公式リーグ戦で、前田が佐山に喧嘩マッチを仕掛けたことで、ついに不協和音が表に噴出してしまう。佐山は前田の蹴りが自分の下腹部に当たったとして、レフェリーに反則を主張。前田の反則負けとなるが、実際は下腹部には当たっておらず、佐山が一方的に試合を終わらせたものと見られている。その後前田は欠場。この事件はUWFに暗い影を落とし、結果、UWFは1985/9/11後楽園大会を最後に崩壊する。

佐山も同時に再びプロレス界から身を引き、自身の標榜する新しい格闘技「シューティング(後の修斗)」の創設に力を注ぐことになる。

新日本への一時帰還

UWF崩壊後、1985年末に前田、藤原、木戸、高田、山崎ら一部のレスラーは、業務提携という形で古巣である新日本に電撃復帰。前田は挨拶に立った新日本のリング上から「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」と名言をはき、新日本勢との安易な融合を否定し、対決する道を選んだ。なお、崩壊以前から前田日明はジャイアント馬場より「全日本プロレスに来ないか。」と誘われたが、全日が欲しかったのは前田と高田延彦の二人だけだったので、他のレスラーの事も考え断っている(当時の全日には長州力らのジャパンプロレスやラッシャー木村らの旧国際プロレス勢も上がっており、UWF全員を受け入れる余力はなかった)。

年が明けて、新日本からの要求により猪木への挑戦権をかけたUWF選手内でのリーグ戦が行なわれる。最終的に前田と藤原が争い、最後は前田のスリーパーホールドで藤原が口から泡を吐いて失神したかに見えたが、藤原も同時に前田の足をレッグロックに捕えており、勝ち残ったのは前田からギブアップを奪った藤原だった。これを受けて2/6、両国国技館の猪木対藤原戦で藤原が敗れた後にリングに乱入した前田が猪木の顎にはなった容赦のないハイキックを入れて猪木がダウン。その際猪木が、反則のナックル(後に肘打ちだったことがわかる)を顎に入れた末に藤原をスリーパーホールドで失神させたことに激昂した前田は「猪木だったら何をやってもいいのか!?」と異議を唱えた。これを経て、ついに新日本とUWFの戦いが始まる。

彼らはUWFスタイルを捨てることはなく新日本勢に真っ向からイデオロギー対決を挑み、二つの異なるスタイルが対決するスリリングな展開(実際は新日勢はロープの反動を利用しないUWFスタイルでの戦いを強いられることになった)は、初代タイガーマスクの引退と長州力率いる維新軍の大量離脱、ストロングマシーン軍団の登場による迷走等によりかつての勢いを失いかけていた新日本の戦い模様に再び火をつけ、ファンも出戻り組のUWFを大いに歓迎した。

その中で今も語り継がれる名勝負・名シーンも数多く生み出されており、3/26東京体育館での新日本対UWFの5対5イリミネーション・マッチが行われた。4/29津市体育館での前田対アンドレ・ザ・ジャイアントのシュート・マッチは先鋭化する一方の前田を潰すために新日本が画策。この試合はテレビ収録されたにもかかわらず、あまりに異質な試合になったためお蔵入りとなった。前田は「やっちゃっていいんですか」と何度もセコンドに確認を入れ、結果的にアンドレを戦意喪失に追い込んでいる。10/9両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた前田対ドン・中矢・ニールセン戦での劇的勝利で前田は猪木に代わり「新・格闘王」という称号を得る。高田延彦と元全日の越中詩郎のIWGPジュニアヘビー級王座を巡る対決を中心としたジュニア戦線の充実(第2期ジュニア黄金時代)なども大きな話題となった。

この中でも特筆される戦いとしては1986/6/12大阪城ホールで行なわれたIWGP公式リーグ戦、前田対藤波辰巳によるシングルマッチが挙げられる。前田は序盤から容赦ないキックを顔面や胸板に浴びせ藤波を圧倒するも、藤波はすかす事無く真っ向から受け、さらにコーナーの藤波に対して放った縦回転の大車輪キック(今でいう浴びせ蹴り)により額を切り大流血、最後は自らロープに飛ぶというUWF勢としては異例の行動を取る。前田の放ったフライング・ニールキックと藤波のジャンピング・ハイキックが空中で交差し、両者後頭部から落ちてのダブルKOという壮絶な結末になった。この対決後、前田は「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」と語り、上辺ではUWF勢と新日本の雪解けを予感させた。

その後1987年になって全日本に転出していた長州らジャパンプロレス勢が新日本に電撃復帰。この頃から徐々にUWF勢は閑職化していき、6/12両国国技館でのIWGPリーグ戦決勝・猪木VSマサ斎藤戦にて猪木が4連覇を達成した後、いつまで立ってもリング上が猪木世代に支配されていることに苛立った長州が「前田、おまえは噛み付かないのか?!今しかないぞ、俺たちがやるのは!」とリング上から藤波、前田を巻き込むように世代闘争をアピール。これに前田が「世代闘争でもなんでもな、誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ、決まるまで!」と呼応したことで、猪木・マサ斎藤ら旧世代軍と長州・藤波・前田を中心とする新世代軍の戦いが始まるにつけ、UWFの存在意義は形骸化してしまう。

そしてこの戦いの発起人である長州が「俺はフライングするぞ」の一言で旧世軍との戦いの終結を早々に一方的に宣言したことと、マサ斎藤が猪木との共闘を嫌い再び戦うことを選んだため、ジャパン勢(長州)とUWF勢(前田)の間で確執ができ、ついに11/19後楽園ホールの維新軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田日明が長州力を防御の出来ない背後から顔面をモロに蹴るという俗に言う「前田顔面蹴撃事件」を起こした。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷を負い、プロレスにおける暗黙のルールである「故意に相手に怪我をさせるような攻撃はしてはならない」という禁を破った前田はその行為を内外から問題視され、無期限出場停止処分となった。その解除条件としてメキシコ遠征を言い渡されるものの、これを拒否。1988/2/1付けで新日本から解雇通達を受ける。

主なタイトル

第一次

  • UWFヘビー級王座:ベルトの中心に『UWF』と刻み込まれたタイトル。当初はWWF(現WWE)会長だった新間寿の伝手で、WWF(現WWE)インターナショナルヘビー級王座だったが、全く同じ名前のタイトルが新日にも存在し(数年前に復活し藤波と長州が争っていたタイトル)、同じ名前の王座が二つ存在すると言う異常な事態となった。その後、新間寿がUWFから離れた事によってWWFとの関係も無くなり、UWFヘビー級王座となったが、王者だった前田はほとんど防衛戦もしないままタイトルは自然消滅となった。


ビデオ紹介
プロレス関連商品
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激闘!! UWF旗揚げ
激闘!! UWF旗揚げ

1984/4/11
大宮スケートセンター


UWF旗揚げ

前田日明vsダッチ・マンテル
グラン浜田vsペロ・アグアーヨ
ラッシャー木村vsスコット・ケーシー
剛竜馬vsビニー・バレンチノ
エル・テハノ/エル・シグノvsマッハ隼人/マノ・ネグラ


熱闘!!前田日明
UWF旗揚げ第一戦
大宮大会
熱闘!!前田日明 

1984/4/11
大宮スケートセンター

前田日明vsダッチ・マンテル

さようなら ザ・タイガー
無限大記念日
ザ・タイガー 無限大記念日


1984/7/23 後楽園ホール
ザ・タイガー/高田延彦vs藤原喜明/前田日明

1984/7/24 後楽園ホール
ザ・タイガーvsマッハ隼人


UWF 実力NO.1決定戦 
スーパータイガー編
スーパータイガーvs前田日明


1984/9/7 後楽園ホール
スーパータイガーvs藤原喜明

1984/9/11 後楽園ホール
スーパータイガーvs前田日明


シューティングプロレス
死闘ノーフォール
デスマッチ
スーパータイガーvs藤原喜明

1984/12/5
後楽園ホール


スーパータイガーvs藤原喜明
高田延彦vs山崎一夫


格闘技ロード 公式戦Ⅰ
格闘技ロード 公式戦

1985/1/7
後楽園ホール


スーパータイガーvs前田日明
藤原喜明vs山崎一夫


格闘技ロード 公式戦Ⅱ
スーパータイガーvs高田延彦



1985/1/20 後楽園ホール
スーパータイガーvs高田延彦

1985/2/18 後楽園ホール
前田日明vs木戸修
前田日明vs山崎一夫


格闘技ロード 公式戦Ⅲ
スーパータイガーvsマッハ隼人

1985/2/18
後楽園ホール


スーパータイガーvsマッハ隼人
藤原喜明vs木戸修


格闘技ロード 公式戦Ⅳ
格闘技ロード 公式戦

1985/3/2
後楽園ホール


スーパータイガーvsマーティ・ジョーンズ
高田延彦vs空中正三
前田日明vs藤原喜明


ドキュメントUWF
ドキュメントUWF

  

1985/4/12 後楽園ホール
スーパータイガーvs山崎一夫

1985/4/14 万博記念館 
前田日明/スーパータイガーvs木戸修/藤原喜明 

1985/4/26 後楽園ホール
藤原喜明vs高田延彦


シューティング・マッチ
シューティング・マッチ

1985/7/25
大田区体育館

  

前田日明vsスーパータイガー
藤原喜明vs木戸修
高田延彦vsキース・ハワード


UWF ラストマッチ
新しいプロレスの叫び
UWF ラストマッチ
1985/9/11
後楽園ホール


高田延彦vs山崎一夫
藤原喜明vsスーパータイガー

 

UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.1
前田日明vsキース・ハワード
1985/7/8
広島県立体育館


前田日明vsキース・ハワード
藤原喜明vs高田延彦
木戸修vsスーパー・タイガー


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.2
前田日明vsキース・ハワード
 1985/7/13
静岡産業館 

  

スーパータイガーvsキース・ハワード
木戸修vs高田延彦
前田日明vs藤原喜明


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.3
UWF ビデオバウト・シリーズ
1985/7/17
大阪府臨海
スポーツセンター


木戸修vsキース・ハワード
前田日明vs高田延彦
藤原喜明vsスーパー・タイガー


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.4
前田日明vs高田延彦
1985/7/21
後楽園ホール


藤原喜明vsキース・ハワード
スーパー・タイガーvs高田延彦
木戸修vs前田日明


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.5
木戸修vs前田日明
1985/8/25
岐阜産業館


木戸修vs高田延彦
スーパー・タイガーvs山崎一夫
藤原喜明vs前田日明


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.6
藤原喜明vs前田日明
1985/8/29
大宮スケートセンター


前田日明vs高田延彦
スーパータイガーvs木戸修
藤原喜明vs山崎一夫


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.7
THE UWF MATCH
1985/9/2
大阪府臨海
スポーツセンター


木戸修vs山崎一夫
スーパータイガーvs前田日明
藤原喜明vs高田延彦


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.8
前田日明vs高田延彦
1985/9/6
後楽園ホール


スーパータイガーvs高田延彦
藤原喜明vs木戸修


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.9
スーパータイガーvs前田日明


中野龍雄vs安生洋二
広松智vs安生洋二
星名治vs宮戸成夫
星名治vs安生洋二


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.10
スーパータイガーvs高田延彦
1984/9/11
後楽園ホール


高田延彦vsマーク・ルーイン
山崎一夫vsジャック・スヌーカ
藤原喜明vsザ・UFO


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.11
中野龍雄vs安生洋二
1984/9/7
後楽園ホール


山崎一夫vsF・マーテル
高田延彦vsP・ラファイエル


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.12
高田延彦vsマーク・ルーイン

1984/9/7 後楽園ホール
ミスター・空中vsS・マギー

1984/12/5後楽園ホール
前田日明vsマーク・ルーイン


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.13
山崎一夫vsF・マーテル
1985/1/7
後楽園ホール


ミスター・空中vsB・ライト
高田延彦vsB・ブラナン
木戸修vsJ・ロンドス


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.14
前田日明vsマーク・ルーイン


1984/12/5後楽園ホール
高田延彦vsM・ジョーンズ

1985/2/18後楽園ホール
キース・ハワードvsピート・ロバーツ
木戸修vs前田日明


UWF
ビデオ・バウト・シリーズ
Vol.15
ミスター・空中vsB・ライト

1985/2/18後楽園ホール
高田延彦vsM・ジョーンズ

1985/7/13後楽園ホール
中野龍雄vs安生洋二


THE UWF MATCH
THE UWF MATCH

1987/8/29
後楽園ホール


前田日明vs藤原喜明
中野龍雄vs安生洋二


甦る四次元殺法
ザ・タイガー
新格闘技のすべて



藤原嘉明の関節技
(上・下)

1985/3/2
後楽園ホール

   

藤原流関節技
道場での練習風景
スパーリング
藤原喜明vs前田日明


所属


前田 日明
1959/1/24

まえだ あきらは、総合格闘技黎明期に活躍した元プロレスラー、元総合格闘家。リングスCEO。元HERO'Sスーパーバイザー。総合格闘技大会THE OUTSIDERのプロデューサー。大阪府大阪市大正区出身。元在日韓国人三世(日本国籍に帰化済み。)。

プロレス界にキックボクシングやサンボの要素を持ち込み、格闘技を日本人にとって身近なものにした。また、プロモーターとして格闘技の大規模興行を成功させ、そのノウハウはK-1に受け継がれている。総合格闘技という言葉の創始者(佐山聡が使い始めたという説もある)とされ、佐山聡らと共に、日本の「プロレス」が現代の「総合格闘技」へと発展拡大していく流れを作った中心人物である。また、前田はリングス初期に試合会場を予約する際に「フリー・ファイト団体」として「プロレス」との差別化をはかろうとしていた。


藤原 喜明
1949/4/27

ふじわら よしあき)は、日本のプロレスラー(フリーランス)。学校法人日本医科学総合学院理事長。同学校法人は文部科学省認可の専修学校朋友柔道整復専門学校を運営している。

プロレスラー以外に俳優・タレントとしても活躍している。関節技の鬼という異名をとり「藤原組長」の愛称で親しまれている。


髙田 延彦
1962/4/12

たかだ のぶひこは、日本のプロレスラー、元総合格闘家。現在はタレント、俳優、実業家として活躍をしている。本名は高田 伸彦。神奈川県横浜市泉区出身。血液型はA型。

格闘技ジム高田道場主宰者であり、格闘技イベントPRIDE統括本部長を務めていた。芸能マネジメントはレプロエンタテインメントが受け持っている。妻はタレントの向井亜紀。

高田延彦ブログ
高田延彦ブログ


山崎 一夫
1962/8/15

やまざき かずおは、元プロレスラー、整体師、タレント。通称山ちゃん。東京都港区出身。

ワールドプロレスリング解説者。


中野 龍雄
1965/6/16

なかの たつおは、日本のプロレスラー。茨城県下妻市出身。身長174cm、体重98kg。現在のリングネームは中野 巽耀(たつあき)である。


安生 洋二
1967/3/28

あんじょう ようじは、日本のプロレスラー・プロ格闘家。東京都杉並区出身。ニックネームは、Mr.200%


宮戸 優光
1963/6/4

みやと ゆうこう、本名宮戸 成夫(みやと しげお)は、神奈川県出身の元プロレスラー、現U.W.F.スネークピットジャパン代表、イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)ゼネラル・マネージャー。神奈川県出身。現役時公称身長177cm、体重93kg。

宮戸優光ブログ
宮戸優光ブログ


ラッシャー木村
1941/6/30 - 2010/5/24

ラッシャーきむらは日本の元大相撲力士、元プロレスラーである。本名は木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。金網の鬼、ラッシング・パワー、吠える闘将などのニックネームで呼ばれた。2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。


剛 竜馬
1956/3/23 - 2009/10/18

ごう りゅうまは、東京都新宿区三光町出身、神戸育ちのプロレスラー、俳優。本名は八木 宏(やぎ ひろし)。


マッハ隼人
1951/3/5

マッハ はやと、)は、鹿児島県揖宿郡山川町(現指宿市)出身の元プロレスラーである。本名は肥後 繁久。身長176cm、体重98kg。


グラン浜田
1950/11/27

グランはまだは、日本の男性プロレスラー。本名は濱田 廣秋(はまだ ひろあき)。群馬県前橋市出身。身長167cm、体重90kg。その軽量な体を生かしてルチャリブレを活動の中心としている。また最も著名な日本人ルチャドールの1人とされ、日本およびメキシコにおいて顕著な活躍を残している。

娘のソチ浜田、浜田文子もプロレスラーである(正確には、ソチ浜田は夫人の連れ子であり、浜田文子とは異父姉妹となる)。


佐山 聡
1957/11/27

さやま さとるは、日本のプロレスラーおよび総合格闘技・シューティング(現・修斗)の創設者、掣圏真陰流協会会長。山口県下関市出身。

覆面レスラー・初代タイガーマスクとしてプロレス界で活動。その後は、総合格闘技団体・シューティングを創設した。佐山サトル名義でも活動している。


木戸 修
1950/2/2

きど おさむは、日本のプロレスラー。神奈川県川崎市出身。ビッグマウス所属。褐色の肌と、どんなに激しく動いても乱れないヘアスタイルが特徴。寡黙だが、カール・ゴッチ直伝のグラウンド技術で「いぶし銀」のプロレスラーと呼ばれる。長女はプロゴルファーの木戸愛(めぐみ)。


ミスター空中
1944年 - 1992年

日本の元プロレスラー、レフェリー。兵庫県出身。本名は空中 正三(そらなか しょうぞう)。身長は175cm。
第二次はレフェリーに専念


新間 寿 
1935/3/28

元新日本プロレス専務取締役営業本部長、新間事務所代表、元WWF(現・WWE)会長。



永野 一男
1952/8/1 - 1985/6/18

ながの かずおは、日本の会社経営者(実業家)。金のペーパー商法を行った豊田商事の創業者(会長)。


  • 広松智
  • 神田秀宣
  • 星名浩
  • 森泰樹
  • 岡本剛(のち:ブルーザー岡本)


外人レスラー
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カール・ゴッチ
Karl Gotch
1924/8/3 - 2007/7/28

プロレスラー、プロレスコーチ。日本においてはプロレスの「神様」と称される。本名はカール・イスターツKarl Istaz)。1961年まではリングネームとしてカール・クラウザーKarl Krauser)と名乗っている。プロフィール上はドイツ・ハンブルク出身とされているが、実際はベルギー出身と言われている。得意技はジャーマン・スープレックス。


ジョー・マレンコ
Joe Malenko
1955/6/4

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はジョー・サイモンJoe Simon)。フロリダ州タンパ出身。

父はプロレスリング・スクール "Malenko School of Wrestling" (マレンコ道場)を設立し、「チェーン・デスマッチの鬼」の異名を持つボリス・マレンコ。実弟はWWEでロード・エージェントを担当しているディーン・マレンコ。


ボブ・スウィータン
Bob Sweetan
1940

アメリカ合衆国を中心に活躍した元プロレスラー。カナダ・アルバータ州カルガリー出身。生年は1943年とされる場合もある。


スコット・ケーシー
"Cowboy" Scott Casey
1947/3/19

アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ダラス出身。

カウボーイ・ギミックの正統派ベビーフェイスとして、アマリロやサンアントニオなど地元のテキサス地区を主戦場に活動した。


"ダーティー" ダッチ・マンテル
"Dirty" Dutch Mantel
1949/11/29

アメリカ合衆国の元プロレスラー。本名はウェイン・キーオンWayne Keown)。テキサス州オイル・トラフ出身。

生年は1952年ともされる。引退後はインディー団体のプロデューサーとなって活動し、2003年から2009年にかけてはTNAにてブッカーを担当していた。


マーク・ルーイン
Mark Lewin
1937/2/26

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身。

日本での異名は毒蛇。極太の腕で相手を絞め上げる得意技のスリーパー・ホールドは、「アナコンダ殺法」とも呼ばれた。


カリプス・ハリケーン/サイクロン・ネグロ
Caribs Hurricane/Cyclone Negro
1932/4/7

ロモン・エドゥアルド・ロドリゲスRomon Eduardo Rodriguez)は、ベネズエラ出身のプロレスラー。


 
 


 








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