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全日本女子プロレス
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かつて存在した日本のプロレス団体。登記上の商号は全日本女子プロレス興業株式会社。通称全女


概略

旗揚げ戦は1968/6/4、東京・品川公会堂。経営陣との対立から日本女子プロレスを退社した松永高司を代表に、松永を慕う選手達によって設立された。初代会長には、大日本一誠会・万年東一(1908/9/10-1985/3/28)会長が就任した。

旗揚げ当初、暴力団と関係があるとする中傷がなされ、興行のための施設借用に困難をきたした。このため興行は野外リングを設営し旅回りをすることが多かった。この時全女を支援し、その身元を保証したのが『デイリースポーツ』であった。以後1990年代まで、全女の主だった興行には「後援・デイリースポーツ」のクレジットがなされ、フジテレビによる試合中継にもデイリースポーツ記者が解説者として派遣された。また、全女旗揚げ時に、デイリースポーツ編集局長であった植田信治(1928-2001/11/6) は、のち全女のタイトル運営機関である「全日本女子プロレスリング協会」のコミッショナーに就任している。

興行は県立体育館や市民会館、スーパーの駐車場など様々な場所で行われ、最盛期には年間200を超え、全団体でも最多であった。


歴史

  • 1968/6/4 旗揚げ。
  • 1970/10/15 京愛子がWWWA世界シングル王座獲得。
  • 1971/6/30 京愛子とジャンボ宮本を初代WWWA世界タッグ王座に認定。
  • 1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となった。
  • 1975年10月 第1回ワールドリーグ戦開催
  • 1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王者となった。
  • 1976年11月 ビューティ・ペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
  • 1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
  • 1977/9/1 池下ユミがオールパシフィック王座の前身たるハワイアンパシフィック王座を獲得。
  • 1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
  • 1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
  • 1979年10月 日米対抗リーグ戦開催
  • 1980/12/15 全日本シングル王座が創設され、横田利美(後のジャガー横田)が初代王座獲得。
  • 1981/2/25 横田利美がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となった。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
  • 1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
  • 1983/5/7 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
  • 1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。
  • 1983年12月 「全日本女子プロレス大賞」創設。
    1996年まで続いた。その後Lady'sゴング(→Lady'sリング→
    RINGSTARS)に引き継がれ、現在は「RINGSTARS女子プロレス
    大賞」となっている。
  • 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
  • 1985/3/15 第1回ジャパングランプリ開幕。
  • 1985/7/8 新社屋が完成。
  • 1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となった。
  • 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが「CHANCE」で歌手デビュー。
  • 1986/4/5 「女人禁制」の両国国技館に初進出。
    ※1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが
    設立される。
  • 1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
  • 1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
  • 1987年10月 ジャパン女子プロレスをフリー宣言していた神取忍が大森VS長与戦後に参戦をアピール(最終的に実現には至らず)。
  • 1987年10月 第1回全日本女子レスリング選手権との合同興行を開催。全女から同選手権に練習生を派遣。
  • 1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
  • 1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
  • 1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
  • 1989/5/6 プロレス団体として初めて横浜アリーナ興行を開催。
  • 1989/8/24 天田麗文が全日本シングル王座を獲得し、ジュニア・タッグと合わせた史上唯一の全日本三冠達成。
  • 1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場。
  • 1990/11/14 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
  • 1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成しブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
  • 1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。
    カップリングには豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの
    「TIME TO GO」が収録されている。
  • 1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、団体対抗戦の機運が高まる。
  • 1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
  • 1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。
    かつての後輩である工藤めぐみ、コンバット豊田組に勝利。
    これを機に、各団体に交流を呼びかける。
  • 1993/4/2 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
    北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と
    呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、セミファイナル中に
    夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが
    新横浜駅で夜明かしするなど、伝説的な興行となった。
  • 1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。(『憧夢超女大戦』)
    空席が半分以上ある中、段取りが悪く、またも長時間興行となり、
    終電に間に合わない人が続出、これを機に女子プロレスブームも
    終焉。
    リレハンメル冬季オリンピックのフィギュアスケートアメリカ代表、
    トーニャ・ハーディングを獲得すると宣言したことから話題を
    呼んだが実現はしなかった。
    日本レスリング協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子
    らが出場した。
  • 1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
  • 1996/5/18 第1回ジュニア・オールスター戦を開催。
  • 1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
  • 1997/8/20 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。これを端緒として経営不安が表面化する。
  • 1997年10月 手形不渡りによる銀行取引停止処分を受ける。
    この頃までに大半の選手が離脱。アジャ・コングらの「アルシオン」
    と井上京子らの「新日本女子プロレス(ネオ・レディース)
    (NEO女子プロレス)」とに別れた。
    残留した選手は堀田祐美子、豊田真奈美、井上貴子、伊藤薫、
    渡辺智子、前川久美子、高橋奈苗、中西百重、藤井巳幸、
    脇澤美穂ら。一時退団していた納見佳容が再入団した他、
    IWA・JAPANから元川恵美がレギュラー出場し
   (その後、同団体の所属選手だった西堀幸恵も加わる)、
    「新生全女」をアピールして再出発。
  • 1998年 30周年を記念興行、ビューティ・ペアなどOGが出席する。女子プロレス殿堂表彰式も行われた。
  • 2000年 つんくのプロデュースにより「キッスの世界」(中西百重、高橋奈苗、脇澤美穂、納見佳容)がデビュー。JWPとの業務提携を発表。
  • 2001/12/16 川崎市体育館大会で脇澤美穂が引退。脇澤に代わって西尾美香が「キッスの世界」に加わる。
  • 2002/5/2 新日本プロレス30周年記念東京ドーム大会に試合提供。
  • 2002/7/7 東京・大田区体育館大会で豊田真奈美が退団表明。翌日GAEA大阪大会に現れたことで、全女-GAEA間に確執が生じる。
  • 2003/5/11 横浜アリーナ大会を最後に堀田祐美子、西尾美香が退団し「Z-SPIRITS」を結成。西尾の離脱により「キッスの世界」解散。
  • 2005/3/29を最後に主催興行を停止。
  • 2005/4/17 後楽園ホールでの興行(主催はファースト・オン・ステージ)を最後に松永会長が勇退。これに伴い解散。
    解散当時の所属選手は渡辺智子、前川久美子、高橋奈苗、
    サソリ、Hikaru、前村早紀に外国人のA.KONGの7人。
    最終興行は2,100人を動員して怪我で欠場した高橋、
    Hikaruを除く所属選手に、現役のOG選手を集めて行い、
    引退済のOGも多数来場した。


体制など

事務所

東京都目黒区下目黒に自社ビルを所有し、2階に事務所が置かれていた。練習拠点となる道場及び選手寮もビル内にあった。

ビル1階は車庫として使われていたが、天井が高いこともあり、沿道が歩行者天国となる日曜日に車庫内の車をすべて外に出して「ガレージマッチ」と呼ばれる興行を打ったこともある。

ビル内には自社で経営していた飲食店「目黒SUN族」(解散後に旗揚げされた団体「CHICK FIGHTS SUN」とは無関係)が入居しており、練習生や若手選手が試合の無い日に働いていたほか、イベントも行われていたが、閉店後はグッズショップ「Ring Star」(全女のプログラム名と同一。解散後に創刊された女子プロレス雑誌「RINGSTARS」とは無関係)となった。

自社ビルは解散前年の2004年に引き払い、解散時は品川区小山のビルの一角に事務所を構えていた。


デビューへの道

一般にはプロレス団体が募集を掛けてプロテストを行い、その合格者がトレーニングを経てそのままデビューへ進むが、全女でデビューするには、オーディションとプロテストの2段階を踏む必要があった。

まず、オーディションで候補者が篩いに掛けられ、合格者してもその時点ではデビューが保障されるわけでなく、その後は候補生として入門した上で道場でトレーニングを積み、一定期間後に行われるプロテストを通過することで初めてリングデビューへの道が開かれる。そのため、オーディションを通過してもプロテストで受からず退団したり、複数回受けて合格に至った者もいた。

オーディションはビューティ・ペアブーム真っ只中の1977年に候補者が多数集まったため、この年に第1回を行い、以来年1回実施していた。全盛期には1,000人以上の応募が殺到し、オーディション通過してもプロテストで合格しなければならないため非常に狭き門であった。

一方で、中高生を対象とした練習生制度も確立させた。これは地方巡業で空いた道場を練習生に開放して、様々なトレーニングを積ませるもので、後にオーディション、プロテストを通過して選手となった練習生も多く登竜門となっていた。

今日では、多くの女子プロレス団体や、元全女の北斗晶が社長を務める男子団体の健介officeなどで、このシステムを採用している。


地方興行

全女は全国津々浦々を巡業するスタイルで、最盛期には年間250試合近くも行っていたといわれた、これは男子とくらべてもかなり多い数である。選手の知名度のみならず、緻密なスケジューリング、地元とのパイプがなければ難しく、既存の女子団体でこれを行えるのは全女くらいしかいなかった。ハードな巡業は選手に雑草魂を植え付けるといわれていた。

全女解散後は全女から分化したNEO女子プロレスが引き継いだ。一方で、全女の地方興行に関わったプロモーターの中にも自主興行を行う所が存在する。


三禁

酒、煙草、男の三つを嗜んではいけないという掟。女子レスラーが煙草、酒をたしなむ様子は、風俗嬢そのものであると考えた松永兄弟が禁止させたという。また、全女の選手には未成年も多いことも関係していると思われる。「男が出来ると股を開くのを嫌がるし、ケガをすることを嫌がってファイトに精彩がなくなる」と公式に回答していた頃もある。ただし、酒に関しては、トップクラスの選手に限り、ある程度までは黙認されていたらしい(当時、全日本プロレスの阿修羅・原が長与千種の同郷の先輩という縁で、試合会場が近いときなどは女子選手を労うべく頻繁に飲み会を開いていたことを語っている)。北斗晶が佐々木健介(当時新日本プロレス)と結婚するに際し、この三禁の掟が焦点となったが、会社に認められて北斗の結婚後の現役続行がOKになったというエピソードがある。


25歳定年

かつては「25歳(ないしは在籍10年)に達した選手は引退する」という暗黙の了解があった。理由としては、世代交代を潤滑に行うためと、もし引退しても25歳くらいなら、結婚や他の仕事を探す等、新しい生活が出来るだろうというフロントの考えからである。年を取り人気の落ちた選手には、会社から有形無形のプレッシャーが掛けられ引退への道を進むこととなった。1993年には、エース格として全女を牽引するブル中野が25歳に達したことから、その去就が注目されたが、団体対抗戦の渦中だった状況もあり会社は現役続行を容認。この結果、「25歳定年」は事実上はなくなった。なお、全女を25歳までに退いた選手のうち数名は、フリーランスで現役続行したり新団体を旗揚げするなどしたケースも見られた。

25歳定年が暗黙の了解として存在していた頃は、強制的に世代交代が行われ、その都度新たなスターが登場したが、それが無くなることにより、ベテラン選手がいつまでもトップに存在し、世代交代が行われることが困難になり、女子プロレスが衰退するひとつの原因にもなっている。


上下関係

いわゆる体育会系の厳しい上下関係があり、相当悪質ないじめなどもあった。特に平成元年組の後輩いじめが酷く、多くの新人が寮から脱走した。いじめで有望な選手が育たない、途中で辞めるなど経営的にも大きな打撃があったのは事実である

『後輩レスラーは、先輩レスラーの得意技を、その先輩が引退するまで使ってはいけない』と言う暗黙の了解があり、そのため、選手達は知恵を絞ってオリジナル技を開発し、それが各選手の個性になっていった。また、引退する先輩レスラーが、後輩レスラーに自分の得意技を譲るということがあったが、それは、引退する自分の後継者として、その後輩を指名するという意味合いでもあった。

毎年のように入団する選手がいた昭和60年代以降は、入団年によって昭和(平成)xx年組と分けて呼称されていたが、入門希望者の減少等の要因によりそういった呼称はあまり見られなくなった。


ミゼットプロレス(Midget professional wrestling)は、いわゆる低身長症の人間が行うプロレス。通称「小人プロレス」。闘う人をミゼットレスラーと呼ぶ。日本では全日本女子プロレス(全女)で前座として行われていたのが有名。

概要

コミカルな面が強く、彼らを笑い物にしているとして一部の人権団体からは非難があるとされるが(これにより全女のテレビ中継でもほとんど扱われなかった。森達也によるとあるミゼット選手が「どうして大きいのはいいのに小さいのは駄目なんでしょう」と漏らしたという)、これも立派なプロレスであり、体格の小ささを利用したロープの隙間をくぐり抜けてのドロップキックなど、一般のプロレスでは見られない見せ場も多く、全日本女子プロレスの興行には欠かせないものであった。むしろこちらがメインで、女子プロレスが前座扱いであった時期もあるという(ミゼットの選手達は「自分達は笑われているのでは無い、笑わせているんだ」という自負を持っていた。実際、そう発言した選手もおり記録に残っている)。

また、かつては低身長症者は奇形の如く扱われ、就職などで差別されることも現在とは比べ物にならないくらいに多かったことから、ミゼットプロレスは低身長症の者にとって生活の糧を得る重要な就職口の一つであった。試合がない時には、テレビ局などからの依頼を受けて、小型の着ぐるみを担当するスーツアクターの仕事もこなしていた。

身体的ダメージが蓄積されて身体障害を負うなど、健康を害する選手も多く、リスクに見合った金銭的な評価も期待しづらいため、後継者難に悩まされている(全女が経営難になる前は、秩父市に存在した全女の施設の管理人と言う形で、引退後の生活を保障されていたが、現在は施設も存在しないため、引退後の保障も無いと言う厳しい状況となっている)。一時期は選手がMr.ブッタマン一人しかいなくなり、試合が組めなくなったこともある。全女解散後はAtoZが引き継いでいたが、AtoZ消滅後はNEOで稀に行われ、2009年には「女子プロレスオールスターズ」や「RINGSTARS秋まつり」にてミゼットプロレスが開かれた。近年は新宿プロレスなどにおいてつぼ原人とミゼットレスラーで試合を行うことが多い。2011年に旗揚げされた女子プロレス興行「REINA女子プロレス」でもミゼットプロレスが組まれている。

余談だが、メキシコのプロレス(ルチャリブレ)においては、「ミニ・エストレージャ」と呼ばれる、大型レスラーのキャラクタを模した小柄なルチャドール(ルチャリブレのレスラー)が相当数いる。その大半はミゼットというより若干小柄という程度の体格だが、中には明らかに小柄な選手もおり、大柄な選手ではできないようなトリッキーかつ素早い動きによって観客の目を引き付ける重要な役割を果たしている。中にはマスカリータ・サグラダなど、本家を凌ぐ人気を誇る選手さえ存在する。一時期、日本のミゼット選手とメキシコのミニ・エストレージャによる対抗戦が行われたこともある(ただし、両者のファイトスタイルが違っていたので、噛み合ったとは言い難かった)。また、アメリカでもミゼットプロレスというジャンルは存在しており、NWAにも世界ミゼット王座が存在していた。日本プロレスがアメリカのミゼットレスラーを招いたこともある。


格闘技戦

1990年代中頃まで行われていた試合形式。格闘技戦と銘打っているがバーリトゥードではなく、レスラー同士がグローブを着用し殴ったり蹴ったりするキックボクシング形式の試合(後に、レスラー同士だけでなく、キックやシュートボクシングの選手を招いて所属選手と対戦させている)。松永兄弟がボクシングの経験者であったことから、この形式を思いついたらしい。1976年には「世界三大格闘技戦」と銘打った大会が田園コロシアムで開催され、池下ユミ対ピンポン・ロカムヘンの異種格闘技戦、ユカリ・レンチ対レディ・タイガーのボクシング戦等が行われた。

一方、日本初の女子総合格闘家である高橋洋子は全女でレスラーとして活動し、後に全女のリングで総合ルールを戦って格闘家への転向に成功した。また、全女時代に格闘技戦を経験した伊藤薫も総合の試合に出場しており、全女解散後に旗揚げした「伊藤薫プロレス教室」は総合格闘技道場も兼ねている。さらに、2003年にはデビュー前の水嶋なつみ(現・夏樹☆たいよう)と高橋裕美(現・KAGUYA)を総合格闘技戦に出場させた。


新団体旗揚げのサポート

新団体(インディー団体)が相次いで旗揚げされた1990年代前半には、全女はこれらの団体の旗揚げを支援していた。例えば旗揚げ前のパンクラスには東京・目黒の道場を練習の場として提供。ユニバーサル・プロレスリングやW★INGプロモーションにはリングの貸し出しだけでなく、所属選手を派遣してカード編成を補助している。このことが、それまで女子プロレスを見たことの無かった男性ファンを全女に呼び寄せ、ブームを巻き起こすきっかけになっている。


女子レスリング界との協力関係

女子レスリングについても全女は日本レスリング協会と協力体制を採っていた。1980年代の旗揚げの際に、女子レスリング普及に努めていたレスリング協会の福田富昭(現・会長)は全女の承認を得た上でオーディションの不合格者をレスリングにスカウトし、吉村祥子ら多くのトップ選手を育て上げた。一方、全女側もジャガー横田がコーチに就任して練習生をレスリングの練習に参加させたり、合同練習やエキシビションマッチを組み、女子レスリング国内外公式戦に練習生や新人選手を派遣させるなどしていた。さらに第1回全日本女子レスリング選手権は全女とレスリング協会の合同興行として開かれた。これにより女子レスリングの知名度向上に一役買う一方で、多くの選手もレスリング技術を身に付けて後のトップレスラーに成長することができた。中でも豊田真奈美や井上京子らは国内大会優勝を経験している。また、斉藤和枝のようにアマチュアで活躍した選手がプロ入り後も参戦を続けるケースや、三田寺由香のように全女練習生として参加後プロにならずアマチュアの実力者となるケースもあった。1990年代に入っても東京ドーム大会にトップ選手の山本美憂や新人時代の浜口京子も参加しており、以降もレスリングルールのエキシビションを行った。一方で、井上貴子や府川唯未らレスリング出身者も全女に入門した。1999年にもレスリング協会主催の「レスリングフェスティバル99」が開催され、第1部でレスリング全日本選手権(全女からは中西百重が参加)、第2部でプロレス(全女・Jd'・ネオ)が行われた。なお、全女解散後、プロアマ協調路線はエスオベーションが引き継いでいる。


テレビ放映

全女が全国的人気を獲得できたのは、フジテレビによる試合中継番組の影響力も大きい。1975年からの放映開始以来「全日本女子プロレス中継」「格闘女神ATHENA」と引き継がれ、2002年まで長きにわたって放映されてきた。さらに、試合中継を放映するにとどまらず、所属レスラーのテレビ番組出演・オリジナル楽曲発表など、フジテレビの全面的バックアップで所属レスラーは全国的人気を獲得した。これらの施策により「女子プロレスブーム」が幾度となく起こり、全女への入門希望者が激増するということも起こった。

  • この項にも、当初、間違った記述がされていたが、1968 - 70年にテレビ放送されていた小畑千代らの団体は、「日本女子プロレス」であり、全女とは別団体である。
  • フジテレビでの定期中継番組開始前は東京12チャンネル「女子プロレス中継 世界選手権シリーズ」(計2回のみ)や日本テレビ「11PM」、NETテレビ「23時ショー」の中で不定期に中継していた時期もあった。
現在、FIGHTING TV サムライにおいて、「全女CLASSICS」と題した過去の名勝負を放送している。


芸能活動

全女のレスラーは歌手や女優など芸能活動も積極的に行ったことで、これも人気獲得に一役買っている。それまでプロレスラーの試合中継・取材以外でメディアに登場することは男女とも団体の看板レスラーを除けば皆無に等しかったが、マッハ文朱が元々歌手志願だったことから全女の事務所内に芸能部を設置し、マッハを筆頭に人気レスラーに歌手デビューさせてレコードを発売するとともに、ビューティーペアなどは歌番組にも出演させてそれまで女子プロレスに興味を示さなかった一般層の獲得に成功している。

また、所属レスラーの映画・ドラマなどへの出演も多く、特に女子プロレスを題材としたものについては全女が団体として全面協力していた。


経営難となった要因

松永一族のワンマン経営によると言われているが、プロレス興業だけでなく、飲食業経営や土地転がし、株の投資に手を出したことが著しく悪化させた最大の要因である。ただし、不動産事業に関しては、外部から不動産業務のプロを招き入れたため、この事業のみ黒字で、一番の原因は博打的な株の投資で大損害を負ったからとも言われている。しかし実際は興行面で利益確保が難しく、地方興行は立見券(1,000円)での入場者がかなり目立ち、座席に空席が多く見られた。アジャ・コングや北斗晶が在籍していた頃でさえ地方興行のほとんどが赤字遠征であった。結局、飲食産業部門の売上げでプロレス興行の赤字分を補填し、倒産するまでの5年以上前から自転車操業状態であった。


団体解散後

最終興行でも正式な「解散宣言」はなく、その後も松永正嗣渉外担当(俊国の子息)が中心となって新たな興行主を探して「全日本女子プロレス」継続することを模索していたが、多額の負債がネックとなり断念。なお、最終興行となった後楽園大会後も結城市かなくぼ体育館大会が27日に予定されていた。

2005年8月17日に全女最後の社長だった松永国松氏が品川区内のビルで飛び降り自殺をしていたことが判明。女子プロレス関係者に衝撃を与える最悪の事態となった。松永高司は柴田恵陽との共著で2008年に著書「女子プロレス終わらない夢―全日本女子プロレス元会長松永高司」を出版するが、2009年7月11日に帰らぬ人となった。

解散時の7名はフリーランスとして選手活動を継続。そのうち、高橋奈苗、Hikaru、前村早紀の3人でユニット「ドリームキャッチャー」を結成して自主興行を行った。2005年9月に業務停止となったAtoZの選手とともにKOプロダクションと契約するも、2006年2月に解消。その後、2004年まで全女に所属し、我闘姑娘に移籍していた夏樹☆ヘッド(全女時代は水嶋なつみ、現・夏樹☆たいよう)も合流し、10/1よりファースト・オン・ステージの元でプロレスリングSUN(後にCHICK FIGHTS SUNに改名、現在は解散)を旗揚げする。ミゼットレスラーはAtoZやJWP、NEOなどを転戦し、現在は単発興行に参戦している。

全女が管理していたタイトルは解散と同時に封印されたが、WWWA世界シングル王座のみ前川久美子が高橋奈苗とのタイトルマッチを希望していたため、管理権を引き継ぐ形で引き続き保持していた(前川は最終興行でWWWA防衛戦を行って引退する予定だったが、高橋が怪我で離脱していたため先延ばしに)。そして、後楽園ホールでの自身にとって最初で最後の自主興行にて最後のタイトルマッチが行われ、勝利した高橋が最後のWWWAチャンピオンとなり松永高司元会長にベルトを返還して封印された。この引退興行は全女最終興行同様に全女OGを集めて、レフェリー・リングアナウンサーらスタッフも元全女で構成されるなど、事実上の全女最終興行とも言える大会となった。

2006年7月には田島企画による「ニュー全日本女子プロレス」が旗揚げされ、不定期で興行を打っている。当初松永高司は「ニュー全女は全女と一切関係がない」の見解を示していたが、後に田島企画は松永家から許可をもらい「全日本女子プロレス」の名称を復活させた。ただし、所属選手を持たないプロモーションであり、出場選手もJWPを中心に旧全女所属歴のない選手が多い。

また、同年にお台場で開催された「レッスルエキスポ2006」の女子プロレスイベントでは「女子プロレスがお台場に帰ってきた」と題して行われた。

解散まで後援に当たっていたデイリースポーツはその後、全女に代わり現存する最古の女子団体となったJWPの主要大会の後援として女子プロレスに関わり続けている。

また、2011年には全女で行われていた「タッグリーグ・ザ・ベスト」と同名の大会がJWPで復活。

2010年10月現在、解散時まで残った日本人選手で現役を続けているのは高橋奈苗ただ一人である。


ニュー全日本女子プロレスは、女子プロレスの興行である。略称はニュー全女。所属選手を持たないプロモーションである。

概要

全日本女子プロレス(以降旧全女)が解散した翌年の2006年に旗揚げされた。主催は田島企画。

2006/7/28、群馬県・館林市民体育館で旗揚げ戦を開催。

当初、旧全女の会長であった松永高司はニュー全女との関係について否定していたが、後に松永家より許可をもらい、「ニュー」を外した「全日本女子プロレス」を正式な興行名とする。ただし、メディアなどでは従来通り「ニュー全日本女子プロレス」として呼ばれている。

興行は不定期で東日本地域(東京以外の関東、東北など)での地方興行として開かれている。旗揚げ当初はドリームキャッチャー→プロレスリングSUNからの提供試合が組まれていたが、その後はJWP所属選手が中心となっている。

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DVD化

団体解散後、全日本女子プロレスの映像版権は力道山OB会に譲渡されてネット配信などに利用されているが、2009年に「全日本女子プロレス・メモリアルDVDシリーズ」と題して、エースデュースより順次発売されている。

2009年6月24日に第1弾として1993年4月2日横浜アリーナ大会が収録されたDVDが発売され、2009年内発売分は1990年代に行われたビッグイベントがそれぞれBOXとして収録されている。2010年にはそれぞれ単品として発売。

一方、JWPとの対抗戦を収録したDVDはクエストのJWP激闘史シリーズより「JWP激闘史〜団体対抗戦 vs 全女編〜」として発売されている。

 
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