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1972年(昭和47年)に設立されたプロレス団体。

略して全日(ぜんにち)、全日本(ぜんにほん)、と呼ばれる。

事務所は東京都港区六本木から、日本武道館と近距離にある東京都千代田区に移転したが、道場、合宿所は神奈川県横浜市青葉区にある。

長らく「王道プロレス」を標榜としていた。現在は「パッケージプロレス」を看板として掲げている。旗揚げ戦は1972/10/22東京の日大講堂で行われ、旗揚げ前夜祭が町田市体育館で行われている。

歴代代表者

  • 初代:ジャイアント馬場 - 松根社長時は会長職を務めた。
  • 第2代:松根光雄(1982年1月 - 1989年3月) - 当時日本テレビ運動部長時代に、日本プロレスの放映を打ち切りにした。
  • 第3代:ジャイアント馬場(1989年4月 - 1999年1月) - 馬場が現役のまま死去したため、その後3か月間は三沢が代理を務めた。
    • 取締役:鶴田友美、百田義浩、百田光雄、三沢光晴、大八木賢一(日本テレビ)、伊藤宏(馬場元子の兄)、大峡正男
  • 第4代:三沢光晴(1999年5月 - 2000年6月)
    • 取締役:馬場元子、馬場幸子、川田利明、渕正信、田上明、小橋健太、百田義浩、百田光雄、大八木賢一
  • 第5代:馬場元子(2000年7月 - 2002年9月)
    • 取締役:川田利明、渕正信、馬場幸子
  • 第6代:武藤敬司(2002年10月 - ) - 2004年5月に地方興行の不振から、人員を削減。2005年から新体制になっている。
    • 取締役(2004年まで):川田利明、渕正信、和田京平、三橋祐輔、青木謙治(新日本から移籍)、高橋英樹(新日本から移籍)、渡辺秀幸(新日本から移籍)
    • 取締役(2011年現在):内田雅之、渕正信、カズ・ハヤシ





歴史
日本プロレスに所属していたジャイアント馬場中心に結成。常にアントニオ猪木率いる新日本プロレスの異種格闘技路線と比較されつつも、一貫して「王道の純プロレス」を実践してきた。

旗揚げまでの経緯
1971年12月、アントニオ猪木が「経営改善」の名の下にクーデターを画策したとして、日本プロレスを追放されたが、その余波が日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)の二局放映体制であった(経緯は日本プロレス#BIの時代を参照のこと)。NET側の看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことで、NETはこれまで日本テレビとの関係からNETの中継に出場できなかった馬場の出場を強硬に要求。協議の結果、日本プロレス幹部は日本テレビとの取り決めを破り馬場のNETの中継への出場を解禁した。このため、日本テレビは「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定。極秘裏に報復手段に近い形で日本テレビに関係が近かった馬場に接触。馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。
1972/7/29、馬場は日本プロレスの退団、新団体設立を表明した。日本テレビのバックアップを受ける形で馬場は渡米してサーキットを行い、その上でフリッツ・フォン・エリックやドリー・ファンク・シニア、ブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触し協力を要請し、豪華外国人レスラーの招聘に成功した。日本側陣営も「親・馬場派」ともいえる大熊元司、駒厚秀(マシオ駒)、サムソン・クツワダらを確保した。この中でも日本プロレスの若手選手であった百田光雄、リングアナウンサーとして百田義浩に加え、役員として力道山未亡人の百田敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功した。さらには手薄な日本人陣営をカバーするために国際プロレスの吉原功社長との会談でサンダー杉山を獲得、当時若手選手であったデビル紫、鶴見五郎らが参戦し、国際プロレスとの協調路線をしばらく維持した。馬場ら全日本勢も協力の見返りとしてしばしば、国際プロレスの興行に参戦している。
馬場は将来の投資として、旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング代表であった鶴田友美(後のジャンボ鶴田)を獲得。渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を施した。また、ザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年(昭和54年)まで約6年半にわたり定着参戦。馬場に次ぐ看板選手として初期の全日本の興行活動に貢献した。
旗揚げの約1年後に日本プロレスが崩壊、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9選手の日プロ残党は「力道山家預かり」となることが発表された。その過程で日本テレビや力道山家の意向などもあり、大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが、馬場は当初、大木らの受け入れには難色を示していたとされている。そのため、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日プロからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた。この扱いに対して上田馬之助、松岡巌鉄が反発して退団、次いで大木も全日本から一時撤退した。

ジャイアント馬場?ジャンボ鶴田の時代
初期
馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かし、幾多のスター外国人選手を招聘して人気を得た。力道山時代の「日本人レスラー対外国人レスラー」の系譜を受け継いだものだといえる。当時は新日本プロレスの格闘技路線と比較され、動きが緩やかな印象を与えた全日本のプロレスは一段低く見られがちな風潮もあった。現在では、WWEに代表されるアメリカンプロレスの源流を日本に紹介したこと、レスラーの高度な駆け引き、プロレス特有の「受けの美学」を見せたことなどが再評価の対象となっている。この時期に、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、大仁田厚らを輩出する。またブッチャーやシークに代表される流血戦も多く、大仁田のFMWなどのインディー団体のデスマッチ路線の源流を作った、とする意見もある。
中期
1981年(昭和56年)に新日本プロレスからスタン・ハンセンを引き抜く。その後、馬場が高年齢を理由にタイトル戦線から退いた後には、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は会長ポスト、後に社長に就任)ほか、大八木賢一(後に全日本専務、現在はノア専務)など、多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍した。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。1984年(昭和59年)には、新日本プロレスを離脱した長州力らジャパンプロレスの選手らが参戦したが、その後にジャパンプロレスが分裂し長州力らが新日本プロレスに戻ったのをきっかけに、天龍は阿修羅・原と「天龍革命」を起こし、鶴田、ハンセン、ブルーザー・ブロディらとタイトル争いを演じている。
他方、1987年(昭和62年)にはハル薗田が、新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、航空機の墜落事故に遭遇し、不慮の死を遂げた。薗田は31歳という、これから脂の乗ってゆく年代のレスラーであるだけに期待されており、また若手に対するコーチ役を務めていたことから組織としても小さくない痛手となった。
後期
1988年(昭和63年)、長く待望されていた三つのヘビー級王座の統一が図られるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる(王座戦の決着としてはありふれた手段だった)。最初の統一戦から約1年が経過した1989年(平成元年)4/16、後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田対ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。3冠統一は2日後鶴田により成されたが、この事件がきっかけとなって、全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが、後の鶴田対超世代軍・四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。
1990年(平成2年)、天龍をはじめとする多くのレスラーがSWSに移籍し、存続が危惧される。だがジャンボ鶴田に、2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴率いる「超世代軍」が挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こして再生。鶴田率いる正規軍と超世代軍、外国人レスラーの戦いが主軸となった。

三沢光晴ら四天王の時代
1992年(平成4年)、鶴田が病気のため、一線から退くと、戦いは四天王プロレスと呼ばれる形へ発展した。危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳細は四天王プロレスおよび王道プロレスを参照とのこと)は先鋭化し続け、三沢・川田戦などはテレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。武道館大会は1990年代全般で、プレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で、1998年(平成10年)には、東京ドームで初興行を開催。「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透した。

馬場夫人との軋轢?三沢以下選手26名が離脱へ
1999年(平成11年)に馬場が死去、5/7三沢光晴が社長に就任する。馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また、三沢、仲田龍らは、新日本プロレスなどで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。しかし、伝統の保持を第一優先と主張する、馬場夫人である馬場元子との軋轢が生じ、社長を解任された。その結果、馬場元子とジャイアント馬場の姪・馬場幸子、渕正信を除く全役員が辞任した。社長解任後、三沢を含めた26名のレスラー(練習生・杉浦貴含む)と大半の職員が全日本プロレスを離脱し、三沢らはプロレスリング・ノアを旗揚げした。その後、日本テレビは全日本プロレス中継を終了し、所持していた全日本プロレス株も手放す。放送枠は『コロッセオ』を経て『プロレスリング・ノア中継』に切り替えた。

残留者による活動、武藤敬司参戦
一方、全日本プロレスに残留したのは、渕、川田利明、和田京平レフェリー、木原文人リングアナ、広報担当社員一人、そして馬場元子の6名となった。なお、後に川田は馬場死去後は全日本には実際にはフリーの立場として上がっていて、専属契約はしていないことを告白している。その他は留学という形での参戦だったマウナケア・モスマン(現・太陽ケア)、当時選挙活動中でプロレス復帰も流動的な馳浩のみだった。2000年(平成12年)に新装となったディファ有明で最初に興行を行ったのは、全日本である。
その後は天龍源一郎の復帰、フリーランス、他団体所属、ジャイアント馬場時代からの常連外国人レスラーの参加により運営を維持していた。また、この時期に川田と渕が新日本プロレスの興行に出場した。翌年の東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初登場。太陽ケアに勝利した後、共闘してBATTを結成。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座を獲得、年末のタッグリーグ戦を制するなど、2001年(平成13年)の日本武道館大会のメインをすべて武藤が務めることになる。

武藤敬司の時代
新日本プロレスを退団した武藤、小島聡、ケンドー・カシン、WWF(現WWE)から移籍したカズ・ハヤシが2002/2/26に入団。同年9/30には武藤が社長に就任した。ちなみに、武藤は当時付き人だった棚橋弘至も誘ったが、断られた。
脱「王道プロレス」から「パッケージプロレス」の浸透
武藤の社長就任直後は、三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、再びオーナーとサラリーマン社長という形での軋轢が生じた。その後、和田京平と渕正信の生え抜き役員が武藤側に回り、和田・渕・川田の三名連名で武藤への株式譲渡懇願書を馬場元子に提出。武藤には無償で株式が譲渡され、馬場元子はオーナーを退き、事務所を六本木から移転。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりで、ジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦し、全日の伝統である「日本人レスラー対外国人レスラー」を受け継ぎつつ、「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに、馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴である。
通常の興行は、橋本真也が率いるZERO-ONEとの対抗戦後、TAKAみちのく率いるRO&Dが参戦。その後、TARU率いるVOODOO-MURDERS、佐々木健介・中嶋勝彦(健介office)や、鈴木みのる、NOSAWA論外、MAZADA、TAKEMURA、再び全日本リングに参戦している高山善廣に太陽ケアを加えたGURENTAIの定期参戦、元大阪プロレスの菊タロー、K-1から曙らの参戦により、新たなファン層の獲得にも成功した。
特別興行では、2002/6/9にA BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!!PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年(平成15年)、2004年(平成16年)にはツアーで開催。2008/12/23に4年ぶりに開催した。また石井和義率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で、2002年(平成14年)11月17日横浜アリーナでプロレス版「Dynamite!」として「WRESTLE-1」を開催、第2弾は2003/1/19に東京ドームで行われた。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。なお、この興行の模様をフジテレビが地上波で放送した。ただし、それは「ボブ・サップのプロレスエンターテインメントショー」と銘打たれ、プロレス中継というよりは、当時人気だったボブ・サップを中心としたバラエティ番組として放送された。2005年(平成17年)には「WRESTLE-1 GP」として開催したが、決勝戦が行われずに興行がストップした。また、ファン感謝デーや近年、毎年6/10に開催される「武藤祭」は非常に好評で、芸能人を使ったF-1タッグ選手権試合など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されている。武藤が司会を務める番組「武藤敬司☆SHOW」で対談した船木誠勝らが興行に関わったり、夏目ナナや吉沢明歩などAV女優によるコラボ興行が行われた。2008年(平成20年)からは毎年、台湾で特別興行を行っている。
また、江崎グリコ・プロダクトマネージャーで、全日本プロレス・コンディショニングコーチの桑原弘樹と武藤本人、ゴールドジム協力によるプロレスラー流のトレーニング方法やサプリメントなどの栄養学を参加者に公開する「武藤塾」を毎年開催しており、年に一度、新人オーディションを開催して見事に合格して入団した選手がいる。近年、多くの選手やスタッフがブログを始めており、試合だけでなくプライベートやイベントの情報も公開している。
日本武道館撤退、地上波TV中継の獲得
かつては全日本プロレスの主要大会と言えば日本武道館大会だったが、資金の関係で2004年(平成16年)2月22日を最後に撤退した。その後は代々木第二体育館に加えて、年1 - 2回、両国国技館でのスペシャル興行「プロレスLOVE in 両国」としてプロレス界では初の試みとなる、複数の企業から出資金を募り一つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催されている。この大会にも協力してもらうサンリオとは業務提携を結んでいる。
2004年(平成16年)4月にはテレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組『プロレスLOVE ?夜のシャイニング・インパクト?』が開始された。2005年(平成17年)3月以降は両国大会のみ放映。2007年(平成19年)4/6より『全日本プロレス マザー』がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜、京都、神奈川で放送されている。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回・土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。

若手レスラーの育成「7番勝負」シリーズ
馬場→三沢が中心だった時代、若手選手に一流レスラーとの対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いからベテランレスラーを相手にした「7番勝負」シリーズが展開され、「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」、「2代目タイガーマスク(三沢)の猛虎7番勝負」等を開催した。上述2名の他、小橋建太(当時健太)・秋山準らもこのシリーズを経験し、スターダムを駆け上がった。このシリーズは後に三沢が主催したプロレスリング・ノアでも行われた。武藤が社長に就いてからも本間朋晃や諏訪間幸平が挑戦している。宮本和志は本間朋晃をパートナーにタッグマッチで挑戦。天龍源一郎は2003年(平成15年)に若手レスラーを鍛える目的のシングル七番勝負を行った。

シリーズ興行名の変更
馬場全日本から定着だったシリーズ興行名が武藤全日本になってから一部で変更されている。単発興行(プロレスLOVEなど)は除く。

1月     「新春ジャイアント・シリーズ」→「新春シャイニング・シリーズ」
2月 - 3月 「エキサイト・シリーズ」
3月 - 4月 「チャンピオン・カーニバル」「ホールドアウト・ツアー」
5月 - 6月 「スーパーパワー・シリーズ」→「ライズアップ・ツアー」、
       「グローイング・アップ」
7月 - 9月 「サマーアクション・シリーズ(パート1・パート2)」→
       「サマーアクション・シリーズ」、「サマー・インパクト」、
       「フラッシング・ツアー」
10月    「ジャイアント・シリーズ」→「シャイニング・シリーズ」
       「アニバーサリー・ツアー」
11月 - 12月「世界最強タッグ決定リーグ戦」

他団体との交流
旗揚げ?2002年まで
全日本プロレス旗揚げ当時、日本プロレスはまだ健在で、参加選手が足りないこともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も1970年代末まで国際プロレスとは交流を持ち、1977年から1978年にかけては、対抗戦形式のシリーズも開催された。
ライバルである新日本プロレスとの交流はほとんど行われず、わずかに東京スポーツ主催の「プロレス夢のオールスター戦」があるだけだった。その後、新日本から離れた長州力らジャパンプロレスと提携して交流を持つも、ジャパンプロレス崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年(平成2年)2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF共催)などの交流があったものの、天龍らの離脱と長州の新日本復帰により、その後は途絶えた。
プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であり、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、FMW以外の団体については、全日本のレスラーが他団体に上がることはほとんど無かった。これらの団体からでも、誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手(垣原賢人、高山善廣、新崎人生、ハヤブサ、邪道・外道ら)だけが出場できた。また、全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。
三沢が社長になってからはより積極的な団体交流を打ち出し、新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らず、三沢らが離脱した後は、選手の穴埋めを図るために、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、武藤、蝶野正洋など新日本の選手、インディペンデントの選手が一気に参戦するようになった。
2003年以降
武藤が社長就任直後から交流していた橋本真也が旗揚げしたZERO-ONEとの全面戦争が勃発。橋本が奪った三冠ベルトの奪還をねらう全日勢などの熱い戦いが繰り広げられた。その後、三冠王者になった川田は、シングルマッチを経験した橋本、小川直也とタッグを結成してハッスルに参戦。2004年(平成16年)にはハッスルのリングで三冠ヘビー級選手権試合が行われた。グレート・ムタ、小島、カズ・ハヤシもスポット参戦した。「KAIENTAI-DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦。外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期から、試合前に前説を行い、以後、他の選手が前説を行う形が定着している。 武藤がTNAとの業務提携のため単身渡米し、お互いの選手派遣、若手選手の交換留学などを実現させている。また、武藤自身が世界中のプロレス団体に参戦するなどして、気に入った選手に直接オファーを出したり、選手から参戦を直訴されることも多くなっている。
全日本を離脱した三沢が社長として旗揚げしたプロレスリング・ノアとは、お互いの方針から交流がなく絶縁とも言われたが、2004年(平成16年)7月には、武藤と三沢のタッグマッチが行われ、試合後に小島が三沢にシングルマッチでの対戦を直訴して、三沢が4年ぶりに古巣に参戦した。その後、10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では、武藤と三沢がタッグを組んだ。武藤の新日本脱退、全日本の社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため、注目された。2005年(平成17年)、フリー宣言した川田がノアに参戦して、プロレスリング・ノア 東京ドーム大会で三沢とシングルマッチを行ったが敗れている。8月、10月には「WRESTLE-1 GP」が開催。全日本からムタ、諏訪間幸平、ノアからは三沢、小川良成、秋山準が参戦したが、両団体の選手が絡むことはなかった。2006年(平成18年)には、健介のデビュー20周年興行に全日本、ノアが協力。健介とのトークで出場した武藤と小島が、試合後に健介とタッグを結成した小橋建太とリング上で握手している。小島は小橋のことを今でも尊敬する人物の一人として挙げている。 2008年(平成20年)に、丸藤正道が参戦して、土方隆司を破って世界ジュニアヘビー級王者になると、近藤修司との試合では、年間最高試合賞を獲得した。2009/2/6のカズ・ハヤシとの選手権試合では、興行史上初めてジュニアヘビー級の選手権試合がメインで行われた。その後、三沢が急逝。小島の呼びかけにより、小橋が古巣に参戦して対戦。その後、三沢追悼興行に武藤が参戦して田上とタッグを結成して小橋&高山組と対戦した。
2003年(平成15年)以降、新日本プロレスとの交流を打ち出すことになるが、これが現在の武藤体制の誘因となっている。
2005年(平成17年)には新日本プロレスの提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になったが、5月に天山に敗れてIWGPヘビー級王座から転落。翌年には新日本プロレスG1 CLIMAX 2006に、5年ぶり7度目の出場をしたが、決勝で天山に敗れて準優勝に終わった。その後、小島と天山は共闘することになり、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では、2003年1月4日以来の「天コジタッグ」を復活させて優勝を果たした。
2007年(平成19年)1月4日の新日本プロレス東京ドーム興行に全面協力することを発表。IWGPヘビー級王座に太陽ケアが挑戦、また三冠ヘビー級王座に新日本の永田が挑戦するタイトルマッチが行われた(双方王座防衛)。また武藤・蝶野 vs 小島・天山という団体の垣根を越えた新旧世代の対決があり、試合後、およそ8年ぶりのタッグを結成して勝利した武藤と蝶野が、闘魂三銃士の同胞だった橋本真也の生前の姿がスクリーンに映されトレードマークだった白い鉢巻を掲げるセレモニーがあった。
2008年(平成20年)1月4日の東京ドーム大会で、グレート・ムタが参戦して後藤洋央紀と対戦。4月には武藤が中邑真輔に勝利してIWGPヘビー級王者になった。7月には欠場中の小島が、新日本のリングに参戦して天山を救出。「天コジタッグ」を復活する形になり、そのままG1に参戦を表明した。8月31日、全日本の興行で初めてIWGPヘビー級選手権試合を開催。王者である武藤がG1 CLIMAX2008優勝者の後藤洋央紀に勝利して防衛に成功。小島と天山はその後、新日本のG1タッグリーグ戦、全日本の世界最強タッグリーグ戦でダブル優勝を果たした。
10月に行われた蝶野のデビュー25周年記念試合で蝶野、武藤、小橋VS中西、小島、秋山のメジャー3団体による豪華なタッグマッチが実現した。
2008年以降、新日本・全日本・ノアの3団体でプロレスラーの共通ライセンスを発行する構想も浮上するなど良好な関係を築いていたが(詳細はプロレスラー#共通ライセンス構想を参照)、2010年6月に全日本が一方的に同構想から離脱したことに新日本・ノアが反発。全日本側は「ライセンス構想と選手の交流は別の話」「鎖国しているわけではないので来る者は拒まず」との姿勢を打ち出しているものの、以後新日本・ノアは態度を硬化させ、特にノアとの交流は一時完全に途絶えた[5]。一方で、関西を地盤とする準メジャー団体のDRAGON GATEとは2011年に、共通の放送局であるGAORAの開局記念番組として「スーパーファイト2011」を開くに至った。
ところが2011年3月に東北地方太平洋沖地震が発生した[6]ため、「被災者へのチャリティー目的などでメジャー団体が一致団結する必要がある」との認識から、新日本・ノアとの関係が改善。同年4月のチャンピオン・カーニバルに新日本から永田裕志、ノアから秋山準が参戦することが決定するなど、両団体との交流が復活した。
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タイトル

全日本プロレスで行われるタイトルマッチやリーグ戦はすべてPWFが認定している。

三冠ヘビー級王座
PWFが管理・認定する全日本プロレスのフラッグシップタイトル。初期は三冠統一王座と称していた。

概要

三冠とは、インターナショナル・ヘビー級王座、UN(ユナイテッド・ナショナル)ヘビー級王座、PWFヘビー級王座を指す。全日本プロレスを象徴する、同団体で最も権威のあるタイトルとされている。

統一直後には、選手権試合宣言にて「NWAが認可し、PWFが認定する三冠統一選手権試合」としていたが、1990年代前半からは、NWAの衰退に伴い、ジャイアント馬場がNWA第一副会長を辞任したことによって認可が解け、「PWFが認定する三冠ヘビー級選手権試合」となった。

三冠ヘビー級チャンピオンは三冠王者とも呼ばれ、これに加え世界タッグ王座(インターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座)を獲得した者は五冠王者と呼ばれる。ちなみに三沢光晴は1999年にアジアタッグ王座を含め六冠王に輝いている。また、2005年に小島聡が三冠王座とともに新日本プロレスの至宝であるIWGPヘビー級王座を獲得した際にも、合わせて四冠王者と呼ばれていた。

2006/10/14、ベルトを管理する全日本プロレスが、ベルト老朽化のため1本のベルトとして新調することを明らかにした。現行のベルトは10/29の福岡大会後に回収し、新しいベルトは2007年2月の両国国技館大会でお披露目となる予定であったが、延期となった模様。

歴史

1988/4/15の大阪大会でインターナショナル・ヘビー級王者であるブルーザー・ブロディとUNヘビー級・PWFヘビー級の二冠王者である天龍源一郎との間で史上初の三冠ヘビー級王座統一戦が行われたが、両者リングアウトで王座の統一は実現しなかった。

ブロディを退けて第18代インターナショナル・ヘビー級王者となったジャンボ鶴田と、天龍を退けて第27代UNヘビー級と第14代PWFヘビー級の二冠王者となったスタン・ハンセンの間で同年10/17広島大会で2度目の王座統一戦が行われたが、引き分けで王座統一は実現せず、翌1989/4/16後楽園ホール大会において再戦が行われたが、またしても決着はつかなかった。長く引っ張った挙句の不透明決着にファンが激怒し、会場が騒然となる事態にまで発展した(これがきっかけで、全日本の試合からリングアウト・反則決着が消えていくことになる)。

二日後の4/18、大田区体育館でジャンボ鶴田とスタン・ハンセンの間で満を持して再々戦が行われた。ウエスタン・ラリアットを避けられロープに激突し、一瞬の隙ができたハンセンを、鶴田が片エビ固めで丸め込みフォール勝ち。かみ合わない試合展開で完全決着とは言えない勝利であったが、初代三冠統一王者となった鶴田は満面の笑みでファンに応えた。

以降、鶴田・ハンセン・天龍などの世代とプロレス四天王世代との抗争を中心に激闘を展開。プロレスリング・ノア設立に伴う選手大量離脱以降は、他団体所属選手とのタイトルマッチも行われるようになり、現在まで全日本プロレスの至宝として継承されている。

歴代王者

以下の表は、2010年10月24日現在の歴代王者の記録をまとめた表である。王者が王座返上した場合は、次のシリーズで王座決定戦によりタイトル移動が行われる。
それ以外は、すべて前王者に勝利してのタイトル移動。

主な記録

  • 最多戴冠記録:5回・・・三沢光晴(10, 14, 17, 20, 23代)、川田利明(12, 18, 21, 28, 32代)
  • 最多連続防衛:10回・・・川田利明(第32代王者時代)
  • 最多通算防衛:21回・・・三沢光晴
  • 最長保持期間:529日・・・川田利明(第32代王者時代)
  • デビュー最短戴冠記録:1年4ヶ月・・・浜亮太(第41代王者時代)

獲得日付 レスラー 戴冠
回数
防衛
回数
初代 1989/4/18
大田区体育館
ジャンボ鶴田
vsスタン・ハンセン
1 1
第2代 1989/6/5
日本武道館
天龍源一郎 1 2
第3代 1989/10/11
横浜文化体育館
ジャンボ鶴田 2 2
第4代 1990/6/5
千葉公園体育館
テリー・ゴディ 1 0
第5代 1990/6/8
日本武道館
スタン・ハンセン 1 0
第6代 1990/7/17
石川県産業展示館
テリー・ゴディ
王座返上
2 0
第7代 1990/7/27
松戸市運動公園体育館
スタン・ハンセン
三沢光晴
2 1
第8代 1991/1/19
松本市総合体育館
ジャンボ鶴田 3 3
第9代 1992/1/28
千葉公園体育館
スタン・ハンセン 3 3
第10代 1992/8/22
日本武道館
三沢光晴 1 7
第11代 1994/7/28
日本武道館
スティーブ・ウィリアムス 1 1
第12代 1994/10/22
日本武道館
川田利明 1 1
第13代 1995/3/4
日本武道館
スタン・ハンセン 4 0
第14代 1995/5/26
札幌中島体育
センター
三沢光晴 2 4
第15代 1996/5/24
札幌中島体育
センター
田上明 1 1
第16代 2011/7/24
日本武道館
小橋健太
(現:小橋建太)
1 2
第17代 1997/1/20
大阪府立体育会館
三沢光晴 3 8
第18代 1998/5/1
東京ドーム
川田利明 2 0
第19代 1998/6/12
日本武道館
小橋健太 2 2
第20代 1998/10/31
日本武道館
三沢光晴 4 0
第21代 1999/1/22
大阪府立体育会館
川田利明
王座返上
3 0
第22代 1999/3/6
日本武道館
ベイダー 1 0
第23代 1999/5/2
東京ドーム
vs田上明 5 2
第24代 1999/10/30
日本武道館
ベイダー 2 1
第25代 2000/2/27
日本武道館
小橋健太
王座返上
3 1
第26代 2011/10/28
日本武道館
天龍源一郎
vs川田利明
2 1
第27代 2001/6/8
日本武道館
武藤敬司 1 4
第28代 2002/2/24
日本武道館
川田利明
王座返上
4 0
第29代 2002/4/13
日本武道館
天龍源一郎
vs武藤敬司
3 1
第30代 2002/10/27
日本武道館
グレート・ムタ 2 1
第31代 2003/2/23
日本武道館
橋本真也
王座返上
1 2
第32代 2011/9/6 川田利明
vs大谷晋二郎
5 10
第33代 2005/2/16
国立代々木競技場
第二体育館
小島聡 1 8
第34代 2006/7/3
大田区体育館
太陽ケア 1 1
第35代 2011/9/3
札幌メディアパーク
・スピカ
鈴木みのる 1 5
第36代 2007/8/26
両国国技館
佐々木健介 1 2
第37代 2008/4/29
愛知県体育館
諏訪魔 1 2
第38代 2008/9/28
横浜文化体育館
グレート・ムタ 3 1
第39代 2009/3/14
両国国技館
高山善廣 1 2
第40代 2009/9/26
横浜文化体育館
小島聡 2 1
第41代 2010/3/21
両国国技館
浜亮太 1 0
第42代 2010/5/2
愛知県体育館
鈴木みのる 2 1
第43代 2010/8/29
両国国技館
諏訪魔 2 1


世界タッグ王座
PWFが管理・認定する全日本プロレスのフラッグシップタイトル。

後述の経緯によって王者チームはそれぞれ2本ずつベルトを所持するため、三冠ヘビー級王座と世界タッグ王座を同時に保持する選手は五冠王者と呼ばれる。

歴史

世界タッグ王座はインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座の統一王座である。1988/6/10にインターナショナル・タッグ王者であるロード・ウォリアーズとPWF世界タッグ王者であるジャンボ鶴田・谷津嘉章組が統一戦を行い、その2日後の6/12にジャイアント馬場はNWAとPWF双方から了解を得て、6/27に統一戦に勝利した鶴田・谷津組を世界タッグ王者とすることを発表。以降、現在まで継承されている。

当初は世界最強タッグ決定リーグ戦の時期になると王座を返上し、優勝したタッグチームが改めて王者になるという形式が取られていたが、1995年以降からは返上するということはなく、全日本プロレスにおけるタッグの至宝といえる存在となっている。

歴代王者

以下の表は、2011年2月6日現在の歴代王者の記録をまとめた表である。王者が王座返上したまたは剥奪された場合は、次のシリーズで王座決定戦によりタイトル移動が行われるか年末の世界最強タッグ決定リーグ戦で王者を決定する。

それ以外は、すべて前王者に勝利してのタイトル移動。

歴史

世界タッグ王座はインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座の統一王座である。1988/6/10にインターナショナル・タッグ王者であるロード・ウォリアーズとPWF世界タッグ王者であるジャンボ鶴田・谷津嘉章組が統一戦を行い、その2日後の6/12にジャイアント馬場はNWAとPWF双方から了解を得て、6/27に統一戦に勝利した鶴田・谷津組を世界タッグ王者とすることを発表。以降、現在まで継承されている。

当初は世界最強タッグ決定リーグ戦の時期になると王座を返上し、優勝したタッグチームが改めて王者になるという形式が取られていたが、1995年以降からは返上するということはなく、全日本プロレスにおけるタッグの至宝といえる存在となっている。

歴代王者

以下の表は、2011/2/6現在の歴代王者の記録をまとめた表である。王者が王座返上したまたは剥奪された場合は、次のシリーズで王座決定戦によりタイトル移動が行われるか年末の世界最強タッグ決定リーグ戦で王者を決定する。

それ以外は、すべて前王者に勝利してのタイトル移動。

歴代数 獲得日付 タッグチーム 防衛
初代 1988/6/10
日本武道館
ジャンボ鶴田&谷津嘉章(五輪コンビ)
vsアニマル・ウォリアー&ホーク・ウォリアー
0
第2代 1988/7/29
高崎市中央
体育館
スタン・ハンセン&テリー・ゴディ
(不沈魚雷)
0
第3代 1988/7/31
函館市千代台
公園陸上競技場
ジャンボ鶴田&谷津嘉章 0
第4代 1988/8/29
日本武道館
天龍源一郎&阿修羅・原
(龍原砲)
0
第5代 1988/8/30
大阪府立体育会館
ジャンボ鶴田&谷津嘉章
王座返上
0
第6代 1988/12/16
日本武道館
スタン・ハンセン&テリー・ゴディ
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
0
第7代 1989/2/2
カンザスシティー
ジャンボ鶴田&谷津嘉章 7
第8代 1989/7/11
札幌中島体育センター
天龍源一郎&スタン・ハンセン 0
第9代 1989/7/22
石川県産業展示館
ジャンボ鶴田&谷津嘉章 1
第10代 1989/10/20
愛知県体育館
天龍源一郎&スタン・ハンセン
王座返上
0
第11代 1989/12/6
日本武道館
天龍源一郎&スタン・ハンセン
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
0
第12代 1990/3/6
日本武道館
テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス
(殺人魚雷)
1
第13代 1990/7/19
武生市体育館
ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキ
王座返上
0
第14代 1990/12/7
日本武道館
テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
2
第15代 1991/4/18
日本武道館
スタン・ハンセン&ダニー・スパイビー 2
第16代 1991/7/6
横須賀市総合体育館
テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 0
第17代 1991/7/24
石川県産業展示館
三沢光晴&川田利明
王座返上
1
第18代 1991/12/6
日本武道館
テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
0
第19代 1992/3/4
日本武道館
ジャンボ鶴田&田上明
王座返上
2
第20代 1992/12/4
日本武道館
三沢光晴&川田利明
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
0
第21代 1993/1/30
千葉県体育館
テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 0
第22代 1993/5/20
札幌中島体育センター
川田利明&田上明(KT) 2
第23代 1993/9/3
日本武道館
スタン・ハンセン&テッド・デビアス 1
第24代 1993/12/3
日本武道館
三沢光晴&小橋健太
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝、王座返上
2
第25代 1994/12/10 三沢光晴&小橋健太
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
2
第26代 1995/6/9
日本武道館
川田利明&田上明 3
第27代 1996/1/24
松本市総合体育館
スタン・ハンセン&ゲーリー・オブライト 0
第28代 1996/2/20
岩手県営体育館
川田利明&田上明 0
第29代 1996/5/23
札幌中島体育センター
三沢光晴&秋山準 2
第30代 1996/9/5
日本武道館
スティーブ・ウィリアムス&ジョニー・エース 1
第31代 1997/1/17
松本市総合体育館
川田利明&田上明 1
第32代 1997/5/27
札幌中島体育センター
小橋健太&ジョニー・エース 0
第33代 1997/7/25
日本武道館
スティーブ・ウィリアムス&ゲーリー・オブライト 1
第34代 1997/10/4
愛知県体育館
小橋健太&ジョニー・エース 0
第35代 1998/1/25
横浜文化体育館
川田利明&田上明 4
第36代 1999/1/7
高知県民体育館
小橋健太&秋山準 1
第37代 1999/6/9
宮城県スポーツセンター
ジョニー・エース&バート・ガン 0
第38代 1999/7/23
日本武道館
大森隆男&高山善廣(NO FEAR) 0
第39代 1999/8/25
広島市東区スポーツセンター
三沢光晴&小川良成 0
第40代 1999/10/23
愛知県体育館
小橋健太&秋山準 2
第41代 2000/2/20
神戸ワールド記念ホール
ベイダー&スティーブ・ウィリアムス
王座返上
0
第42代 2000/6/9
日本武道館
川田利明&田上明
vs大森隆男&高山善廣、王座返上
0
第43代 2001/1/14
後楽園ホール
太陽ケア&ジョニー・スミス
vs川田利明&渕正信
3
第44代 2001/7/14
日本武道館
天龍源一郎&安生洋二 2
第45代 2001/10/22
新潟市体育館
武藤敬司&太陽ケア 2
第46代 2002/7/17
大阪府立体育会館
ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク
(KroniK)王座返上
1
第47代 2002/12/6
日本武道館
小島聡&太陽ケア
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
0
第48代 2003/6/8
横浜文化体育館
武藤敬司&嵐 5
第49代 2004/1/18
大阪府立体育会館
小島聡&カズ・ハヤシ(コジカズ) 1
第50代 2004/6/12
愛知県体育館
永田裕志&ケンドー・カシン
王座剥奪
0
第51代 2005/1/16
大阪府立体育会館
太陽ケア&ジャマール
vs吉江豊&棚橋弘至、王座返上
3
第52代 2007/2/17
両国国技館
川田利明&太陽ケア
vs諏訪魔&RO'Z
1
第53代 2007/8/26
両国国技館
小島聡&TARU 0
第54代 2008/1/3
後楽園ホール
武藤敬司&ジョー・ドーリング 1
第55代 2008/6/28
大阪府立体育会館
太陽ケア&鈴木みのる 4
第56代 2010/1/3
後楽園ホール
武藤敬司&船木誠勝
王座返上
0
第57代 2010/7/4
大阪府立体育会館
太陽ケア&曙
vs諏訪魔&浜亮太との決定戦
3
第58代 2011/2/6
後楽園ホール
KONO&ジョー・ドーリング -

世界タッグベルト返還請求訴訟


経緯
2004/6/12に行われた世界タッグ選手権で、ケンドー・カシンと永田裕志(新日本プロレス)が世界タッグベルトを獲得。カシンは試合後に「このベルトは封印する」と宣言し、その言葉通り半年間防衛戦を行わなかった。
カシンは全日本プロレス側より王者を剥奪されたが、ベルトを返還しなかった。その後、全日本プロレスが世界タッグベルトの返還を求める際に、誠意を持った対応をせずに「ベルトの写真撮影のためにベルトを貸してほしい」などの発言をしたため、カシンにとって王者としてのプライドを傷つけられた結果となり、また「貸してほしい」とカシン自身に所有権を認めたかのような発言を全日本プロレス側が行い、その後カシンは全日本プロレスとの連絡を一切取らないようになった為、全日本プロレスは2005年8月2日付で東京地裁に民事訴訟を起こした。
初公判
2005/10/5、東京地裁513法廷で行われた。
初公判において全日本プロレス側は訴状でと前提として「選手契約を結んでいた被告と」した。しかし実際には全日本プロレスの以下のような独特の契約体制、ベルト管理体制が明らかになり、結果として訴状自体の効力が問題視された。
  • 全日本プロレスの選手契約は口約束のため、契約書などが存在しない(これはジャイアント馬場の生前からのもので、外国人レスラーの間では「馬場が『わかった』と言えばどんな契約書より信用できる」といわれていた)。
  • 「ベルトは全日本の由緒正しい所有物。団体側に所有権があり、王者には預託しただけ」
独特の選手契約もさることながら、そもそも全日本プロレス世界タッグ選手権を「勝利」したはずのレスラーにベルトの所有権がなく、王者に預託しただけという発言はプロレスビジネスを知らない人間にはわかりにくい理屈ともいえる。初公判の席上、裁判長は主に以下の2点について全日本プロレス側に質問をした。
  • (1)全日本プロレスの所有物であるならば、そもそもどういう経緯で手に入れたのか
  • (2)王者になるという事とベルトを占有する事に違いはあるのか
「(2)王者になるという事とベルトを占有する事に違いはあるのか」ということについては、防衛を重ねた名王者がチャンピオンベルトの個人所有を許されるというプロレス・ボクシング共通の習慣が存在する(すなわち、1回獲得した程度では所有は許されない)。また、個人所有を認める場合でも、王座の象徴としてのチャンピオンベルトは団体が新製し所有するのが普通である。
東京スポーツ証拠資料提出
全日本プロレス側の弁護士が、カシン被告の全日本プロレスに対する無礼な言動を示す証拠として提出したのが「東京スポーツ」だった。この証拠を提出された裁判長は以下のようにコメントし、証拠を却下した。
「これはベスト・エビデンス(証拠)にはならない。次は、ちゃんとした資料を出してください」

※全日が東スポを証拠として出した理由は、石澤は不定期の人生相談コーナーを持つなど東スポ誌面に数多く登場しており、石澤が問題のベルトを所持していること、全日本を中傷する言動を繰り返していること等が書かれてあったからである。また、プロレスを詳細に報道する日刊紙はそもそも東京スポーツぐらいしか存在しない。

顛末
全日本プロレスは早期和解を求めたが、カシン側は「ベルト獲得後に全日本プロレスに試合を組んでもらえなかったことが原因」とし、あくまでもリング上での決着を求めたため物別れに終わった。
そんな中、あくまで自分の主張を譲らないカシンの行動についていけなくなったカシン側の弁護士がカシンの弁護を辞退するという事態になり、手詰まりになったカシン被告は2006年4月末に着払いでベルトを返還したと報道されているが、なぜか全日本プロレスの公式発表は一切ない。

世界ジュニアヘビー級王座
日本のプロレス団体である全日本プロレスにおける、ジュニアヘビー級のフラッグシップタイトルである。

PWFが管理・認定するジュニアヘビー級王座である。体重リミットは105kgであるため、ヘビー級戦線で活躍するレスラーもベルトを巻くことが多い。

封印された『NWA認定インターナショナル・ジュニアヘビー級王座』を引き継いだものである。名称が類似する『NWA世界ジュニアヘビー級王座』とは、直接の関係はない。ここではこのインターナショナル・ジュニアヘビー級王座についても解説する。
戴冠年月日 選手名 戴冠
回数
防衛
回数
初代 1986/7/31
両国国技館
ヒロ斎藤 1 3
第2代 1986/11/23
後楽園ホール
小林邦昭 1 1
第3代 1987/1/3
後楽園ホール
渕正信 1 7
第4代 1989/1/20
福岡国際センター
ジョー・マレンコ 1 0
第5代 1989/1/25
大阪府立体育会館
マイティ井上 1 2
第6代 1989/3/8
日本武道館
渕正信 2 1
第7代 1989/4/16
後楽園ホール
仲野信市 1 0
第8代 1989/4/20
大阪府立体育会館
百田光雄 1 2
第9代 1989/7/1
大宮市民体育館
ジョー・マレンコ 2 2
第10代 1989/10/20
愛知県体育館
渕正信 3 14
第11代 1993/5/21
札幌中島体育
センター
ダニー・クロファット 1 0
第12代 1993/8/23
静岡産業館
渕正信 4 2
第13代 1994/7/12
鹿児島アリーナ
ダニー・クロファット 2 5
第14代 1995/9/10
日本武道館
小川良成 1 4
第15代 1996/6/30
後楽園ホール
渕正信 5 0
第16代 1996/7/24
日本武道館
菊地毅 1 2
第17代 1997/1/15
後楽園ホール
小川良成 2 1
第18代 1997/8/22
後楽園ホール
マウナケア・モスマン 1 3
第19代 1998/7/19
新潟市体育館
小川良成 3 5
第20代 2002/4/13
日本武道館
ケンドー・カシン 1 8
第21代 2004/2/22
日本武道館
カズ・ハヤシ 1 6
第22代 2005/1/10
後楽園ホール
TAKAみちのく 1 12
第23代 2005/10/22
後楽園ホール
近藤修司 1 5
第24代 2007/2/17
両国国技館
中嶋勝彦 1 3
第25代 2008/3/1
両国国技館
シルバー・キング 1 0
第26代 2008/4/29
愛知県体育館
土方隆司 1 3
第27代 2008/9/28
横浜文化体育館
丸藤正道 1 4
第28代 2009/2/6
後楽園ホール
カズ・ハヤシ 2 17
第29代 2011/1/2
後楽園ホール
1 -

インターナショナル・ジュニアヘビー級王座

世界ジュニアヘビー級王座の基となったインターナショナル・ジュニアヘビー級王座は、当初、『NWA認定世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権』と呼称され、元々は新日本プロレスの藤波辰巳が、1980年2月にスティーブ・カーンとのダブルタイトルマッチを制して王座を奪取したのをきっかけに、日本に定着したものである。当時、『NWA世界ジュニアヘビー級選手権』は、オクラホマ州のプロモーターであったレロイ・マクガークに管理が一任されていたため、マクガークの興行テリトリー以外ではタイトルマッチが中々組めない状況であった上、マクガークによる王座の専有が問題とされていた。そのため、新日本プロレスを始めとする一部のプロモーターたち(WWFのビンス・マクマホン、フロリダのエディ・グラハム、ロサンゼルスのマイク・ラベールら当時のNWAの反主流派プロモーター)が連携し、世界ジュニアヘビー級王座と同等のタイトルを作ろうと画策した事により、このインターナショナル王座は誕生した。

後にこの王座に就いた木村健吾がチャボ・ゲレロにタイトルを明け渡し 、そのチャボから大仁田厚が同タイトルを奪取したことで、今度は全日本プロレスに定着、王座の管理も全日本が実施するようになった。これは作為的にも全日本に取って願ったり叶ったりの結末となっている。しかし、1982年7月の大仁田対チャボの同選手権試合で、チャボが放ったジャーマンスープレックス・ホールドについて「両者体固め」という裁定が下ったことから紛糾、タイトルはNWA本部預かりに。直後の同年8月に行われたプエルトリコ・サンファンでのNWA総会において「NWAは管理の杜撰な現在のジュニア王座を破棄し、新たに『インターナショナル・ジュニアヘビー級選手権』を設ける。この新王座の管理は、全日本プロレスに一任する」(総会に出席したジャイアント馬場談)といった決定がなされる。ところが同じ時期に、既に新日本プロレスでタイガーマスク(初代)が『NWA世界ジュニアヘビー級選手権』をレス・ソントンから奪取し、王者として防衛活動を行っていたため、物議を醸すこととなり、後日「ワールドプロレスリング」で古舘伊知郎が「NWAの議事録」という書類を片手に「タイガーマスクはNWAのメンバーにもその実力が高く評価されており、NWAが認める唯一の『世界ジュニアヘビー級王者』はタイガーマスクである」との説明を行った。結局これは、全日本が「NWA世界ジュニアヘビー級選手権」の存在も“容認”するという形で落着した。その一方、新装なった『NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級選手権』は、NWAの指令により、大仁田とチャボとの間での「三番勝負」で王座決定戦が行われ、これを勝ち抜いた大仁田が新王座を獲得している。

その後、王者であった大仁田が怪我のため王座を返上。空位となった王座をトーナメント戦で制したチャボが再び王座に返り咲き、その後マイティ井上~ダイナマイト・キッド~小林邦昭と王座が移動し、小林を破ったタイガーマスク(二代目)がヘビー級転向のため王座を返上し、そのまま王座は封印された後、『世界ジュニアヘビー級選手権』として生まれ変わる事になる。

なお、現在ZERO1にて同名の王座が存在しているが、上記王座の復活や継承ではなく、全くの別王座である。


アジアタッグ王座
PWFが管理・認定する全日本プロレスのフラッグシップタイトル。正式名称はオールアジアタッグ選手権。

歴史

1955年11月に日本プロレスがアジアのシングル・タッグ両王者を決定するためのアジア選手権を開催し、そのタッグ部門で優勝したキング・コング&タイガー・ジョキンダー組をアジアタッグ王者として認定したのが始まりである。力道山&豊登組が3代目の王者になって以来、日本プロレスの看板タッグタイトルとして幾多の名勝負が繰り広げられたが、インターナショナル・タッグ王座が日本に持ち込まれると二番手に降格された。とはいえ日本プロレス時代の挑戦者チームには、ドリー・ファンク・ジュニア&ハーリー・レイス、ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン(ミネソタ・レッキング・クルー)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&カリプス・ハリケーン、クリス・マルコフ&ブル・ラモス、ジン・キニスキー&キラー・カール・コックスなどの強力チームが名を連ねている。

当初は王者に授与されるのはベルトではなく、トロフィーだった。

日本プロレス崩壊後は他のタイトルとともに全日本プロレスに受け継がれたが、全日本側は崩壊当時の王者チームであるグレート小鹿&松岡巌鉄組に防衛戦をさせる気がなく、一時的に王座は休眠状態となる。1976年に新日本プロレスが「アジア王者がいないのはおかしい」とアジアヘビー・アジアタッグの王座創設を発表したのに伴い、それに対抗して日本・全日本版アジアタッグ王座の復活が決定し、現在に至るまで受け継がれている。この時の復活王者はグレート小鹿&大熊元司の極道コンビで若手・中堅用のタイトルという性格になり、現在にいたって主力レスラーへの登龍門化している。もう1つのタッグ王座である世界タッグ王座と比較すると軽視されがちであるが、50年以上の歴史を持つ、日本最古のベルトである。

なお、アジア選手権のシングルの王者が認定された「アジアヘビー級王座」も同様に力道山によって創設され、日本プロレスから全日本プロレスに受け継がれた。しかし、1977年に当時の王者・大木金太郎が馬場とのタイトル戦に敗れた際に、新王者馬場がタイトルの封印を宣言。1981年に大木が当時所持していたインターナショナル・ヘビー級王座を返上する代替として、このアジアヘビー級選手権の返還を受け、そのベルトを所持したまま大木が引退したため、現在ではタイトルマッチ自体が行われていない。

新日本が創設を宣言したアジア王座は、初代ヘビー級王者がタイガー・ジェット・シン、初代タッグ王者が坂口征二&ストロング小林と認定されたが、すぐに休眠状態に入り、消滅した。なお、どういうわけかアントニオ猪木はアジアヘビー級のリーグ戦に参加せず、シンを相手にNWFヘビー級選手権をやったりしている。
(因みに新日本は、IWGP第1回大会が行われる直前に、「世界統一の前にアジア統一を」と、IWGPの下部王座という形での、新日本版アジア王座の復活構想をぶち上げたことがあった。ゆくゆくは全日本版のアジア王座との統一も狙うとしていたが、この構想は何時の間にか立ち消えとなった)

ジャイアント馬場が出場した最後のタイトルマッチが、1989/3/27に小橋健太と組み、川田利明&サムソン冬木に挑戦した、このアジア・タッグ選手権だった。なお、馬場が初めて奪取したタイトルも、豊登と組んでのアジア・タッグ選手権である。

戴冠年.月.日 タッグチーム 防衛
回数
初代 1955/11/16
蔵前国技館
キング・コング、タイガー・ジョキンダー 0
第2代 1960/6/2
大阪府立体育会館
フランク・バロア、ダン・ミラー 0
第3代 1960/6/7
名古屋市金山体育館
力道山、豊登 12
第4代 1962/2/3
両国日大講堂
ルター・レンジ、リッキー・ワルドー 0
第5代 1960/2/15
両国日大講堂
力道山、豊登 0
第6代 1960/6/4
大阪府立体育会館
バディ・オースチン、マイク・シャープ 1
第7代 1960/7/1
豊中市大門公園
力道山、豊登 2
第8代 1963/5/6
札幌
力道山、豊登 6
第9代 1964/2/20
名古屋市金山体育館
豊登、吉村道明 1
第10代 1964/5/14
横浜文化体育館
ジン・キニスキー、カリプス・ハリケーン 0
第11代 1964/5/29
札幌中島体育
センター
豊登、ジャイアント馬場 7
第12代 1965/6/3
札幌中島体育
センター
ザ・デストロイヤー、ビリー・レッド・ライオン 1
第13代 1965/7/15
駿府会館
豊登、ジャイアント馬場 3
第14代 1966/5/23
宮城県営スポーツ
センター
キラー・カール・コックス、ジョー・カロロ 0
第15代 1966/5/26
札幌中島体育
センター
吉村道明、ヒロ・マツダ 1
第16代 1966/6/27
名古屋市金山体育館
キラー・カール・コックス、エディ・グラハム 1
第17代 1966/7/1
広島県営体育館
吉村道明、ジャイアント馬場 4
第18代 1966/12/3
日本武道館
吉村道明、大木金太郎 4
第19代 1967/5/26
札幌中島体育
センター
吉村道明、アントニオ猪木 3
第20代 1968/1/6
大阪府立体育会館
吉村道明、大木金太郎 0
第21代 1968/7/8
東京スタジアム
スカル・マーフィー、クロンダイク・ビル 0
第22代 1968/7/30
札幌中島体育
センター
吉村道明、大木金太郎 4
第23代 1969/2/3
札幌中島体育
センター
大木金太郎、アントニオ猪木 2
第24代 1969/8/9
愛知県体育館
吉村道明、アントニオ猪木 3
第25代 1969/10/30
岐阜市民センター
吉村道明、アントニオ猪木 15
第26代 1971/12/12
東京体育館
吉村道明、坂口征二 9
第27代 1973/3/3
近大記念会館
グレート小鹿、松岡巌鉄 1
第28代 1976/3/26
ソウル特別市文化
体育館
グレート小鹿、大熊元司(極道コンビ) 3
第29代 1976/10/2
後楽園ホール
ジェリー・オーツ、テッド・オーツ 0
第30代 1976/10/21 高千穂明久、サムソン・クツワダ 2
第31代 1977/6/16
後楽園ホール
グレート小鹿、大熊元司(極道コンビ) 2
第32代 1977/11/6
後楽園ホール
マイティ井上、アニマル浜口(国際プロレス) 4
第33代 1978/2/22
岐阜市民センター
グレート小鹿、大熊元司(極道コンビ) 0
第34代 1979/5/31
能代市体育館
グレート小鹿、大熊元司(極道コンビ) 6
第35代 1981/5/23
後楽園ホール
ケビン・フォン・エリック、デビッド・フォン・エリック 0
第36代 1981/6/11
後楽園ホール
佐藤昭雄、石川隆士 5
第37代 1983/2/23
大阪臨海スポーツ
センター
マイティ井上、阿修羅・原 7
第38代 1984/2/16
長崎国際体育館
阿修羅・原、石川隆士 2
第39代 1985/4/15
長崎国際体育館
佐藤昭雄、石川隆士 0
第40代 1985/7/18
後楽園ホール
アニマル浜口、寺西勇 0
第41代 1985/7/18
認定
寺西勇、保永昇男 1
第42代 1985/10/31
鶴岡市体育館
マイティ井上、石川隆士 2
第43代 1986/10/30
青森県営体育館
阿修羅・原、スーパー・ストロング・マシーン 0
第44代 1987/7/30
東村山市民
スポーツセンター
マイティ井上、石川隆士組 2
第45代 1988/3/9
横浜文化体育館
サムソン冬木、川田利明(フットルース) 2
第46代 1988/9/9
千葉公園体育館
仲野信市、高野俊二 0
第47代 1988/9/15
後楽園ホール
サムソン冬木、川田利明(フットルース) 3
第48代 1989/6/5
日本武道館
ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット
(カンナム・エキスプレス)
2
第49代 1989/10/20
愛知県体育館
サムソン冬木、川田利明(フットルース) 1
第50代 1990/3/2
露橋スポーツ
センター
ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット
(カンナム・エキスプレス)
1
第51代 1990/4/9
岡山武道館
タイガーマスク(三沢光晴)、小橋健太 1
第52代 1990/6/5
千葉公園体育館
仲野信市、田上明 0
第53代 1990/9/7
福井市体育館
小橋健太、ジョニー・エース 1
第54代 1991/4/6
大阪府立体育会館
ダイナマイト・キッド、ジョニー・スミス
(ブリティッシュ・ブルドッグス)
0
第55代 1991/4/20
後楽園ホール
ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット 2
第56代 1991/7/8
大阪府立体育会館
第2競技場
小橋健太、ジョニー・エース 0
第57代 1991/7/18
後楽園ホール
ジョー・ディートン、ビリー・ブラック 0
第58代 1991/7/26
松戸市運動公園
体育館
ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット 4
第59代 1992/5/25
宮城県スポーツ
センター
小橋健太、菊地毅 3
第60代 1993/6/2
小山ゆうえんち
スケートセンター
パトリオット、ジ・イーグル 1
第61代 1993/9/9
大宮市民体育館
ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット 4
第62代 1995/1/29
後楽園ホール
秋山準、大森隆男 12
第63代 1998/1/9
鹿児島県立体育館
ウルフ・ホークフィールド、ジョニー・スミス 2
第64代 1998/10/6
新潟市体育館
本田多聞、泉田純 1
第65代 1999/2/13
後楽園ホール
ハヤブサ(FMW)、新崎人生(みちのくプロレス) 1
第66代 1999/6/4
札幌中島体育
センター
大森隆男、高山善廣(NO FEAR) 0
第67代 1999/8/25
広島市東区
スポーツセンター
三沢光晴、小川良成 0
第68代 1999/10/25
長岡市厚生会館
本田多聞、井上雅央 3
第69代 2001/6/8
日本武道館
垣原賢人、長井満也 0
第70代 2001/9/8
日本武道館
嵐、北原光騎 0
第71代 2001/4/13
日本武道館
嵐、荒谷信孝 3
第72代 2003/7/29
日本武道館
佐藤耕平、横井宏考(ZERO-ONE) 2
第73代 2003/10/10
後楽園ホール
金村キンタロー、黒田哲広(冬木軍プロモーション) 0
第74代 2003/12/25
後楽園ホール
ミスター雁之助、黒田哲広(冬木軍プロモーション) 0
第75代 2004/1/2
後楽園ホール
グレート・コスケ、獅龍 0
第76代 2004/5/22
後楽園ホール
天龍源一郎、渕正信 3
第77代 2004/11/3
両国国技館
長井満也、成瀬昌由(新日本プロレス) 2
第78代 2005/2/2
後楽園ホール
ブキャナン、リコ 0
第79代 2005/6/19
後楽園ホール
近藤修司、"brother"YASSHI(dragondoor) 1
第80代 2005/7/20
国立代々木競技場
第二体育館
佐々木健介、中嶋勝彦(健介office) 4
第81代 2009/1/3
後楽園ホール
鈴木みのる、NOSAWA論外 2
第82代 2009/9/23
後楽園ホール
曙、浜亮太(SMOP) 3
第83代 2010/4/29
後楽園ホール
TARU、ビッグ・ダディ・ブードゥー 1
第84代 2010/8/29
両国国技館
真田聖也、征矢学(es) 2
第85代 2011/3/21
両国国技館
関本大介、岡林裕二(大日本プロレス) -

F-1タッグ選手権
プロレス団体である全日本プロレスに存在するニセモノのタイトルである。F-1の「F」は「FAKE(ニセモノ)」の頭文字。認定団体はPWFとなっているが、「Pacific Wrestling Funclub」の略である。ファン感謝デーや武藤祭などの、お笑いを融合したバラエティー色の強い大会のみに選手権が行われる。年に2, 3回程度行う計画がある。

概要

2006/3/21に行われたファン感謝デーにて、「武藤敬司&神奈月vs小島聡&イジリー岡田(三沢光晴のモノマネ)」といった、初めてプロレスラーとお笑い芸人を混ぜたタッグ試合が組まれたことが始まりである。全日本プロレスの武藤社長が今後も継続していくことを明らかにし、より大会を充実させるためタイトルの設立に取り掛かった。

ルールは、プロレスラーとタレントがタッグを組むということ以外は特になく、試合に関してはプロレスそのものである。選手権では「菊サン・ハンセン」(スタン・ハンセンのモノマネをした菊タロー)が立会人をしている。試合の特徴として、タレントが持ちネタを披露することと、レスラーをいじることが多い。


獲得日付 タッグチーム 防衛
回数
初代 2006/12/15
後楽園ホール
武藤敬司/神奈月
vs天山広吉&原口あきまさ
8
第2代 2010/12/12
後楽園ホール
浜亮太/長州小力 -

第一戦 「ファン感謝デー」
2006/12/15 後楽園ホール
  • 武藤敬司&神奈月 vs 天山広吉&原口あきまさ(蝶野正洋のモノマネ)
    神奈月が原口へシャイニングウィザードからの体固めで勝利。
    武藤、神奈月組が初代F-1タッグ王座に。

第二戦 「武藤祭」
2007/6/10 後楽園ホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>渕正信&上島竜兵(大仁田厚のモノマネ)w:肥後克広、寺門ジモン
     神奈月が上島を足4の字固めで捕獲したところに、武藤が熱々おでん、
    渕が蒸しタオルを上島の顔に乗せギブアップ。
    武藤、神奈月組が防衛に成功。

第三戦 「ファン感謝デー」
2007/12/16 後楽園ホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>佐々木健介&ザ・たっち(健介&北斗のモノマネ)w:北斗晶
    神奈月がコーナートップからのムーンサルトプレス(武藤と健介の補助付き)
    でたっちを2人まとめてフォール。武藤、神奈月組が防衛に成功。

第四戦 「ファン感謝デーin大阪」
2008/1/26 大阪府立体育会館第2競技場
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>鈴木みのる&アントニオ小猪木
    神奈月が小猪木へシャイニングウィザードからの体固めで勝利。
    武藤、神奈月組が防衛に成功。

第五戦 「武藤祭」
2008/6/10 後楽園ホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>曙&はなわ(武蔵丸のモノマネ)
    神奈月がはなわを相撲で倒した後、「相撲ルパッケージホールド」で
    フォール。武藤、神奈月組が防衛に成功。
第六戦 「ファン感謝デー」
2008/12/14 後楽園ホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>神取忍&前田健(松浦亜弥のモノマネ)w:古賀シュウ(神取のモノマネ)
    金的攻撃ありの特別ルール。神奈月が前田へシャイニングウィザードから
    の体固めで勝利。武藤、神奈月組が防衛に成功。

第七戦 「ファン感謝デーin関西」
2009/1/25 兵庫・神戸サンボーホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>渕正信(二代目タイガーマスクのものまね)&イジリー岡田(三沢光晴のモノマネ)
    武藤がイジリーへの顔面固めで勝利。武藤、神奈月組が防衛に成功。

第八戦 「武藤祭」
2009/6/10 後楽園ホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>西村修&ユリオカ超特Q(藤波辰爾のモノマネ)&グラップラーたかし(アントニオ猪木のモノマネ)
    2対3のハンディキャップマッチ。神奈月がグラップラーたかしへリキラリアット
    からの片エビ固めでフォール。武藤、神奈月組が防衛に成功。

第九戦 「ファン感謝デー」
2009/12/13 後楽園ホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>越中詩郎&ケンドーコバヤシ(越中のモノマネ)
    ファンの要望が多かった「ダブル越中」組が満を持して登場。越中が神奈月
    の尻芸の挑発に応え、赤フン姿を披露するサプライズがあった。
    最後は神奈月がケンコバへシャイニングウィザードからの体固めで
    フォール。武藤、神奈月組が防衛に成功。
第十戦 「ファン感謝デー」
2010/12/12 後楽園ホール
  • <チャンピオン>武藤敬司&神奈月 vs <挑戦者>浜亮太&長州小力(長州力のモノマネ)
    2010年は武藤の負傷欠場のため武藤祭が無く、1年ぶりのタイトル戦。
    全日本初登場となる小力と「焼豚力(ちゃーしゅーりき)」に扮した浜の
    「ダブル長州」組が挑戦した。最後は小力が神奈月を小力ラリアットからの
    体固めでフォール。浜、小力組が第2代F-1タッグ王座に。

ものまねプロレス祭「まねんのか!」

一連のものまねプロレスが好評を博したため、2008/8/7にはものまねプロレスだけの興行「まねんのか!」が後楽園ホールにて行われた。武藤敬司をコミッショナーに迎え、プロレスを愛するお笑い芸人が一挙集結し、大いに盛り上がりを見せた。この成功を受け、2009/8/31には第2回興行が開催された。各回の主な試合は次の通り。

第1回

ものまねプロレスバトルロイヤル
10人の芸人が「細かすぎるプロレスものまね」を順番に披露し、審査員である武藤が不合格を出すと脱落となる。アントニオ猪木に扮したグラップラーたかしが優勝。しかし、彼は見た目は猪木のものまねをしているのにもかかわらず、ほとんどが前田日明のネタであった。
キン肉マン生誕29(にく)周年記念スペシャルタッグマッチ
    キン肉マン(お宮の松)&テリーマン(おかゆ太郎) vs
     アシュラマン(ハリウッドザコシショウ)&ザ・サンシャイン
    (はなわ、大和ヒロシ)
    キン肉マン屈指の名勝負をものまねで再現。作者であるゆでたまごの
    嶋田隆司も来場した。
メインまねんのか! 旧新日本軍vs旧全日本軍
    武藤敬司(神奈月)&蝶野正洋(原口あきまさ)&佐々木健介 w:北斗晶
    (ザ・たっち) vs ジャンボ鶴田(肥後克広)&大仁田厚(上島竜兵)&
    三沢光晴(イジリー岡田)w:寺門ジモンF-1タッグの総決算ともいえる試合。    冒頭ではアントニオ猪木に扮した春一番が挨拶を行い、
    レフェリーの和田京平も山本高広のモノマネや皆と混じって上島に
    ストンピングをするなどのネタを披露した。たっちが途中から橋本真也に
    扮したため、ものまねながら闘魂三銃士が復活する一幕も。
    試合はまたも熱々おでん攻撃により、上島がフォールを奪われた。

第2回

リアクションハードコアマッチ
    大仁田厚(上島竜兵)&タイガー・ジェット・シン(ノッチ)&テリー・ファンク
    (安田和博) vs ザ・シーク(団長)&アブドーラ・ザ・ブッチャー(HIRO)&
    ジャイアント・キマラ(クロちゃん)
    上島&デンジャラスの「上島大サーカス」と「安田大サーカス」の対戦。
    リアクション芸・ふんどし芸満載の試合となった。上島と団長のふんどしの
    引っ張り合いから、上島が痛がってダウンしたところへHIROが
    毒針エルボーを落として勝利。
新日本ドリームマッチ! ハセケン vs 闘魂三銃士
    馳浩(神奈月)&佐々木健介(ザ・たっちたくや) vs
     蝶野正洋(原口あきまさ)&橋本真也(ザ・たっちかずや)
    新日本を彩った名タッグと三銃士の闘い…のはずなのだが、
    たっちが両サイドに分かれているため妙な雰囲気の対戦に。
    大ものまね大会を繰り広げたのち、神奈月と原口がそれぞれたっちを
    フォール。
メーンまねんのか! あの名勝負をもう一度! 1/10のスケール再現マッチ
    ジャンボ鶴田(肥後克広) vs 三沢光晴(イジリー岡田)
    ものまねながら、1990/6/8の日本武道館での鶴田vs三沢戦を再現。
    当時と同じく若林健治アナウンサーの実況付きで、レフェリーも
     和田京平が務めた。イジリーが肥後のバックドロップを切り返して
    片エビ固めで勝利。試合内容こそイジリーの高速べロ攻撃などギャグを
    多分に交えたものだったが、2009/6/13に三沢が急逝したばかりでの
    試合であり、試合後のイジリーは感極まった様子であった。

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リーグ戦と覇者
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チャンピオン・カーニバル
全日本プロレスが「春の祭典」として毎年春に行っている総当たりリーグ戦またはトーナメント戦である。略称はチャンカーCC。誤りではあるが語呂のよさからチャンカンと略されることもある。近年は、毎週中継を行うGAORAの協賛を得て「GAORAスペシャル・チャンピオン・カーニバル」と称されている。(2007年・2008年は一部撮って出し=放送ではニアーライブと呼称=の中継日がある)

チャンピオン・カーニバル特集 1973-1982 / 1991-2000 / 2001-2010

世界最強タッグ決定リーグ戦
1978年12月から、「世界最強のタッグチームを決定する」と銘打って毎年年末に全日本プロレスが行っている総当りリーグ戦である。

世界最強タッグの歴史
世界最強タッグ列伝ビデオ紹介

ジュニア・ヘビー級リーグ戦
全日本プロレスで1シリーズを通して開催されている、ジュニアヘビー級選手による大会である。毎年6月シリーズに行われる。2006年から開始されている。なお、2003年にも同様のリーグ戦が行われたが、あくまでチャンピオン・カーニバルのジュニア・ヘビー級部門としての位置づけであり、開催されたのもチャンピオン・カーニバルのシリーズ内であった。

新日本プロレスで開催されているベスト・オブ・ザ・スーパージュニアと競合する大会であり、開催時期も競合させている。

2006年大会

参加人数8人

[Aブロック]
  • カズ・ハヤシ 6点 ※優勝
  • TAKAみちのく 4点
  • 土方隆司 2点
  • "brother"YASSHI 0点


[Bブロック]
  • 中嶋勝彦 5点 ※準優勝
  • MAZADA 1点
  • 竹村豪氏 4点
  • ヴィールス 2点


内容
初めて開催されたジュニアリーグ戦。世界ジュニア王者の近藤修司が不参加表明し、優勝者は近藤との世界ジュニア決戦が自然と決まる流れになっていた。大会は前評判通りカズと中嶋が勝ち上がった。20分の大接戦の中、最後はカズのファイナルカットで勝負が決まる。カズ・ハヤシが初代王者の栄冠に輝いた。

2007年大会

参加人数10人

[Aブロック]
  • 中嶋勝彦 4点
  • 土方隆司 4点
  • ペペ・みちのく 4点
  • エル・ノサワ・メンドーサ 2点
  • 近藤修司 6点 ※準優勝


[Bブロック]
  • ミゲル・ハヤシJr. 4点
  • AKIRA 3点
  • ディック東郷 5点
  • クリス・セイビン 6点 ※優勝
  • "brother"YASSHI 2点


内容
今大会は、初登場にメキシコ・アミーゴス、ディック東郷、AKIRA、近藤修司、そしてTNAで4度Xディヴィジョン王座に輝いているクリス・セイビンが参加し豪華な顔ぶれが出揃った。その初登場組が大活躍し、決勝は近藤とセイビンが勝ち上がる。パワーで推す近藤に対し、近未来的な独特な動きで翻弄するセイビン。最後はセイビンが得意のクレイドルショックで近藤を下し、初優勝を果たした。

2008年大会

参加人数10人

[Aブロック]
  • 土方隆司 3点
  • KAI 5点 ※優勝
  • エル・サムライ 4点
  • 近藤修司 4点
  • MAZADA 4点


[Bブロック]
  • カズ・ハヤシ 4点
  • T28 3点
  • フィル・アトラス 3点
  • シルバー・キング 6点 ※準優勝
  • TAKEMURA 4点


内容
土方隆司とエル・サムライのジュニアヘビー王座選手権試合後に、GURENTAIが乱入。そこへ正規軍も入ってきたが、口火を切ったのは「30過ぎのオッサン達が、何やってるんですかね~」と言ったKAI。これにより、本年度もリーグ戦開催が決定。初登場はKAI、エル・サムライ、T28、フィル・アトラス、シルバー・キング。決勝はKAIとシルバーで行われ、KAIが優勝した。

2009年大会

参加人数10人

[Aブロック]
  • カズ・ハヤシ 3点
  • KAI 6点
  • NOSAWA論外 2点
  • 歳三 0点
  • スペル・クレイジー 5点 ※準優勝


[Bブロック]
  • 近藤修司 6点 ※優勝
  • 大和ヒロシ 2点
  • MAZADA 2点
  • 稔 8点
  • ピーティー・ウィリアムズ 2点


2010年大会

参加人数12人

[Aブロック]
  • カズ・ハヤシ 5点
  • 大和ヒロシ 6点
  • スペル・クレイジー 5点
  • 稔 8点
  • アントニオ・トーマス 4点
  • 佐藤光留 2点


[Bブロック]
  • 近藤修司 4点
  • KAI 8点 ※準優勝
  • BUSHI 4点
  • MAZADA 4点
  • TAKAみちのく 4点
  • ジミー・ヤン 6点 ※優勝



ジュニア・タッグリーグ戦
全日本プロレスで1シリーズを通して開催されている、ジュニアヘビー級選手のタッグによる大会である。2006年のHOLD OUT TOURに行われ、2年ぶりの2008年にまた再開された。

2006年大会

参加チーム数6組
  • NOSAWA論外&MAZADA組 勝ち点6※優勝
  • 近藤修司&"brother"YASSHI組 勝ち点10
  • カズ・ハヤシ&TAKAみちのく組 勝ち点4
  • 石森太二&中嶋勝彦組 勝ち点4
  • AKIRA&土方隆司組 勝ち点4
  • 菊タロー&菊ジロー組 勝ち点2
内容
初めて開催されたジュニアのタッグリーグ戦。
途中でTAKAが負傷欠場するなどのアクシデントに見舞われ、東京愚連隊チームが優勝。

2008年大会

参加チーム数6組
  • 土方隆司&中嶋勝彦組 勝ち点6※優勝
  • カズ・ハヤシ&エル・サムライ組 勝ち点6
  • 近藤修司&シルバー・キング組 勝ち点5
  • NOSAWA論外&MAZADA組 勝ち点5
  • T28&KUSHIDA組 勝ち点4
  • KAI&大和ヒロシ組 勝ち点4
内容
NOSAWA論外の度重なる試合妨害により、カズ・ハヤシが2年ぶりの開催を宣言。
若手4人、シルバー・キング、エル・サムライなど初参加の選手達が大会を大混戦にしたが、土方隆司が所属選手の意地を見せ、初優勝。

2009年大会

参加チーム数6組
  • 稔&歳三組 勝ち点6※優勝
  • カズ・ハヤシ&近藤修司組 勝ち点6
  • NOSAWA論外&MAZADA組 勝ち点5
  • 渕正信&エル・サムライ組 勝ち点5
  • KAI&大和ヒロシ組 勝ち点4
  • ピーティー・ウィリアムズ&フィル・アトラス組 勝ち点4

2010年大会

参加チーム数5組
  • スペル・クレイジー&BUSHI組 勝ち点5※優勝
  • 近藤修司&大和ヒロシ組 勝ち点5※準優勝
  • カズ・ハヤシ&KAI組 勝ち点4
  • NOSAWA論外&MAZADA組 勝ち点2
  • 稔&ヘイト組 勝ち点2

2011年大会

参加チーム数5組
  • カズ・ハヤシ&KAI組
  • 近藤修司&大和ヒロシ組
  • スペル・クレイジー&BUSHI組
  • 稔&金本浩二組
  • MAZADA&スーパーヘイト組

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