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SWS




エスダブリューエス、メガネスーパー・ワールド・スポーツ、1990年 - 1992年、メガネスーパーがスポンサーとなり、天龍源一郎を核に全日本プロレス、新日本プロレスなどから選手を集めて
作られたプロレス団体である。団体のシンボルマークは恐竜 


概要

豊富な資金を元に既存プロレス団体から選手を引き抜くなど、「黒船」としてプロレス界に激震を引き起こした。それまでのプロレス団体とは違い、選手にかなりの高給を支払っていたことでも知られる。特にトップの天龍は、当時トップクラスのプロ野球選手並みの年俸だったとも言われる。

旗揚げ戦は、1990/9/29、天龍の出身地である福井県の福井市体育館にて『越前闘会始』のタイトルでプレ旗揚げ戦が行われ、同年10/9と10/10の2日間、神奈川県の横浜アリーナにて『闘会始'90』のタイトルで正式な旗揚げ戦が行われた。旗揚げ戦はテレビ中継され、木村匡也がラジオのDJ口調で実況した。1991年3月から1992年3月までWOWOWが月1回のペースで放映した。(旗揚げ戦以後の中継は後述)

相撲にちなんだ部屋別制度を採用(大相撲出身の天龍ならではのアイデアと言える)、この部屋同士の対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として、天龍源一郎率いる"レボリューション"、若松市政率いる"道場「檄」"、ジョージ高野率いる"パライストラ"の3つが置かれた。

しかし、その部屋別制度が派閥争いを招き、事実上の単独エースである天龍率いるレボリューションと、それ以外の部屋とで主導権争いが生じた。他にも、北尾光司の八百長発言などトラブルが続き、さらには興行の不振など、さまざまな問題から短期間で崩壊を迎えてしまう。

崩壊後は、引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした"レボリューション"所属選手主体のWARと、反天龍派の"道場「檄」"・"パライストラ"所属選手主体のNOWの2つに分立した。

団体としては短期間で崩壊してしまったが、低料金での道場マッチの開催や、WWF(現WWE)との提携でWWFのスター選手を招聘するなど、その存在意義は大きかったと思われる。


主な出来事

1990年

  • 5/10-東京・虎ノ門のホテルで「株式会社・メガネスーパー・ワールド・スポーツ設立発表会」が開かれ、田中八郎メガネスーパー代表取締役社長( - 2010/12/17)、富永巽総務部次長、所属選手天龍源一郎が出席し、SWSの発足を発表(資本金1千万円、社長田中氏、代表富永氏)。
  • 9/29-福井市体育館(天龍の出身県)でプレ旗揚げ戦『越前闘会始』を開催。
  • 10/18・10/19-横浜アリーナで旗揚げ2連戦。
  • 11/10-新横浜仮道場で若手選手主体の道場マッチ『登竜門』を開催(この日含め計5回開催された)。
  • 11月20日-アメリカWWF(現・WWE)との業務提携を発表。

1991年

  • 3/13-新UWF藤原組(後のプロフェッショナルレスリング藤原組)と業務提携。
  • 3/30-WWF、東京ドームとの共催で『レッスル・フェストin東京ドーム』を開催。藤原組が初参戦。
  • 4/1-兵庫県・神戸ワールド記念ホールで『レッスル・ドリームin神戸』を開催。藤原組所属の鈴木みのるとの一騎打ちでのアポロ菅原の不可解な試合放棄事件や、北尾光司対ジ・アースクェイク・ジョン・テンタ戦で、北尾が暴走の末反則負けとなった挙句に『八百長野郎』との暴言を放ったいわゆる『北尾事件』が発生。トラブルが連発した。
  • 4/4-緊急理事会で北尾の解雇を決議。
  • 7/19-田中社長が退任しオーナーとなり、新社長に天龍が就任。
  • 8/9-横浜アリーナで旗揚げ1周年記念大会『紀元一年』を開催。
  • 10/14-メキシコEMLLとの業務提携を発表。これに伴い、9月にメキシコUWAからEMLLに移籍した浅井嘉浩(後のウルティモ・ドラゴン)の参戦も決定。
  • 12//12-2度目の東京ドーム進出、『スーパー・レッスルin東京ドーム』を開催。

1992年

  • 5/14-選手会長であった谷津嘉章が辞意。天龍派『レボリューション』と谷津・ジョージ高野派『パライストラ』『道場・檄』の対立が表面化(後に谷津と仲野信市はSWS退団に追い込まれる)。
  • 5/25-東京・赤坂のホテルで、6月シリーズをもってSWSとしての興行活動の休止、天龍派(後のWAR)と高野・鶴見五郎派の『パライストラ』『道場・檄』連合(後のNOW)の2団体へ分裂が決定。
  • 6/19-長崎国際体育館大会をもって、SWSとしての興行活動終了。

他団体への影響

当時ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の天龍をはじめ、中堅選手・スタッフを多く引き抜かれた全日本プロレスは、一時崩壊の噂も流れた。しかし、残留した三沢光晴・川田利明と鶴田との抗争を軸に据え、残った選手の奮闘などもあって勢いを盛り返した。馬場は1999年に没するまで、天龍以下の離脱組を再び全日本のリングへ上げる事はなかった。

新日本プロレスからも選手が引き抜かれたが、過去の経緯からこの手の事に慣れていた新日本フロントは早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している。SWSは武藤敬司、藤波辰巳(現・辰爾)の獲得も狙っていたという説もある。天龍・武藤の「2本柱」は、後に全日本プロレスにおいて、一時的に実現している。

UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会(U-COSMOS)のメインスポンサーを務めるなど友好な関係であったこともあって選手引き抜きは行わなかったが、その縁からSWSはUWF選手の出場を計る。のち藤原喜明の貸し出しが発表されたが、それがUWF内部に選手とフロントの関係悪化を招き、第2次UWF崩壊・UWF分裂の遠因を作ってしまうことになった。

最終的にUWFが分裂に発展し、藤原・船木誠勝・鈴木みのるらはメガネスーパーのスポンサード(事実上の傘下団体)を受けて新UWF藤原組(後にプロフェッショナルレスリング藤原組と改称)を旗揚げした。形式上のSWSとの業務提携を受けて、藤原組は当初「1か月のうち1週間をSWSが拘束し興行に参戦」する予定であったが、神戸大会で発生した鈴木対アポロ菅原戦での菅原の不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係に亀裂が入り、藤原組は年に数回SWSへ参戦するに留まる結果となった。


「週刊プロレス」との軋轢

SWS創立当時、これを批判的な論調で取り上げたのが「週刊プロレス」である。同誌編集長であったターザン山本は全日本プロレスの社長であったジャイアント馬場から金銭を受領し、その見返りとしてSWSに対するバッシングを開始。「『プロ(=プロレス)はお金である』ということがはっきりした」と表紙に掲載するなど、批判的な論陣を張った。週刊プロレスが喧伝した『SWS=金権プロレス=悪』というイメージは、天龍の引き抜きならびにその後も続いた既存団体からの実質的な引き抜きにネガティブな印象を抱いていた多くのプロレスファンに支持され、SWSは厳しい立場に立たされることとなった。

「週刊プロレス」に掲載されたSWS東京ドーム大会の広告を巡るトラブルを契機に、SWSは「週刊プロレス」に対して取材拒否を通告。これを受けて「週刊プロレス」は直近の号で、真っ黒な背景に『2/15の午後、SWS代表取締役田中八郎氏より取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました。』と表紙に大書、誌面では事態の経緯とともに関係修復を試みている旨を記したものの、これより数週後の号の誌面で「SWSに関する一切の情報の掲載を控えさせていただきます」と山本の名前で回答、双方の関係は完全に決裂した。この取材拒否はSWS崩壊後、さらには後続団体のWAR創立当初まで続くことになった。

一方、「週刊プロレス」のライバル誌である「週刊ゴング」は、全日本時代において"天龍番"であった小佐野景浩が編集長だったこともあってか、崩壊までSWSの記事を掲載している。

なお、2000年にベースボール・マガジン社が発行した「週刊プロレス スペシャル3」には、田中本人への単独インタビューが巻頭記事として掲載されている。田中曰く、同誌の取材に応じたのは「プロレス界をやめるときに正式な挨拶をしていなかったから、こういった形で挨拶が出来れば」とのことである。なお、山本は、SWS崩壊後に「今後週刊プロレス誌上で実名を上げてのバッシング活動を行わない」約束の見返りとして田中社長から1年間に渡って月50万円以上を受け取っていた、と後に暴露本で告白している。


早期崩壊の経過と原因

SWSが約2年という早期で崩壊してしまった要因として、天龍派『レボリューション』と反天龍派『道場・檄』『パライストラ』の対立が大きいと言える。 純粋な部屋対抗戦の域ならまだしも、特に天龍派にマッチメイクなど主導権を握られていた反天龍派の不信感は根強かった。成り立ちから考えれば、三道場は対等な立場であるのが本来の姿である筈だが、マッチメイク担当を『レボリューション』に所属していたザ・グレート・カブキが務めており、集客的な面もあって天龍中心のマッチメイクに傾向する形が強かった。これに対して反天龍派の一部の選手は田中社長に直訴する事で、決定事項が覆る様な事態も少なからずあったと言われている。

また、三部屋それぞれの道場が用意できなかった事も『部屋の派閥化』傾向に拍車をかける形になった。旗揚げ当時のプランニングでは、三部屋それぞれに専用道場を全国各地へ建設し、人材育成と選手による社会奉仕構想も練られていたが、結局、旗揚げ当初に建設された新横浜の仮道場、さらには1992年4月に川崎市・百合ヶ丘に総工費7億円をかけて建設された本道場(当初は『レボリューション』専用となる予定だった)を各道場毎に使い回しせざるを得なかった。この結果、部屋毎の独立色を打ち出せなかった事で「派閥の温床」になってしまった事も事実であった。

『北尾事件』以降、道場対抗戦にとらわれないマッチメイクも試みられていたが、依然として派閥間の対立が改善される事無く、遂には1992年5月14日、選手会長であった谷津嘉章の「選手会長辞任、SWS退団」発言で一気に対立が表面化する形となった。谷津が会見の席上、天龍を批判した事で天龍派と反天龍派の亀裂修復は事実上不可能となり、これ以降、崩壊までの大会では道場間の対抗戦は組まれず、天龍派・反天龍派がそれぞれカードを組む形で興行が行われる形となった。その様な中で会社内部では、8月に予定されていた興行予定をキャンセルするなど、SWSの幕引きへ向けて動きが進みつつあった。

8/22の後楽園ホール大会では、開始前に内部混乱の責を取る形で谷津と同調する仲野信市が辞表を手に「引退」を表明した。当時、マスコミやファンは天龍派擁護の声が強く、谷津らへの風当たりは強かった。同大会で組まれた谷津・仲野の『SWS引退試合』では観客から野次やブーイングの中で行われるという異例の事態となった。谷津、仲野はこの試合以降、暫くプロレス業界からフェードアウトする形となった。

8/23、SWSでは事態収拾の為緊急理事会を招集、その席でSWSの団体活動休止と分裂(事実上の崩壊)が決定(会見は2日後の25日に行われた)。天龍派は『レボリューション』を母体に『WAR(レッスル・アンド・ロマンス)』を、反天龍派は『道場・檄』『パライストラ』と合同して『NOW(ネットワーク・オブ・レスリング)』をそれぞれ設立する事となった。SWSの母体であるメガネスーパーはそれぞれ各団体に対し資金援助を行ったがその援助も期間限定のものとなり、WARには2年間、NOWには1年間のスポンサー料を援助した形に過ぎなかった。

SWSの団体活動は6/19の長崎国際体育館大会をもって終了。また、事実上のSWS傘下団体となっていた藤原組も1992年12月に内紛が発生し興行活動を停止。メガネスーパーはプロレス業界から完全撤退となった。


その他

  • 上田馬之助は、SWSが失敗した原因として、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
  • SWSは一プロレス団体に思われがちだが、正確にはメガネスーパーによるスポーツ事業を扱う会社であり、その内の「プロフェッショナル・レスリング事業部」という一部門が、プロレス団体としての機能を持っていた(他にゴルフ事業部があったもよう)。プロレス団体としての活動を停止後も、SWSは会社組織としてはしばらく残り、ただひとり会社に残留したドン荒川は、「SWS所属」を名乗って活動していた。
  • 創立直後に、成文化された公式ルールを制定。これは旗揚げ戦のパンフレットに掲載された。
  • 現在の各団体のビッグマッチに欠かせない『一本花道』を日本で初めて採用したプロレス団体でもある。提携していたWWFの演出方法を参考にしたもので、1991年6月10日の愛知県体育館大会から採用された。
  • 新横浜の仮道場で開催された道場マッチ『登竜門』だが、若手選手主体で行われ、天龍を始めとするトップ選手達は出場しなかったが、道場を一般公開して興行を行うという目新しさと、500円という低料金での入場料で、観客を集めた。現在、道場を持つ団体が頻繁に開催する道場マッチの先駆けとも言える。
  • テレビ中継に関しては、プレ旗揚げ戦「越前闘会始」を、地元の福井放送のみで後日放映したのが最初である。同様の形で1990年11月に行われた「浜松闘会始」も地元局のみで後日放映されたが、当初予定されていた静岡第一テレビではなく、テレビ静岡で放映された。
前述した旗揚げ戦の中継は、2日にわたった大会を編集して、テレビ東京の「日曜ビッグスペシャル」の枠で放映したもの。前出の木村匡也のほか、杉浦滋男、四家秀治が実況を務めた(杉浦は団体後期の中継でも実況を担当)。なお、番組内で付けられていた木村匡也の肩書きは「SWS専属アナウンサー」だった。
1991年3月30日からはWOWOWで放送開始。(実況:伊津野亮 解説:菊池孝、牧元一、林家しん平)。第1回目は1991/3/30の「レッスルフェストイン東京ドーム」大会を生中継で放送した。その後は月1回・120分枠または90分枠の録画中継が行われたが、1992/3/28「昇龍激闘」3/18新潟大会の放送をもってWOWOWでの放送を終了した。さらに後にはテレビ東京と契約し(実質的に復帰)、「激闘SWSプロレス」のタイトルでやはり月1回・60分枠の中継(概ね月曜深夜)が開始された。「激闘SWSプロレス」は、当時、団体そのもののスポンサーになって間もない西松建設が、番組を単独で提供したが、放送枠内で必ず1回は、メガネスーパーのCMを流していた。
  • またテレビだけでなく、ラジオ局の文化放送でも、週1回の30分枠で、SWSの情報番組があった。試合の実況中継(もちろんラジオ向けで音声のみ)も交えた珍しいスタイルだった(SWS崩壊後はWAR、NOW両方とも中継した)。
  • Vジャンプの創刊号(増刊号時代での創刊号)にて、SWSを舞台にしたプロレス漫画『闘竜王(ティラノ)ザウラー』(画:黒田ひろし)が掲載された。恐竜をモチーフにしたコスチュームに身を包んだ青年が、SWS崩壊を狙う悪の団体と戦うというストーリーで、タイガーマスクのようにタイアップし、現実とリンクするかと思われたが、創刊号での掲載後、不定期に2話が掲載された後、終了している。

認定タイトル

  • SWSタッグ王座
  • SWSジュニアヘビー級王座

WWF(現WWE)と業務提携を結んでいた関係で、SWSの王座はWWFが認定する王座とされていた。なお、WWFとの提携が決まった後、新日本プロレスが返上し、休眠状態であった、インターナショナル・ヘビー級、インターナショナル・タッグ、ジュニアヘビー級の3つの王座を、SWSで復活させようとするプランが持ち上がったが、こちらは立ち消えとなり、独自の王座を認定している。また、タッグとジュニアヘビーの王座は作られたが、ヘビー級のシングル王座は認定されないまま、団体は活動休止・解散となっている。


SWSの幻想と実像
日本マット界を震撼させた企業プロレスとは何だったのか!?
小佐野景浩
SWSの幻想と実像


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所属していた選手/
スタッフ

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レボリューション



天龍 源一郎(道場主・理事会長・選手会長・取締役→道場主・社長)
1950/2/2

日本の元大相撲力士、現プロレスラー。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重110kg)。

多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、第一線で活躍し続け日本プロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として、一目置かれる存在である。


ザ・グレート・カブキ(選手会編成部長・マッチメーカー→フリー)
The Great Kabuki
1948/9/8

本名:米良 明久(めら あきひさ)は、日本のプロレスラー、レフェリー。現在、プロレスラーとしてはセミリタイア状態。

宮崎県延岡市出身。

アメリカでも大きな成功を収めたレスラーである。東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持つ、代表的なペイントレスラーの一人。

串焼きとちゃんこ かぶき
グレートカブキの店


北尾 光司(中途入団→中途解雇)
1963/8/12

三重県津市出身で立浪部屋所属の元大相撲力士で第60代横綱・双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)、元プロレスラー、元総合格闘家、元スポーツ冒険家。現在は大相撲立浪部屋のアドバイザー、ナイフ評論家。


阿修羅・原(中途入団)
1947/1/8

元プロレスラー。ラグビーの日本代表選手を経てプロレスに転向した。本名は原 進(はら すすむ)。長崎県北高来郡森山町(現諫早市)出身。


石川 孝志(選手会会計・カブキ降板後のマッチメーカー)
1953/2/5

山形県東田川郡藤島町(現在の鶴岡市)出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代は、大ノ海の四股名で最高位は前頭4枚目。後にプロレスラーに転向し、特に石川敬士のリングネームで知られる(隆士、また本名の孝志の場合もあり)


冬木 弘道
1960/5/11 - 2003/3/19

東京都江東区生まれ、神奈川県横浜市育ち。横浜商科大学高等学校出身。身長180cm、体重128kg。


北原 光騎
1964/3/9

福岡県福岡市出身の男性プロレスラー。本名は北原 辰巳(きたはら たつみ)。身長182cm、体重110kg。血液型AB型。


折原 昌夫
1969/6/16

群馬県邑楽郡出身・フリーランスのプロレスラーである。


ウルティモ・ドラゴン(2代目ザ・タイガー)(EMLL極東担当)
Ultimo Dragon
1966/12/12

日本のプロレスラー。本名は浅井 嘉浩(あさい よしひろ)。愛知県名古屋市港区出身。特に覆面レスラーとして、日本国内だけでなくアメリカ、メキシコでも著名な存在。得意技の「ラ・ケブラーダ」は、アメリカマット界では「アサイ・ムーンサルト」と呼ばれているが、その名は本名の「浅井」から取られている。

ウルティモ・ドラゴン ブログ


平井 伸和
1969/12/30

日本のプロレスラー。東京都目黒区出身。血液型はA型。

SWS所属として1991/4/25にデビュー。SWS崩壊後はWAR等で活躍し、現在は全日本プロレスで戦っている。

平井伸和ブログ


  • 中原敏之
  • 安良岡裕二


道場「檄」



若松 市政(道場主・選手会管理部長・選手会副会長・取締役→辞任)
1942/1/1

日本の元プロレスラー、マネージャー、現政治家(北海道芦別市議)である。北海道函館市出身。


ケンドー・ナガサキ(選手会編成部長)
1948/9/26

桜田 一男(さくらだ かずお )は、日本のプロレスラー。本名(戸籍上の表記)は櫻田 一男(読みは同じ)。北海道網走市出身。のリングネームで知られる。


鶴見 五郎(道場主代行)
1948/11/23

日本の男性プロレスラー、ジム経営者。神奈川県横浜市出身。本名は田中 隆雄。身長181cm、体重135kg。


仲野 信市
1963/3/14

日本の元プロレスラー。神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。身長185cm、体重110kg。血液型O型。


高木 功/(中途解雇)
1961/11/8

大阪府守口市出身の男性プロレスラーで、元大相撲力士である。身長190cm、体重146kg。

「空爆重戦車」のニックネームを持つヘビー級の選手で、かつては全日本プロレス、ドラディションに所属、主戦場としていた。

大相撲時代は、高田川部屋に所属し、四股名は卓越山吾郎(たくえつやま ごろう)であった。最高位は西十両5枚目(1985年11月場所)。


維新力 浩司(引退→レフェリー)
1931/1/24

日本のプロレスラー、バー店主。身長175cm、体重81kg。東京都杉並区出身。本名は飯橋 浩司

大鳴戸部屋所属の元大相撲力士。最高位西十両筆頭(1989年11月場所)。

維新力の店


畠中浩(現:畠中浩旭)
1969/1/15

畠中 浩旭(はたなか ひろあき)は、北海道出身のプロレスラー。


川畑 輝鎮
1945/4/29

日本の男性プロレスラーである。本名は川畑 輝(かわばた ひかる)。鹿児島県出身。最終学歴は専修大学卒業。


  • 山中鉄也


パライストラ



ジョージ高野/ザ・コブラ(道場主)
1958/6/23

高野 讓治(たかの じょうじ)は、福岡県北九州市出身のプロレスラー、元俳優、元大相撲力士。大相撲時代の四股名は高野(たかの)。


高野 俊二
1964/2/16

日本の男性プロレスラー。本名は(たかの しゅんじ)。福岡県北九州市出身

キャッチフレーズは野良犬。実兄のジョージ高野(ザ・コブラ)もプロレスラー。


佐野 直喜
1965/2/2

北海道苫小牧市出身。プロレスリング・ノア所属。プロレスラーとしてのキャリアにおいて、様々なリングネームを名乗っているが、現在は佐野 巧真(さの たくま)としての活動で知られる。


大矢 剛功
1964/7/2

おおや ひさかつは、日本の男子プロレスラーである。石川県金沢市出身で、現在は兵庫県神戸市在住。身長185cm、体重105kg。現在はフリーランスとして日本の各団体に参戦している。かつての本名は大矢健一であったが、法的手続きを執り、本名も「大矢剛功」に変更している。

大矢剛功ブログ


アポロ菅原(フリー→所属)
1954/2/10

日本のプロレスラー。本名は菅原 伸義。秋田県男鹿市出身。


新倉 史祐
  • (フリー→所属)

1957/8/23

神奈川県横浜市出身の、元プロレスラー。186cm、108kg。


片山 明
1964/7/12

新日本プロレス、SWSに所属した元プロレスラー。


ドン荒川
1945/3/6

日本のプロレスラー。本名は荒川 真(あらかわ まこと)。鹿児島県出水市出身。


練習生

  • 直井敏光(1966/5/6 - 1993/1/8)
  • 猪俣弘史


レッドシューズ海野-レフェリー
1967/2/16

海野 宏之(うんの ひろゆき)は、日本のプロレスのレフェリー。埼玉県鳩ヶ谷市出身。身長173cm、体重76kg。「(レッドシューズうんの)」のリングネームで新日本プロレスに所属している。


鳴海 剛-リングアナウンサー
1965/8/27

本名渡邉正剛は、新潟県出身の俳優、モデル、タレント。事務所はゴーイング。 20歳の頃にモデルとしてデビューし、25歳のときメガネスーパーが母体のプロレス団体、SWSプロレスのリングアナウンサーのオーディションに合格し、旗揚げから務める。趣味は乗馬、ラケットボール、トレーニング。

身長185cm、血液型はAB型。

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WAR

 



WAR(ダブル・エー・アール)は1992年に天龍源一郎がSWSの解散を受けて旗揚げしたプロレス団体。
所属選手のほとんどは、旧SWSの"レボリューション"に所属していた。
団体名は当初「Wrestle And Romance」の略とされていたが、後に「Wrestle Association R」の略称と変更   


歴史

旧SWS崩壊後、その一派である『レボリューション』のメンバーが中心となり、1992/7/14の後楽園ホール大会で旗揚げした。SWS時代から友好を保っていたWWF(現:WWE)の選手を招聘したり、SWSの親会社であったメガネスーパーからも期間限定ながら資金援助も受けていたが、旗揚げ後間もなくして、天龍を中心に他団体へ積極的な交流路線に乗り出し、順調な観客動員を記録した。

旗揚げ直後、越中詩郎らの平成維震軍(反選手会同盟)が参戦して来たことを契機に、天龍らWAR勢は新日本プロレスに積極的に参戦、後に長州力との6年ぶりの対決(1993年)やアントニオ猪木との対戦(1994年)を実現させた。

新日本プロレスとの対抗戦をひと段落させた後は、FMWをはじめとしたインディペンデント団体、UWFインターナショナル、女子団体であるLLPWなど幅広く交流を進めた。その中でも天龍は団体の代表として、大仁田厚との電流爆破デスマッチ(1994年)、高田延彦との二度にわたる一騎打ち(1996年)などジャンルを問わず、精力的に参戦した。また、団体内対抗勢力として、それまで天龍の側近的存在であった冬木弘道が邪道、外道らとともに冬木軍を結成し天龍と対決する構図を作り上げ、冬木は『理不尽大王』の異名を取るなど脚光を浴びた。このほか『相撲軍団』『反WAR軍』なども活動していた。これ以外にも、LLPWとの男女混合タッグトーナメント開催や、6人タッグのベルト設立、一連の抗争劇による武井正智社長自身の試合出場など幅広い路線で話題を振り撒いた。しかし、これらの路線の全てが成功したわけではなく、徐々に観客動員数は下降線を辿っていった。

もともと天龍源一郎を一枚看板とした団体であり、団体内におけるライバルや後継のエース(荒谷信孝を売り出したが、大成せず)が育たなかったことが、最終的に観客動員の低下につながった。また旗揚げ当初は社長兼エースである天龍を中心として一枚岩を誇っていたが、天龍の義弟である武井正智が社長に就任した頃から団体内部に亀裂が生じ、1994年には石川敬士が離脱し東京プロレスを設立。さらに後に冬木弘道、折原昌夫らの退団を招く形となった。

1998年に全選手の解雇を発表。以後は団体ではなく興行会社として2000年7月のWAR8周年記念大会まで活動。団体として余力のある内に経営を停止した。2006/7/27後楽園ホールで、DRAGON GATEの支援を受け、6年ぶりとなる興行が行われた。会場は旧来のファンが集い超満員となり、天龍自身も2試合に出場した。これによりWARは団体としてのけじめをつけたとして、活動を停止した。なお、WARではIJ王座というタイトルをシングル・タッグともに有していたが、天龍の意向により団体活動終了後もIJ王座は主にDRAGON GATEを中心として継続することとなった。


エピソード

『夢の懸け橋』を巡る対応

1995/4/2に東京ドームで開催されたベースボール・マガジン社主催の『夢の懸け橋』興行についてはWARは参加せず、当初より決定していた隣の後楽園ホール大会を優先した。当初は主催者側より参加要請されたものの、SWS時代に『週刊プロレス』編集長であったターザン山本(山本隆司)の編集方針に対して取材拒否をした関係から、参加を拒否した。この日のWAR側の興行には新日本プロレスから長州力や越中詩郎らが参加し、こちらも満員を記録。会場に入りきれないファンのために、後楽園ホール内の別の場所でクローズドサーキットによる同時上映も開催されている。武井が後年の発言で、参加要請に難色を示したところ、ターザン山本から「これでWARもマイナーに追い込むしかないね」といった発言をされ、この発言を伝え聞いた天龍も激怒し、参加拒絶となったと語っている。因みに、参加拒否を明確にした直後、天龍は実話雑誌のインタビューで、WAR(天龍)が『週刊プロレス』の取材を解禁した事情について、平成維震軍のWAR参戦により同誌の方から取材させてほしいと依頼してきたと話している。なお、取材解禁後初のターザン山本による天龍へのインタビューは、ぎこちない雰囲気のなかで行われたと武井は証言している。 また、翌1996年に新日本プロレスが起こした『週刊プロレス』に対する取材拒否騒動に対しても、UWFインターナショナルとともに同調して同誌に取材拒否を行った。


『プロレス連合會』 の結成

1996年、当時の東京プロレスのオーナーとIWAジャパンを離脱した佐藤昭雄により『日本プロレスリング共同機構(ファイティング・フォー・フューチャー、略称『FFF』)』の設立が発表された。これは乱立するインディペンデント団体を統一する受け皿として設立したもので、佐藤の動きに呼応する形で、WARを離脱して間もない冬木軍やWARにも参戦していたターザン後藤ら『真FMW』も参加を表明した。これに対し、東京プロレス設立の経緯に加えて、看板選手であった冬木軍を事実上引き抜かれたのも同然と考えたWARはFFFに対抗するべく、交流するインディ諸団体に働きかけてインディ団体の集合体『プロレス連合會』を発足させた。これにはIWAジャパン、武輝道場、冴夢来プロジェクト、レッスル夢ファクトリー、大日本プロレスが加わった。連合會側は、FFFへの不参加を表明した石川敬士ら東京プロレスの残党を参戦させるなど、FFFとの対決姿勢を見せたが、発足わずかで、大日本が方向性の相違から連合會から離脱するなど足並みが乱れ、さらには肝心な対抗相手であったFFFが資金難などから旗揚げ戦も行えずに崩壊したことから、連合會も有名無実化し翌年には自然消滅の形となった。

認定タイトル

  • WAR認定日本J1王座
    この王座に使用されたベルトは、テレビ番組「開運!なんでも
    鑑定団」に出品された力道山時代の日本ヘビー級王座の
    ベルトを、その所有者の承諾を得て借用したもの。
  • WAR認定インターナショナルジュニアヘビー級王座(IJ王座)
    DRAGON GATEに移り、一度封印された後、2010年に
    天龍プロジェクトで復活。
  • WAR認定インターナショナルジュニアタッグ王座(IJタッグ王座)
    2007年にDRAGON GATE認定のオープン・ザ・ツインゲート統一
    タッグ王座に統一。
  • WAR認定世界6人タッグ王座
    2010年に天龍プロジェクトで復活。

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WAR
出場レスラー

 



SWSを参照
  • 天龍源一郎
  • 阿修羅・原(引退)
  • 石川敬士(引退)
  • ザ・グレート・カブキ(引退)
  • 冬木弘道
  • 北原光騎(フリー)
  • ウルティモ・ドラゴン(闘龍門所属)
  • 折原昌夫(メビウス所属)
  • 平井伸和(全日本プロレス所属)
  • 安良岡裕二(引退)
  • 伊藤好郎
  • 猪俣弘史
  • 維新力浩司(フリー)
  • 嵐(二代目)
  • 海野宏之(レフェリー)



スーパー・ストロング・マシン
1956/12/20

平田 淳嗣(ひらた じゅんじ)は、日本の男性プロレスラー。神奈川県平塚市出身。新日本プロレス所属。


栗栖 正伸
1946/11/15

日本の男性プロレスラー。鹿児島県肝属郡出身。身長175cm、体重100kg。


アニマル浜口
1947/8/31

日本の元プロレスラーでボディビル指導者。本名は濱口 平吾(はまぐち へいご)。ボディビルダー出身で国際プロレスや新日本プロレスで活躍し、闘将のニックネームで呼ばれた。武蔵野学院大学日本総合研究所客員教授。アニマル浜口トレーニングジム主宰。女子レスリング選手の浜口京子は長女。


大刀光 電右エ門
1963/9/12

千葉県千葉市出身で友綱部屋所属の元大相撲力士、現在はプロレスラーで、リングネームは大刀光(たちひかり)。本名は河原 修(かわはら おさむ)。大相撲時代は身長195cm、体重148kg、プロレスラー時代は身長195cm、体重135kg。得意手は右四つ、上手投げ、波離間投げ。最高位は西前頭15枚目(1993年7月場所)。


邪道
1968/9/28

本名は秋吉 昭二(あきよし しょうじ)。東京都港区出身。


外道
1969/2/20

本名は高山 圭司(たかやま けいじ)。東京都武蔵村山市出身。


タイガー戸口
1948/2/7

東京都葛飾区出身のプロレスラー。キム・ドクタイガー・チャン・リーのリングネームでも知られる。


荒谷 望誉
1968/3/7

神奈川県茅ヶ崎市出身で九重部屋所属の元大相撲力士、全日本プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代の四股名は荒谷 信孝(あらや のぶたか)、本名は荒谷 信孝(あらや のぶたか)。渕正信、菊タローと会場を暖める試合を展開している。哀愁を感じさせることができる貴重な存在。


ザ・グレート・シンジャ
1953/12/13

佐藤 昭雄(さとう あきお)は、日本のプロレスラー。


石井 智宏
1975/12/10

神奈川県川崎市出身。身長170cm、体重100kg。リキプロ所属。


超電戦士バトレンジャー
1970/7/19

上野幸秀(うえのゆきひで)は、日本のプロレスラーである。神奈川県横須賀市出身。 FMW在籍当時は、黄緑色のパンツやオレンジ色のパンタロンを着用していた。得意技は「G・T・H」。


一宮 章一
1969/2/14

日本のプロレスラー。東京都北区出身。


嵐(初代)
1957/4/3

大黒坊弁慶(だいこくぼうべんけい)は、日本の男性プロレスラーである。本名は、小谷一美(こたに かずみ)。和歌山県日高郡出身、身長190cm、体重150kg。



1969/10/19

BADBOY非道(バッドボーイひどう)、本名:高山 秀男(たかやま ひでお)は、日本の男性プロレスラー。大阪府大阪市出身。


片岡 亮
1973/6/3

日本の格闘家、ジャーナリスト。千葉県生まれ。身長193cm、体重105kg。リングネームは片岡 幻亮。拳論所属。


  • 板倉広
  • 松岡則生
  • 田村忍
  • 菊地淳
  • 坂下博志(相撲軍団マネージャー)
  • 増山祥雄(引退)
  • 竹崎純外(トップガン、引退)
  • 出戸裕一(引退)


スタッフ


松井 幸則
1972/12/18

日本のプロレスのレフェリー、プロモーター。岩手県宮古市出身。身長172cm、体重88kg。血液型B型。DDTプロレスリング所属。

松井幸則ブログ


2代目三遊亭 圓丸
1966/11/25

さんゆうてい えんまるは、落語の名跡。当代は2代目(本人のオフィシャルHPのプロフィールやその他資料では3代目となっているが、落語芸術協会のHPでは2代目となっている)。
WARや新東京プロレスのリング・アナウンサーも務めていた。

グレート小鹿(WARの営業部長)
1942/4/28(1940年生まれという説もある)

本名:小鹿 信也(こしか しんや)北海道函館市出身。大日本プロレス代表取締役社長。


  • 木村秀夫(リングアナウンサー)
  • 中村吉佐(リングアナウンサー)
  • 村中行宏(リングアナウンサー)

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